第17話 親子・父子・母子・おやこ①

 さくらは、さんざんに散らかっていた部屋を片付け、少し仮眠を取り、病院に戻ったのは夕暮れ近くだった。

 病室にいたのは類と、兄の玲だけだ。


「あれ? 父さまと聡子さんは」

「涼一さんは買い出し。母さんは京都支店の視察。涼一さんは、すぐに戻るって言っていたけど。母さんはさくらが出て行ったあと、わりとすぐ出かけたな。類が元気で、拍子抜けしたって」


 おお、仕事へ! こんなときでも、仕事熱心な聡子には頭が下がる。


「片倉さんも、社長に呼び出されて東京へ帰っちゃうし、玲とふたりきりなんて、面倒な時間だったよ。もう閉口」

「そんな言い方、しないの。玲だって、類くんのことが心配で、多忙な中、わざわざ来てくれたんだよ。昨日は類くんを捜してくれたし」

「はいはい。どんなに根を詰めて懸命に働いても、月給十万円の職人仕事で多忙ね」

「俺は糸染めに誇りを持っている。類に、あれこれ言われる筋合いはない」


「その糸染めのせいで、さくらを逃しちゃったのにね。玲の頭なら、さくらと同じ難関大学にもきっと通えたのに。もったいない」

「これは、自分で決めた道だ。後悔していないとは言い切れないが、信じている。お前に言われたくない」

「はーあ。たいそうな自信家で」


 拗ねたように、類は布団をかぶるとそのまま静かになってしまった。さすがは多忙な芸能人、寝る態勢に入ればすぐ眠れるものらしい。


「……類も寝て、さくらも戻ったことだし、俺も帰るとするか。明日も、早いんだ」

「もう帰っちゃうの?」

「ばか。もう、ったって、午前中からいたんだ。そもそも、今日は来ないつもりだったし。親が秒速の早さで京都に来るから、案内がてら仕方なく。そろそろ交代、な?」


 そう言うと、さっさと玲は病室を出て行ってしまう。

 さくらはあわてて追いかけた。


「待って。あの、玲」

「……なんだよ」


 エレベーターの下ボタンをしつこく連打している玲は、さくらの顔を見ようともしない。


「今日はお見舞い、どうもありがとう。類くんはああいう性格だから、玲に感謝とか伝えられないと思うけど、とても心強かったと思う。だから、私から伝えておくね」

「長い付き合いだ、類の本心は分かっている。あいつがどんなにお前を愛しているかも、知っている。まったく、類の盛大なのろけ話に付き合わされて、俺は口を挟む余裕もなかった、というところが、今日の正直な感想。お前は、類をもっと信じろ。もっと踏み込め、お前ならできる。お前にしかできない」

「う、うん。がんばる!」


「くれぐれも、倒れない程度に、な? 健康第一で」


 エレベーターのドアが開くと、ちょうど涼一が降りてきた。手には、紙袋やプラ袋などを、いくつか下げている。


「玲くん、もう帰るのかい? 類くんには悪いけど、せっかくだから、親子で食事でもどうかと思っていたのに」


 父娘揃って同じ反応か、と玲の顔に書いてある。


「いえ。俺は明日早いので、これで。日を改めまして、また後日」

「私は、玲くんともっと話がしたいよ。ね、覚えておいておくれよ」

「ええ、もちろんです。母さんにも、よろしく伝えておいてください」


 エレベーターが閉まる。さくらの視界から、丁寧に頭を下げた玲の姿が消えた。


「うーむ。玲くんは、スマートな紳士だなあ。さくらは、もったいないことをしたよね。まあ、玲くんと類くんじゃ、選択に困るのももっともか」

「それは言わないで。玲には悪いことした……って、今でも思っているよ」

「ふうん。自覚はあるんだ。さ、戻ろうか」


「うん。でも、類くんは寝ちゃったの。玲と、話し疲れたみたいで」

「玲くん、類くんに向かってマシンガントークだったからね。珍しく」

「おしゃべりな玲って、確かに見たことがないかも。あれ、でも玲の話では、類くんが喋り倒していたって」

「倒れたばかりの類くんは、さすがにもの静かだったよ」


 類ならまだしも、玲が饒舌だなんて。玲なりに、類の気持ちを励まそうとがんばったのだろうか。


 病室には戻らず、ふたりは同じ階のラウンジで、しばらく休むことにした。

 大きな窓からは、夕暮れに染まる碁盤の目状の大路小路と、京都御苑の緑が見える。


「ところで、父さまはなにを買いに行っていたの?」

「ああ。類くんが入院生活で飽きないように、雑誌とか、おもちゃとか、とにかく差し入れだね。彼は、根を詰めすぎた。さくら、学生、仕事。全部手に入れるなんて、いい意味で強欲だけど、少し気分を変えたほうがいい」

「入院。いい休暇になるかも、類くんには」


 パズルやプラモデルなど、おおよそ普段の類の趣味ではないものも、含まれている。でも、父の気持ちがうれしい。


「ありがとう、父さま。来てくれて、私もうれしかった」


 さくらは、涼一の肩に自分の頭を寄せた。目を閉じる。父に甘えるのは、久しぶりだ。実は、重かったのかもしれない。類の存在が、さくらにはしんどかったのかもしれない。

 家族のありがたみを強く感じる。

 無口でも、いざというときは過去の禍根を忘れて手を尽くしてくれる、兄の玲。仕事が忙しくても、東京から飛んできてくれる、両親の涼一と聡子。さくらは、ひとりではない。


「さくらは、今夜も病室に付き添うのかい?」

「うん。そのつもり。明日は日曜日だし。昼間、私を解放してくれたのは、夜中は隣にいてほしいからだと思う」

「無理するなよ。今度はさくらが倒れたりでもしたら、冗談じゃない」

「だいじょうぶ。私は頑丈。いつだったか、インフルエンザで学級閉鎖したときも、とうとうかからなかったし。父さまも、よく知っているでしょ?」

「だからって、油断はするな」

「はい!」


 涼一たちは京都に一泊し、明日の午前中の新幹線で帰京するつもりだという。


「私は一介のサラリーマンだけど、聡子は社長だからね。毎日、ほんとうに忙しいよ」

「でもこうやって、ふたりとも類くんのために駆けつけてくれた」

「お前のことも心配だったんだよ。類くんの始末を、お前に全部なすりつけたような罪悪を感じている。姉として、恋人として、婚約者として、同居人として、母親代わりとして、さくらに背負わせてしまった」

「私が好きでやっていることだもの」


「類くんは華やかだ。誰もが惹きつけられる。けれど、心の闇も大きいのではないだろうか。さくらが、その闇に飲み込まれやしないか、私は懸念している。地味なさくらには、玲くんのほうが似合いだったのに、いったいどうしてこんな組み合わせに」

「なにを言っているの、今さらだよ。私の答えは出たんだよ」


「だが、呼び名も変えない。玲くんは『玲』のまま、類くんは『類くん』だろう。ふたりとも胸中は複雑だろうに、現状ではただの義兄が呼び捨てで、婚約者がくん付け」

「だめだった? でも、玲は玲なのに、なんて呼んだらいいの? お兄さん? お兄ちゃん? 玲さん? 玲くん? いや、どれも気持ち悪い。類くんだって、類くん以外にないよ」


「そのあたりが甘いっていうか、迂闊だ。実に私の娘らしいよ、さくらは。残酷な無邪気さで、きょうだいを傷つけている。類くんのことを絶対に離したくないのなら、『私の類』ぐらいの勢いで、がっついてもいいと思うけどね」

「は、『わたしのるい』? それはちょっと、できそうにない……」


 さくらは腕を組んだ。そもそも、類は独占できそうにない。


「多少は強気で行く、ぐらいでいいんだ。さくらは年上なんだし。類くんは、そうだろう? いつも『ぼくのさくら』『さくらはぼくのもの』って、言うよね」


「名前なんて、形だよ」

「でもね。さくらは、もっと類くんに寄り添ったほうがいい。今のままでは類くんばっかり、がんばってしまう。夜のおねだり、とても激しいんだろう?」

「と、父さま! なんあななんあなあなななな、なにを言い出すの?」

「類くんは若いし、絶倫っぽいからね。病室だって油断ならない。無理しないよう、なるべくさくらがリードしなきゃ。年上なんだし。好きっていう気持ちだけじゃなくて、ときには類くんを乗りこなす操作っていうか、駆け引きも必要」

「りーど。そうさ。かけひき……」


 リードって、なに? 操作とは。駆け引きとは。

 経験値は、類のほうがはるかに上なのに。さくらは身体を震わせた。

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