第26話 天下分け目のファンファーレ!➂
その笑顔を、目に焼きつけたい。類の真剣な仕事を、いつまでも覚えていたい。
さくらは、休憩になったら類に渡そうと思って持っている、ミネラルウォーターのペットボトルを、ぎゅっと握った。
「さくらさん、少しよろしいですか」
片倉が、さくらの背後から声をかけてきた。
「事務所の社長が、あなたに話があるそうです。ルイは私が見ていますから、行ってくださいますか」
いやな単語を耳にした。『社長』。
「は……はい。社長さんも、大阪までいらっしゃっているんですか」
数瞬遅れたさくらの返事を、片倉は聞き逃さなかった。
「ルイの復帰仕事ですし、軽く見学に来たようです。やはり苦手ですか、社長のことが?」
「ええ。言いたいこと、はっきり言ってくれますし」
「今日はだいじょうぶですよ。その、とてもかわいい姿なら、社長もあなたに心をとろかせてしまうに違いありません」
片倉は、右手の親指と人差し指で、〇を作って笑顔を向けた。
「そ、そうでしょうか」
少しメイクをしてもらって、着替えただけなのに、とろかせる?
きれいにしてもらったことで、かえって社長の気を損ねるのではないだろうか。
「社長は、スタジオの外でお待ちです」
もう一度類を見守ったあと、さくらはペットボトルを片倉に預けた。
重い扉を開け、廊下に出た。熱気から解放され、飾り気のない廊下には一抹のさびしささえ漂っている。剥がれかけたポスター、黄ばんだ天井。事務的な蛍光灯の並び。
誰か、いる。
「お前、どこ見てんだよ」
不意に、目が合ってしまった。
腕を組んで壁によりかかり、不機嫌そうな声を発した男性がいた。三十代、ぐらい。背は、百七十センチ中盤。ゆるいウェーブのかかったブラウンの長髪に、とても整った顔をしている。
身につけているのは、仕立てのよい上等なスーツだということが、さくらにも分かる。足もとは、意外にもスニーカー。でも、とても高そうな。
……こわい。怒っているみたい。さっさと通り過ぎよう。
さくらは小さく会釈した。
社長はどこだろうか。
「俺をいつまで待たせるつもりだ。行くぞ」
男性は有無を言わせず、さくらの右手首をつかんだ。痛い。
「あの、私。約束をしていて。類くん……北澤ルイくんが所属している、事務所の社長さんと」
スーツの男は、スタジオの外に出ても歩みを止めようとしない。さくらは、腕を振りほどこうとしたけれど、よけいに男の爪が食い込んでくるだけだった。
「お願いです、放してください」
夏の強い陽射しが、容赦なくさくらに降り注ぐのを見て、男は建物の日蔭に入った。
「鈍感だな。まだ気がつかないのか……社長よ、私」
声色を変えてくれたので、さくらはようやく状況を理解した。
「だ……男装ですか、社長さん! 全然違和感ありません」
「当たり前だ、こっちが本性だ。俺は、男だからな」
「しゃちょうが、おとこのひと……嘘?」
「なにをそれほどまでに驚く。服を着替えるように、時と場に合わせて、見かけの性別を変えているだけだ。それから、『社長さん』はやめろ。お前にそう呼ばれると、気味が悪い。俺には、武蔵(むさし)という名がある」
社長が、男の人だった? さくらは声を失った。素敵な女性だとばかり思い、感心したり嫉妬していたのに。先日会ったときは、女装だったと? 信じられない。
社長は近くのコーヒーショップに入り、もっとも奥の席にさくらを座らせた。
「コーヒーでいいな。ホットか、アイスか? クーラー、寒くないか?」
「は、はい。だいじょうぶです。アイスをお願いします」
抑圧的な態度は、身近な誰かに似ていると感じたが、さくらが思い当たったのは、類だった。類は、社長に似ている。話し方、しぐさ、間合い、あらゆる言動がすべて類を思い出させる。
「見とれていたか。浮気な女だな」
その言い回しすら、類と同じだった。
「違います。類くんは、社長さんからいろいろ学んで、モデルになったんだなって」
「俺から、学んで?」
「はい。類くん、社長さんにそっくりです」
「へえ。鈍感なようで、意外と分かるのか。で、『社長』はやめろ」
社長は、にたりと笑った。
「……類くんを育てた、ってそんな意味だったんですね」
「雑談はもういい。まず、雑誌の話だ。ルイの記事が載った週刊誌、読んだか? 印刷は差し止めたが、見本誌が出たアレだ」
せっかく会話の糸口が見つかったと思ったのに、社長は糸を断ち切った。
「類くんから渡されて、ひととおりは読みました。でも、内容が下劣で、ひどいものでした。もちろんあれ、私ではありません」
「当然だ。マスコミにルイを売るような女は、俺が抹殺する。で、この女は芸能界から追放、引退させた。ルイの、遊び相手のひとりだったのに、逆上しやがって。お前たちのそばもうろつけないようにしたし、もう二度と芸能界で仕事はできないようにしてやった。喜べ」
コーヒーが運ばれてきた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます