第29話 天下分け目のファンファーレ!⑥

 スタジオの入っているビルの前で、ミノルが待っていた。


「武蔵ちゃん、こっちよこっち!」

「ちゃん付けはやめろ」

「手をつなぐなんてやるわね。あとで、ルイちゃんに告げ口しちゃおっと」


 指摘されて、社長はさくらの手を乱暴にほどいた。


「ばか。ルイはどうしている?」

「片倉さんがそばに付き添っているんだけど、ぐったりしていて顔色も悪いの。立ち上がれないみたい。救急車、呼ぼうか」

「たぶん、貧血です! 入院していたとき、血中の鉄分値が低くて、強く警告されましたから。退院してからこんなに動いたの、初めてですし、体力も完全には戻っていなくて、それできっと」


 聞かれてもいないのに、さくらは大きな声で答えた。


「ぎゃあぎゃあうるさいな。愚民の小娘は黙っていろ、どけ!」


 社長は、スタジオに入るなり、ルイに駆け寄った。

 片倉を突き飛ばすようにしてルイの身体を覗き込む。


「ルイ、分かるか。俺だ、しっかりしろ」


 だが、返事はない。

 さくらはミノルの隣に立ち、スタジオの出入り口ドア付近で見守っていた。ほんとうは、もっとそばに行きたい。けれど、社長の存在がさくらを妨害する。


「行ってあげなさいよ。王子さまが目を覚ますには、怖くておっかない社長の怒鳴り声より、かわいい婚約者ちゃんのキスのほうが断然いいわ」


 ミノルはさくらを促した。


「でも」


 さくらは迷った。


「ルイには、さくらさんが必要です。どうか、私からもお願いします」


 片倉がさくらを迎えにきた。スタッフのほとんどが、さくらに注目している。私語はない。


 一歩ずつ、さくらは類に近づいた。歩みを進めるさくらのサンダル音だけが、スタジオ内に響いている。


 類は顔色を失い、真っ白である。息はあるものの、浅い。


「類くん」


 さくらは呼びかけた。


「類くん、私。さくらだよ」

「来るな。ルイはうちの商売道具だ。これ以上、傷つけることは許さない」

「社ちょ……武蔵さんには、話しかけていません。それに、こんなところで口論したくありません。今だけは、類くんのために協力しましょう」

「お前の口から『協力』なんていう、しおらしいことばが出るとはね」

「文句なら、あとで聞きます。しばらく、黙っていてください。類くん、類くん。聞こえる?」


 さくらは膝をついて、手を握る。指先がとても冷たい。

 そのまま、類の身体に抱きついた。体温を分け与えるように。


「……その声、さくら? さくら、どこへ行っていたの。急に姿が見えなくなったから、捜したんだよ」

「ごめんね、社長さんと少し、話をしていたんだ」

「ぼくのそばから、離れたらだめだよ。さくら、もっと抱きしめて。ぎゅっと。ぼく、さっきから頭がくらくらして、目の前が真っ暗で、周りがよく見えないんだ」


 おそれていたように、貧血らしい。


「こう?」

「うん。安心する。さくらのにおいだ。あたたかい。うれしい」


 類の両手が、さくらの身体をさぐるように動き、とてもくすぐったいけれど、だんだんと類の手にぬくもりが戻ってきた。


「おみず、飲みたい」

「うん、あるよ。ペットボトルから、飲めるかな」

「無理。口移し、して」

「えっ」


 スタッフ全員に注目されているのに。さくらは戸惑ったが、脇にいた片倉からミネラルウォーターが差し出された。


「……コップじゃ、だめ?」

「だめ。さくらの口移し」


 類が倒れたせいで、すべての仕事が中断されている。さくらは覚悟を決めた。

 片倉からペットボトルを受け取ると、キャップをえいっと開ける。ひとくち飲んで口の中にため、類の唇の奥に流し込んだ。うまくできなくて、少しこぼれてしまった。

 ひとすじの水が、唇から漏れ、顎そして首を伝って流れてゆく。


「あら、拭いてあげないと。赤ちゃんみたい、ルイちゃんってば。ねえ、さくらちゃん?」


 ミノルがタオルを貸してくれた。類は、さくらに世話されるがままになっている。


「もう一回、ちょうだい」

「はい」


 こうなったらとことん付き合おうと、さくらは肝を据えた。

 ふだんは仕事に熱心で、けれど強引でわがままな類が、さくらの前で子どものようにべったりと甘えている構図はスタッフを静まり返らせた。


 今度の口移しは長かった。気を取り戻してきた類が、さくらにしがみついたからだ。水を飲み干したあとも、さくらの頭を後ろから押さえ込み、離さないでいる。


「類、くん?」

「もうちょっと、このままでいて」

「で、でも。みんな、見ている、よ。多分」

「ぼくには、さくらがいちばんの薬なんだ。それとも、感じちゃう……とか。いけない子だね」

「ま、まさか」


「ふう……少しずつ、視界が開けてきた。さくら、そのワンピース、よく似合うね」

「ありがとう。サイズ、ぴったりだよ」

「でも、早く脱がせたい気もする。こんなにかわいいさくらを、ぼく以外の男には見せたくないし」


 もう一度、深く唇を重ね合うふたりを見て、片倉がスタッフに声をかける。


「撮影を中断させてしまって、申し訳ありません。ルイが『給水中』につき、いったん休憩しましょう! みなさん、スタジオを出ていただけますか? ルイ、さくらさん、五分後にまた来ます。さあ、社長も立ってください。ルイには、誰よりもさくらさんが必要なのです」


 不意に、類がさくらから離れ、さくらの身体を胸に抱く。


「社長、今までたくさん面倒をかけてきましたが、さくらのことだけは譲れないんです。さくらがいないとぼくは、ぼくでいられなくなる。北澤ルイどころか、柴崎類もぶっこわれてしまうんです」


「ルイ……」


 類に笑顔が戻った。やわらかくて、でも意志の強い笑顔。


「五分後に撮影再開しよう。片倉さん、ミノルさんだけは呼び戻してきて。メイク、直してもらいたい」

「できるか」


 片倉は類の顔色を窺った。


「うん。ぼくがやらなきゃ。大阪まで来た意味がない。ぼくの空けた穴は自分で埋める」

「そうですね、それでこそ北澤ルイです。社長も、行きましょう。ルイの精神統一のために、少しだけでもふたりきりにさせませんか」

「俺に指図するな」


 社長は立ち上がった。

 ひどく傷ついた表情をしていたが、社長の顔に戻った。


「私、認めてもらえるよう、がんばります。武蔵さん、私たちを見ていてください」

「お前たちは、まだ若い。必ず、別れさせる。覚悟しておけ」

「宣戦布告ですね。負けませんよ!」


 さくらは張り切って言った。


「かわいげのない娘だ。こんな庶民の、どこがいいんだか。ルイ、趣味が悪い。きれいなだけの女どもには、うんざりしたか」

「どうぞ、なんとでも。確かに、さくらは毎日新鮮で、あきることがないよ。説教してきたり、甘えてきたり。やさしかったり、つれなかったり」

「これ以上のスキャンダルは、モデル人生の破滅だ」

「まあ、それでも、ぼくは別にいいんですけどね」


「類くん、中途半端はよくないよ? 辞めるとしても、きちんときれいに辞めなきゃ」

「さくら。生意気な口は、ふさいじゃうよ? こうして」


 さくらは、類の唇を受け入れた。ほんとうに、いとおしい。なにがあっても、自分だけは絶対に類の味方だ。離れない。


 社長の足音が遠ざかってゆくのと同時に、ミノルがスキップしながら軽やかに入ってきた。


「きゃっ、ルイちゃんってば、また? 情熱的ね! さくらちゃんとの、あまーいキスがお薬だなんて。『給水中』じゃなくて『チュー吸いチュー』でしょ。もう、妬けるわーっ」

「ミノルさん、ありがとね。さくらをかわいくしてくれて。思わず、チューしちゃった」


 それから、さくらは類のそばを離れなかった。

 あからさまな嫌悪の視線にさらされもしたが、類が、片倉が守ってくれた。


 体調を取り戻した類のがんばりもあり、撮影は一時間遅れで終了した。

 最後に予定されていたインタビューは写真だけを撮り、残りは電話とメールで行うことになった。


 社長はスタジオを出たあと、戻って来なかった。東京へ帰ったと聞いたが、さようならのあいさつぐらいはしたかったのにと、さくらは残念に思った。あれでも、類の父親らしいので。事実、なのだろうか? こわくて、確かめられない。

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