第23話 苦い過去を乗り越えて

 水曜日。


 若い類は、快復への道を確実にたどっていた。予定通り、退院できるだろうと医師も言っている。実際、仕事を滞らせることはできない。北澤ルイ、ひいては事務所の信用問題にも関わる。大学も、あまり長く休むと、出席重視の授業では単位があやうくなる。


 この日も、さくらは自分の授業が終わったあとに、病院へ寄った。


「こんにちは、類くん……と、片倉さん?」


 病室には、マネージャーの片倉がいた。

 毎日、電話で体調の報告や仕事の打ち合わせはしている様子だけれど、わざわざ京都まで来るとは驚いた。次の日曜には、会うのに。


 珍しく、類も難しい顔をしている。ぎゅっと口を結び、腕を組んで。


「ああ、さくらさん。こんにちは、おじゃましています」

「はー。やれやれだね」


 大きなため息をついた類はさくらを見るなり、立ち上がった。


「外、行こう。さくら」


 屋上ならば、散歩の許可を得られた類は、さくらを誘った。点滴が外れているので、動きたいのだろう。


「でも、雨が降りそうだよ」

「いいから、行こう。じゃあ片倉さん、手配はよろしく」


 さくらの腕をぐいぐいと引っ張って、類は廊下に出てしまった。返事もしていないのに。腕をつかんでいないほうの手には、週刊誌が一冊、握られている。


 階段を乱暴に上がり、屋外へのドアを開く。


 屋上は広いけれど、誰もいなかった。

 半分ほどのスペースが緑地化されており、ハーブが植えられており、ちょっとした庭園風になっている。


「湿度が高いね」

「うん。梅雨だし」


 空は暗く、曇ってはいるものの、雨はまだ降ってきていなかった。湿気がじんわりと、肌にまとわりついてくる。


「そこに座って」


 類はさくらをベンチに座るよう、促した。どうやら、ふたりきりでしたい話があるようだ。


「ここ、ざっとでいいから読んでくれる? 明日発売の、見本誌なんだけど」


 さくらは、雑誌の渡された部分に目を通すことにした。


「これって、『ナントカ砲』の週刊誌、……え?」


『超人気モデル・北澤ルイの恋人、激白』なるスクープ記事が載っていた。

 けれど、さくらは知らない。さくらではない。

 過激なことばがいくつも並んでいるが、『恋人』なる女性の顔写真やプロフィールは掲載されていない。


「捏造、記事?」

「片倉さんに言われて、ぼくも初めて知って。でも、絶対にさくらじゃないと思っていたけど、これはちょっとないよね。『汚れた清純派』『喰い逃げ』『変態的性癖』とか、書かれていて、ぼくのさわやかイメージがぶっ壊れるじゃん」


 いや、テレビの生放送で婚約を言い出した時点で、すでに清純なイメージは剥がれてしまったと思うのだが。


「だったら、誰? インタビューを受けた女の子。話した人が、いるはずだよね」

「さあ?」


 類は即答だった。


「……あのさ。心当たりぐらい、ないの? ちょっとも?」


 ベッドの上での、ルイの行動が詳しい。たぶん、ルイが過去に関係した人なのだ。


「誰なのか、ぼくには全然分からないね。ま、社長が記事を握り潰したんで、明日発売の雑誌では差し替えになるよ。でも、こういう悪意も転がっているし、さくらも気をつけてねってこと」

「気をつけろったって、どう気をつければ? 敵はいつも、向こうからやって来るのに」


 ……あの人、かもしれない。自分には類の子どもがいるとわざわざ言ってきた、モデルの女性。片倉は、もうすぐ事情を説明できると話してくれた、例の件。思い出しただけでも、ずきりと胸が痛む。


 写真の女性といい、類のクラスメイトの女の子といい、類の周りには女の子が多過ぎる。

 類には、たくさん魅力がある。

 けれど、今の類は、自分と相愛なのに。そっとしておいてほしいのに。

 この種の嫉妬はきっと一生、さくらにつきまとうのだろうか。とても重い。


「恋愛経験が浅い私にも、だいぶ理解できてきた。類くんの恋人は、半端な覚悟じゃできないって」

「へえ。いい覚悟だね」

「でも、これだけは覚えておいて。私は、柴崎類のぜんぶが、だいすきだってこと。もちろん、『北澤ルイ』は類くんの一部。でも、類くんは類くんだから」


 類は、手で自分の口もとをおさえた。珍しく、顔が真っ赤だ。


「……さくら。ひとつ、言ってもいい? ぼく、後悔って、ほとんどしたことないんだけど、今だけは……過去を……女遊びを悔いている。こんなにぼくのことだけを思ってくれる、かわいい女の子と出逢えるなら、身を慎めばよかった」


 声が震えていた。目も、潤んでいる。


「片倉さんに、聞いたんだ。ずっと、さくらがひとりで悩んでいたこと。苦しめて、悲しませて、ごめん。しあわせにするって言ったのに、いきなり試練を与えてしまった。むだに嫉妬させるような軽い言動も、よくなかった。ぼくが、守らなくちゃいけない立場なのに。そうだよね、気をつけても限界があるよね、さくらじゃ無知……いや、無垢すぎて対応できないよね」


 心底、類は反省しているらしい。


「……もう、ぼくのことがいやなら、別れてあげる。玲なら、いつでもさくらを受け止めてくれるはず。片倉さんだって、さくらならいつでも迎えに来てくれると思う」


 類は、なにを、言っている?


 胸が痛い。引き裂かれそうだった。

 類と別れる? そんなの、考えたこともない。


「やめて。そんなこと、冗談でも二度と言わないで! 私が、経験不足で未熟だから、余計に傷つくんだ。もっと成長したい、だいすきな類くんの隣で」


 まっさらな素の表情でさくらを注視していた類だったが、一気に破顔した。無邪気な笑顔は、幼くさえ映る。


「やっぱり、さくらを選んでよかった。ちゃんと見てくれている。ありがとう。うれしいな。ねえ、ここ、誰も来ないね。仲よくしちゃおうか? 今、さくらのことが、すごくほしい」

「だ、だめだよ! こんなところで。しかも、この一週間で体重、いきなり五キロも落ちたって聞いた。絶対に無理しないで。なにかあったら、真っ先に教えて? 私、今の京都生活がすき。東京に戻されたくない。忙しくても、大変でも、ふたりでいたい」

「うん。同感。もっとさくらを頼るよ。夏休み、どこかへ旅行しようね」


 さくらの手の中から雑誌を取り上げると、類はさくらを抱き締めた。

 類のぬくもりが、さくらの心と身体をいやしてゆく。


「課題提出のごほうび、まだだったね。ここであげちゃう」

「うん、うれしい」


 じわじわと、類の熱が伝わってくる。


「よくがんばったね、さすが、ぼくのさくら。えらいよ」

「ん……」

「さくら、だいすき。絶対に離さない。別れてなんてあげないよ」

「私もだって。るいくん、だいすき」


 でも、雑誌の発売前に記事を抹消できたなら、わざわざ読みたくなかったのに。

 類に悪気はなかったと思うが、できれば知りたくなかった。類のことがだいすきで仕方ないのに、たまに憎らしいほど恨めしくもなる。


***


 予定の、土曜日。類は退院した。

 荷物が多いだろうと、玲が手伝おうかと連絡をくれたが、さくらは丁寧に断った。類は元気だし、荷物は持てる量しかない。


「やっと自宅だよ。ただいま、ぼくのさくら」

「おかえりなさい、類くん」


 まずは玄関先で、恒例のお帰りキスを交わす。

 類はそのままさくらを抱く気満々で、廊下に押し倒した。欲望に満ちた目が、ぎらぎらと光っている。


「病院じゃ、声を出せなかったから。大きい声でよがってみせて、ねえ?」


 退院直後なのに、やけに力が強い。


「だめだよ、類くんってば。病院の先生にも、注意されたばかりなのに」

「やりすぎ、厳禁ってか」


 病室のベッドで、シャワー室で、果ては屋上で、類はしつこくさくらを求めて来たので、看護師や医師に知られ、ついには『若いんだね』と、失笑されてしまった。受け入れてしまうさくらも甘いけれど、一刻も早く退院してほしかったのは、さくら自身かもしれない。


「さくらがかわいいから、いけないんだ」

「人のせいにしないの。ほら、靴を脱いで。立てる?」

「もう立っています」

「そっちじゃない。ね、せめて手洗いうがいして?」

「また、年上ぶって」


 さくらは類の手を洗い、うがいをさせてリビングへ戻った。


「あれ、栄養管理の本」


 類はテーブルの上に積んである、栄養関係の書籍や雑誌の山を見つけた。


「うん。これまで、栄養面のことはあまり深く考えていなかった。今回、しっかり勉強しようと思って。消化にいいものとか、バランス、カロリー、吸収、もちろん味や見た目もね」

「ぼくがいけないのに。さくらに、余計な負担をかけさせてしまうね」


 しおらしい類に、さくらはときめいてしまった。かわいくて、きゅんとする。


「でもさ、私の勉強にもなるし、負担じゃないよ。いい機会」

「ごめんね。これからは、ひとりでがんばり過ぎない。つらかったら我慢しないで、早めにさくらに言う……」


 捨て猫みたいな目をしたあと、そっとまぶたを閉じた。さくらは、類の頭を撫でる。類を、ひとりにしておけない。もっともっと支えたい。


「よしよし。類くんも、がんばり過ぎ禁止ね。私への気遣い、どうもありがとう」

「うん。さくら、だいすき……っ!」


 次の瞬間、目を閉じていた類の双眼が、かっと見開かれた。さくらは、類の腕の中で身動きが取れない。


「はい、確保。ほんと、さくらは警戒心とか、ないんだなー。じゃ、ひとまずベッドへ行こう。やっぱり家はいいなあ、この開放感! じっくりかわいがってあげる。さくらがほしくてほしくて、もうだめなんだ」


 話をうまくはぐらかせたかと期待したけれど、類は引っかからなかった。さくらの身体は軽々と抱き上げられてしまった。

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