第10話 西陣の町家へ、そして事件が①
平日は、まとまった時間がなかなか取れず、さくらは片倉にもらった服を隠したままにしておいたが、とうとう町家に持ってゆくことにした、金曜日の夕方。
いつも通り、類は週末の仕事で上京した。京都にはもういない。
まだ、町家の鍵は持っている。
事前に、玲にはそちらへ行くとは連絡を入れたが、仕事中なので家にはいないはずだった。
西陣の町家。思えば、三ヶ月ぶりだ。
「置くだけ。置かせてもらうだけ!」
きょうだい三人で住んでいたあのころよりも、町家の中は広くてがらんとしている。生活感があまりない。
壁の目立つところに掲示してあった、柴崎きょうだいふたりが書いた『さくらとの、同居における誓約書』も剥がされていた。
さくらは、時間の流れを感じてしみじみとした。
目を閉じれば、ここで暮らした一年が、鮮やかによみがえるというのに。
「さくら!」
「うわっ」
声の主は、玲だった。
頭には汗拭き用のタオルを巻き、つなぎの作業着のまま、息を切らしている。工場を抜け出してきたらしい。
顔つきに、精悍さが増している。そうだ、五月が誕生日の玲は、二十歳になったのだ。
「どうしたんだ、急に。ここへ来たい、だなんて」
「い、いや。そんな深い意味はなくて。置かせてもらいたい荷物が、あって。れ、玲。元気? インフルエンザにかかったって、ちらっと聞いたんだけど」
「なに言ってんだ、ひと月近く前の話を。お前こそ、そんなに痩せて。類のやつ、なにしてんだ。ちゃんと食べているのか」
「えっ、痩せた? しばらく体重計に乗っていないから、分からない」
「さくらはもっと、ふっくらしていた。抱き心地、もっとよかったはずのに、やつれて面影もないぞ?」
玲は突然、さくらを抱きかかえた。
「玲? どうしたの。離して?」
「許せないな。類のやつ。俺からさくらを奪っておいて。顔色も悪い」
「私は、毎日充実しているよ? つらいこともあるけれど、だいじょうぶ」
「無理するな。類には、俺が制裁を加える」
「……どうして」
「やっぱり、あいつに渡すんじゃなかった。さくら……ここに……いや、今日は泊まって休んで行け。祥子も呼ぶから。変な意味じゃなくて、気晴らしだ、気晴らし。ストレス発散。町家がいやなら、高幡家でもいいし」
気を遣ってくれている。玲が。
さくらは心が痛んだ。さくらが振ったはずなのに、玲はさくらを支えようとしてくれている。
「ごめん、玲。つらいのは、私だけじゃないのに。玲のほうが、よっぽどつらいよね」
「そんなこと言っている場合じゃない。たとえ、お前が類と深くつながっても、さくらは俺の妹。大切な妹だ」
「玲……」
緊張で固まっていたさくらの全身から、力が抜けて行った。
「そうそう、ラクにして。深呼吸」
いけないことだと思いつつも、さくらは玲の身体にしがみついて泣いた。
泣きたかったんだ、思いっきり。誰かに支えられながら。
「うわーん、玲。れいっ」
子どものように泣いてしまったさくらの背中に、玲はそっと手を回した。
とてもあたたかい胸に、さくらは思わず飛び込んでしまった。
「我慢するな。今は泣きたいだけ、泣け」
「ありがとう。ごめん。でも、類くんの強引さととか、過去のこととか、いろいろあって。もう、なにがなんだか。この歳で、子どもが欲しいとか、毎日のように言われたり」
「あいつ、そんなことをさくらに」
「でも、理解はしている。類くんには、困難が多い。結婚も反対されているし、周囲を説得するには、はっきりと目に見えるなにかが必要なんだって」
「だからって、十九のさくらに子どもを望むなんて、あいつはいったいなにを考えているんだか。大学生なんだぞ、さくらは。毎晩のように、類に抱かれているお前のことを思うだけで、あいつが憎いのに」
さくらは目を閉じた。
玲のあたたかさに包まれていると、悩んでいたことが少しずつ消えてゆくような気がした。
「玲、もう少しだけ甘えたい。甘えても、いい?」
ずるいことを言っている自覚はある。ひどい女だと思う。
玲が断れないことを知っていて、さくらは玲に媚びた。つくづく、いやな女。ずるい。自分でもあきれてしまうが、さくらは目を閉じたままだった。
玲の手に力が込められた。しっかりと、玲に抱き締められている。
「……さくら」
「玲」
震える指先で、玲はさくらの唇をそっと撫でた。
「二階、行こうか。上のほうが静かだし、落ち着くよきっと。さくらが使っていた部屋、そのままにしてある」
二階には、さくらが使っていた部屋がある。ベッドもある。
玲に手を引かれて、さくらの足は一歩、また一歩と前に踏み出していた。
だが。
「……さくら、お前の電話が鳴っている」
「電話?」
畳の上に置いたバッグの中で、さくらの携帯電話がうなるように鳴っていた。
一度切れても、また鳴る。繰り返し、しつこく鳴る。
「出ないのか」
さくらはためらった。現実に、引き戻されたくないのに。
「……出る。出るよ」
階段を下りてバッグから電話を取り出し、液晶画面を確認すると、発信者はルイのマネージャーである片倉だった。
『さくらさん、片倉です。今、お時間を少々、よろしいですか?』
片倉の声は、厳しいものだった。
ホテルで会ったことだろうか? 経費のこと? それとも、隠し子の件で?
「はい……」
『時間になっても、現場にルイが到着しないのです。もしかして、まだそちらにいますか? いつものことで、類がさくらさんから離れたくないと、駄々をこねている、などでしょうか? たまに遅刻をする子ですが、いっさい連絡が取れない事態は初めてで』
「い、いいえ。類くんは、時間通りに京都を出ました。私、出かけるのを見送りました」
『そうですか。では、いったいどこへ……先週、ルイはあまり調子がよくなかったものですから、もしかして寝込んでいるのかと』
「調子が?」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます