第9話 あなたのなかにぜんぶとけてしまえればいいのに

 翌日、さくらは京都へ帰った。


 夜には、類が帰宅する。授業の課題もある。普段の生活に戻らなければならない。

 新幹線の中で、さくらはほとんど寝ていた。あやうく、乗り過ごして新大阪まで行きそうになった。


 有名高級ホテルの、(たぶん)グレードの相当高い部屋に泊まらせてもらったのに、片倉は宿泊代を受け取ってくれなかった。『私が泊まったということになっていますので、経費で落ちます』と言って。


 広いお部屋。ベッドはふかふか、おふろもバスタブと洗い場が別でのびのびとしており、シャンプーもフランス製で豪華な香りだったし、無料のドリンクバーも充実していて、さくらは紅茶を何種類も楽しんでしまった。

 はじめて、類と京都で一泊したとき、類も何でも使える魔法のカードをさくらに貸してくれたこともある。

 おとなには、『経費』という魔法があるらしい。


 しかも、片倉が選んでくれた服は、さくらにぴったりだった。服のサイズなど、教えてもいないのに。

 チェックのワンピースと、黒のカーディガン。とても好みである。かわいい服は、袖を通すだけで気分が弾む。


 しかし、マンションに着くなり、さくらは自分の服に着替えた。

 モデルだけに、類は衣服に厳しい。類が買い与えていない、知らない服をさくらが着ていたら、それはなにかと疑われてしまう。


 自分で買ったと言い張るには、ブランド物のワンピースでは高価すぎる。もったいないけれど、とりあえず紙袋に詰めて、クロゼットの奥深くにしまう。


「どうしよう」


 しばらく、玲の町家で預かってもらおうか。処分してしまうにはもったいない。

 困ったときだけ玲を頼るのは、いかにも都合がいい態度だけれど、たまには玲にも会いたい気持ちもあるし……かといってどんな顔で会おうか、悩む。


 頭の痛いことが次々と起こるけれど、立ち止まっている暇はない。


「課題、課題だ」


 さくらは回らない頭でレポートを書きはじめた。類が帰って来るまでに、ある程度は書き上げておかなければ。


 本業は、大学生。


 勉学を積むために、京都にやってきたのだ。

 恋人の類と同居して、気兼ねなく交わるために同居しているわけではない、断じて!


「日曜の夜、寝かせてくれないって、言っていたし……ううん。いいや、期待しているわけじゃなくて。私、いったいなにを妄想している! 類くんのへんたいがうつった、へんたいたいへん!」


 なのに、考え出すと止まらない。類の甘い声、切ない吐息、肌を伝う舌、額から頬に伝う汗、熱いほどのぬくもり、繊細な指づかい、からまる手と脚。


 こんなに、類のことをほしいと思う日が来てしまったなんて、こわい。

 さくらは自分の肩を抱きしめるように、両腕でぎゅっとおさえた。


 自分の感情にさくらが戸惑っていると、部屋のインターホンが連打された。


『ただいまー。小悪魔の類くん、もうくたくたで、おつかれだよ』


「おいおい、自分で言う?」


 そう言いながらも、うきうきとしながら、さくらは玄関の鍵を外してドアを開いて飛びかかった。


「うわっ!」


 さくらは類にしがみついた。勢いに乗ったさくらを支えきれず、類がよろめいて廊下に倒れる。


「いきなりの、熱い抱擁? ちょっとさくら、廊下でぼくに騎乗位なんて、発情期過ぎ」

「おかえりなさい、類くん。待っていたの。すごく、逢いたかった」

「いいよ、こういうのも嫌いじゃないよ。牝猫みたいなさくら。新鮮で、すご興奮する」


 ゆっくりと起き上がった類はさくらを膝の上に乗せたまま、さくらの頭を撫でた。そして、長めのキスを交わし、つよく抱き締めてくれる。


 廊下で転がってしまったことに後悔しても、もう遅い。

 いちおう、共用部分の廊下である。誰が通るかも分からないし、監視カメラも回っているはずだった。しかも、ホテルのような内廊下なので、やけに声が響く。


「もう少し早く帰れれば、さくらの手料理を食べられたのにな」


 残念そうにつぶやきながらさくらを促して身を整えた類は、不満をこぼしながらも、あらためて室内へ入り、靴を脱ぎ揃えた。


「今からでも、温められるものならあるよ。おにぎり、おみそしる、簡単に作ろうか?」

「でも、時間が遅いから。太ったら叱られる。これ、さっき買って来たから、飲むね。夜は長いし」


 類は持っていた袋の中から取り出した栄養ドリンクを、喉を鳴らして飲み干す。

 ごくごくと、類の鳴る喉を見て、さくらは興奮してしまった。この、欲情スイッチはどこから来るのだろうか。すごく、類がほしくてたまらない。


 ほほ笑みかけられてふと我に返り、さくらは思わず、類から視線を逸らした。


「どうしたの、今夜は、そんなにぼくに逢いたかった? うれしいけど、戸惑うな。こんなに感じちゃってさ、ほら」


 わざと、類はさくらの耳朶や首筋に、そっと息を吹きかける。思わず、身体を震わせて、びくん、と反応してしまう。


「土曜日、先輩たちと久々に食事に行って楽しかったけど、ひとりにしてごめんね。そうそう、土曜といえば、片倉さんが女の子とホテルでデートしていたみたい。浮いた噂とかが皆無だから、興味深いよ。でも、ホテル代を経費で落とそうとしたら、社長に却下されていて、笑っちゃった。『タレントのマネージャー風情が、高級ホテルのセミスイート宿泊を経費なんて、ありえない』ってさ」

「へ、へえ。そうなんだ。まあ、片倉さんもおとなだから、い、いろいろあるでしょ」


 魔法の『経費』では、落とせなかったらしい。悪いことをしてしまった。あとで、メールで謝っておこう。

 昨日のことを類の前で思い出すと、おどおどしてしまうけれど、さくらにやましいことはひとつもない。堂々としなければ、勘のよい類に気がつかれしまう。


「知ったようなこと、言うんだ。やっぱり、さくらは片倉さんに高評価過ぎて妬けるなあ。おみやげ、預かってきたんだけど、渡さないほうがいいかも」

「おみやげ?」

「そう。そのホテルのレストランで作っている、生チョコレートだって。限定品で、なかなか手に入らないらしいよ。さくら、チョコレート好きでしょ」

「う、うん……ありがとう。今度、お礼を言っておいてね」


 とてもうれしいけれど、昨日の口止め料としか思えない。しかも、類くん経由なんて、複雑。『類を守る同志』だと言ってくれたのに、婚約者に隠しごとをしている……みたいな気持ちになってしまう。


「さて、それよりも。今夜のノルマ、達成しないとね。さくら、もっとぼくのそばにおいで。約束通り、やさしく抱いてあげる」

「類くんってば、いやだ。冗談ばっかりで」


「ああ、そっか。やさしいよりも、激しいほうが好みか。ずいぶん、成長したね。いいよ、さくらのお気に召すがまま」

「だめ。これ以上、類くんに翻弄されたくない」

「ぼくは、さくらに翻弄されっぱなしだよ。このぼくが迫っても落ちなかったのは、さくらがはじめてだからね。今夜も全部、さくらの中でとけちゃいたい。先に、シャワーを浴びてこようかと思ったけど、こんなさくらを見ていると……もう我慢できそうにないよ」


 落とし、上げられて。振り回されて、つながる身体。

 どうしようもなくいとおしくて、しがみつく。熱い。

 離れたくない。



 ……類くんが、好き。だいすき。

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