第14話 覚醒まで、5秒前

「失礼します」


 返事はなかったけれど、片倉は軽くノックをしてからドアに手を伸ばし、ルイの病室へとゆっくり入った。


 消灯時間を過ぎているため、廊下のみならず、室内も暗い。

 病人のルイは薬がよく効いているようで、寝ている。


 怒り心頭の社長をなだめるのに、時間がかかってしまった。

 正直言って、北澤ルイのスケジュールの再調整よりも、社長対応のほうがやっかいだった。ルイのことになると、社長は人が変わる。ようやく、ホテルの部屋に押し込めてきたところだ。


 ルイのベッドの端に、さくらがいる。

 掛け布団から伸びたルイの手を握り締め、前方に上半身を倒れ込むようにして眠っていた。


「さくらさん、かぜをひきますよ」


 熟睡しているようで、答えがない。無理もない。今日は疲れただろう。


 時刻は、午後十時。


 面会時間はとうに過ぎており、片倉も特別に病棟へ入れてもらったのだ。

 ルイの身体が心配とはいえ、死んでしまうような病状ではない。少しは休みたくもなるだろう。


「さくらさん?」


 もう一度、片倉はさくらに声をかけた。迷ったが、肩に手をかけてやさしく揺すってみた。それでも、起きない。目覚める気配はまるでない。


 このままでは、次に体調を崩すのは、さくらだ。


 片倉はため息をついて、病室を見回した。

 壁際に、付添い用のソファベッドと寝具が一組、用意してある。音を立てないよう、片倉は静かにソファを倒して寝具を広げ、さくらに目を向けた。


 幼い子どものように安らかな寝顔。とてもかわいらしい。毎夜、遊び歩いていたルイが落ち着いたのも、頷けるほどの純真な寝姿。


「眠り姫、か」


 ……冷静になれ、片倉は自分を励ました。


「失礼しますよ」


 軽々と、片倉はさくらを抱きかかえた。

 全身脱力しているのでやや重いけれど、片倉は今でも身体を鍛えている。若い細身の女性ひとりぐらい、どうということはないが。

 さくらの身体には弾力があって、とてもやわらかい。

 己の体内に、じわりと熱が帯びてゆくのが分かった。


 不意に、さくらの頭ががくんと後ろに揺れ落ち、首筋が覗けた。

 薄暗い部屋に、さくらの肌が浮かび上がった。


 頸静脈が、かすかに動いている。

 首筋から鎖骨の近くには、赤い斑点がいくつかあるのを確認してしまった。ルイが強く吸ったか、噛んだ痕だろう。所有物には、これぐらい平気でする男だ。おそらく、さくらの全身に刻印を残している。


「きれいな肌に、瑕をつけるなんて」


 思わず、片倉は声に出していた。ルイに怒りを感じたのだ。

 慎重に、さくらの身体をソファに横たえ、靴を脱がせる。

 ……起きない。


 そのまま、片倉は、眠るさくらをじっと見下ろした。


『明け方まで、毎晩』


 先ほどのさくらの告白が、生々しくよみがえる。

 こんなに清らかな顔をしているのに、あのルイを喜ばせているのだろうか。飽きっぽいルイは、言い寄る女を一度きりでいつも捨ててきた。二度三度と続いた女の例を、片倉は知らない。

 実の兄と奪い合いをしたぶん、義姉に多少入れ揚げただけだろうと、たかをくくっていたが、ルイは本気だったのだ。


 ゆっくりと、さくらの唇に指を伸ばす。

 もっと、強く深く触れてみたい欲望が生まれている。いい歳なのに、おさえられない。



「なにやってんの。さくらは、ぼくのものだよ。いくら片倉さんだからって、勝手に触らないで?」


 類の声だった。はっきりとした、よく響く声。


「ルイ。気がついたのか」

「うん。それよりも今、ぼくのさくらに、なにをしようとしたの?」


 暗がりでも分かったらしい。類は、片倉を鋭く激しく睨んでいる。


「別に、なにも。さくらさんがお前のベッドに、もたれかかって寝ていたから、こちらへ運んだだけだ」

「そんな余計なこと、しなくていいのに。遠くなっちゃったじゃん。さくらが寝たら、ぼくの隣に引き寄せるだけだったのに」


「具合は、どうだ」

「ちょっと、頭がぼうっとするけど。とにかく、片倉さんに腹が立った。寝ているぼくの隣で、さくらの寝込みを襲おうなんて、どういうつもり?」

「騒いだら、さくらさんが起きてしまうよ。なぜ、さくらさんに言わなかったんだ。調子が良くないと、熱があると」

「そんな弱音、こぼせるわけないじゃん。さくらには『類くんってば精力絶倫?』って、思われたいの。万年発情期でいいの! 赤ちゃん、早く欲しいんだからさ」

「……こんなときに……なにを……せめて、『包容力』と、遠回しに、穏やかに表現するように」


「だって、仲を引き裂かれちゃう。さくらを玲に奪われちゃう。いやだ」

「さくらさんには、ルイが初めての相手だったのだろう? 男女の仲に、日が浅いにもかからわず、ルイの野獣トップスピードに毎晩付き合わされるなんて、気の毒だ」


「ふん。さくらから、誘ってくるときもあるよ? モノ欲しそうな目で見つめてきたり。なのに、我慢しろと? 耐えろと? タレントの、夜の生活までマネジメントするつもり? 今まで野放しだったのに。はー。やっぱ、さくら狙いか。これだから、中年間近の独身男は。焦っているんだね。手っ取り早く、欲望を解消しようと」




(以下、男性どうしの卑猥な会話がしばらく続きますので、自主規制させていただきます……)




「……ほら、片倉さんのせいで、作者にことば狩りされちゃったじゃん。いいからもう出て行って、早く。ぼくのさくらに手を出そうとしたら、発狂するよ。北澤ルイが再起不能になってもいいの?」

 

 主に、問題発言を繰り返していたのはそっちだろうが、ということばを、片倉はどうにか飲み込んだ。相手は仕事のパートナーであり、しかも病人。


「わ、分かった。今夜はおやすみ。看護師に、ルイが気がついたことを報告しておくよ」

「さくらとふたりきりでいたいから絶対にじゃましないで、ってこともしっかり伝えておいてよ?」

「了解した」


 片倉は立ち上がった。背中に、威嚇の視線を感じる。痛い。

 さくらの肌に見惚れ、心が動いたのは確かだ。担当タレントの婚約者なのに。


 頭をかかえつつ、片倉は病室を出た。


***


 気がついたら、夜が明けていた。


「類くん!」


 さくらは跳ね起きた。自分は布団をかぶってソファに寝ている。いつ移動したのだろうか。いや、そんなことよりも、今は類だ。そろそろと、近づいてみる。


 まだ寝ているが、規則正しい寝息に乱れはない。


「……おはよう。寝言を言っていたよ、さくら」


 寝ていると思った類が、急に目を開いた。


「類くん、起きていたの?」

「『もっと、ほしい。類くん、だいすき』って、何回も」

「そそそ、そんなこと言いません。私、夢なんて見ていないし」

「倒れた恋人そっちのけで、熟睡かあ。肝が太いほうだとは思っていたけれど、まさかここまでとはね」


 寝ていたのは事実だ、弁解のしようがない。


「ごめん、類くん。でも、着替えとか持って来たし、退院までがっちりお世話する」

「さくらの、手の空いている時間だけでいいよ。学校、あるでしょ」

「そうだけど……」

「ここで、看護師さんにお世話になろうっと。ごはん、食べさせてもらったり、散歩させてもらったり、おふろに入れてもらったり。いやあ、たまには入院も、なかなか楽しいかもしれないなあ」


 類はいたずらっぽく笑った。


「だ、だめだよ。浮気? そんなの、だめ。いや。類くんのお世話は、私の役目だもの。ほかの人になんて、任せられない」

「ふうん。ほんと?」

「当然。本心からだよ。なんでも言って」


「よし。じゃあ、さくらにがっちりお世話してほしいことがあるんだけど? 超・緊急事態、発・生・中!」

「な、なに。どこか、変なの? 熱? だるい?」


 さくらは類にしがみついた。


「ぼくに乗っかって。さくらが上になって、お世話して」

「……ちょっと、どんなお願いかと思ったら。ここは病院だよ、家じゃないよ?」

「ねえ、お世話してくれるんでしょ、お世話。はい、つべこべ言わない。早く。起床時間になっちゃうよ、さくら?」


 さくらは類に腕を引っ張られた。類の身体の上になだれ込む。


「ねえぼく、点滴を打たれて自由に動けないんだよ。意地悪しないで。ちょっとだけでいいから」

「だめ。そんなこと、だめだよ。類くんは、過労だったんだよ。お医者さんにも注意されたんだよ、無理な生活を」

「あー、やれやれ。じゃあ、もういいや。使えないな。さくらなんて知らない」

「ええっ? 冗談でも、冷たくしないで。類くんこそ、意地悪」


「じゃあ、お世話して。ご希望で、さくらは全裸になってくれてもいいよ? うふふっ」

「……どこの変態かと」

「いいから。これもお世話だよ。割り切って」


 渋々、さくらは類の上に脚を広げてまたがった。

 ほとんど、見下ろされてばかりなので、このアングルは新鮮である。しかし、どの角度から見ても素敵だ。こんなに完璧な顔立ちを、さくらは知らない。


 さくらから、類の身体に乗りかかって、熱いキスを交わす。

 久しぶりの、甘い味がした。

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