第8話 信じたい/信じていたい②
気がつくと、外は真っ暗。
窓の外には、東京の夜景が窓いっぱいに広がっている。
部屋のライトをつけないまま、しばらく窓枠にもたれかかって、外の景色をぼんやりと眺めていた。
最近の土曜の夜は、いつもひとり。
西陣の町家で、玲や祥子たちと賑やかに明るく過ごしていた日々が懐かしい。暑いとか寒いとか、類くんはスキンシップが激しいとか、文句を言いながらも楽しかった。
自分は、類だけを選んだ。選んでしまった。
孤独にも、耐えなければならない。
電話が鳴った。のろのろと手を伸ばすと、発信者は片倉だった。
『仕事が終わりました。身の回りの荷物を持参しています。これから、そちらにお伺いしたいのですが、だいじょうぶですか?』
「おつかれさまです。しばらく寝ていましたが、今は起きていますので、いつでもどうぞ」
三分も経たないうちに、部屋のドアがノックされた。スコープで人物を確認してから、鍵を解錠する。
片倉は、控えめな笑顔で立っていた。
「あらためまして、こんばんは。着替えや、お化粧品などです。要らないものは、処分してください」
渡された紙袋は、かなりの重みがあった。服のほかにも、きっといろいろ入っているのだろう。片倉の親切が、さくらの心をあたたかくした。同時に、北澤ルイを守りたいという強い意志も感じた。
「ほんとうに、ありがとうございます」
「お食事、されましたか」
「いいえ。おなかが空いていなかったので」
「なにかとらないと、身体によくありませんよ。こういう場面、本来は外に出るべきですが、もしご迷惑でないなら、ここで一緒に食事しませんか。私ごとき存在でも、人といたほうが気もまぎれると思います。私も、あなたと話がしたい。例の写真の件について、分かったこともあるので」
写真、そう耳にしたさくらは、ドアを大きく開いて片倉を招いた。
「このホテルは、ルームサービスが充実しています。さくらさんは、食べたいものがありますか」
「いいえ、特には」
「では、私が選びますね」
こういうことにも片倉は慣れているらしく、メニュー表を見ながらあれとこれと数品を、内線電話で注文した。おとなだなあ、としみじみ思う。
「……今日……類くんは、どうしていますか」
「ここではない、ほかのホテルに泊まっていますよ。たまには、実家に帰ったらどうかと提案したのですが、両親のらぶらぶを邪魔したくない、とのことで。今夜は、事務所の先輩たちと食事に行くらしいです」
「そうですか」
よかった。類は類で、楽しんでいる。
「心配ですか、類のことが」
沈んでいるさくらに、片倉はそっと声をかけた。
「はい。でも、類くんには、類くんの時間がありますので」
「だいじょうぶですよ。類はもう、よそ見しません。さくらさんを得たルイは、すがすがしいほどにさくらさんだけです。あの類が一途だなんて、えろい、いや、えらい変貌ですが」
まじめな片倉が冗談を口にするなんて、ちょっとおもしろかった。
談笑しているうちに、食事が運ばれてきた。
食べたくないと思っていたが、いざおいしそうな食べ物を前にすると、がぜん食欲がわいてきた。いい香りがする。
「ローストビーフ、いただきます。クラブサンドも、おいしそうですね」
「どうぞ」
さくらは炭酸水、片倉はスパークリングワインで乾杯した。
「あ、美味ですこれ。家でも作ってみたい」
ひとりで食べる土曜日の食事は味気ないと思っていたのに、今日はとてもおいしく感じる。
話しているうちに、片倉はさくらの大学の卒業生だということが判明した。
「そうだったんですか。片倉さんは、京都生まれですか。訛りも方言もまったくないので、まったく分かりませんでした。私の先輩だったんですね」
「といっても、今年で三十二ですので、先輩といっても、だいぶおじさんですよ。事務所に入社して、八年。北澤ルイの担当はデビュー前からなので、五年ほどです」
「類くんとは、そんなに長い仲なんですか」
「ルイは、社長みずからがスカウトしてきた逸材でした。売り出しに、少々時間がかかりましたが、若者向けファッション誌の表紙に採用されれたあとは、人気の勢いに加速度がつきました。たったの一年で、ルイはティーンモデルのトップに躍り出ました」
「私も、きょうだいになる前から、北澤ルイの名前はよく聞いていました。抜群に素敵でしたし、実はひそかにファンでした。デビュー写真集『少年』、今でも持っています。あ、類くんには秘密ですよ? 絶対にからかわれちゃうんで!」
長年ご贔屓にしていただきまして、ありがとうございますと、片倉はさくらに向かって軽く頭を下げた。
「ただ、ルイは若すぎました。周囲にちやほやされて、思い上がるのも早かった。交友関係が派手になり、どうしてもっと支えてやれなかったのかと後悔しています」
「片倉さんのせいではありません。昔の類くんがいて、今の類くんがいる。そう思うようにしています」
「さくらさん、あなたはどこまでも素直で純粋ですね。類が、あなたに惹かれる理由がよく分かる。仕事でなかったら、私もあなたを口説きたいぐらいだ」
さくらは身構えた。
片倉の目は、さくらをじっと見据えて離さない。
「つらいなら、類を切り捨ててください。あなたに、そんな顔をさせたくない。代わりに、私があなたを守ります」
そっと握られた手に、さくらは動揺したが押し返した。
「片倉さん、これ以上の冗談は、こ、困ります」
「すみません、こんなときに言い出すことではありませんでしたね、申し訳ありません。さくらさんが愛らしくて、つい酔ってしまったようです。ええと、松原かれんの写真の件ですが、コラージュの可能性が高いと思われます」
「コラージュ?」
「はい。ルイの特徴を、幼い男の子の顔写真に落とし込んだ巧妙ないたずらです。彼女がかつて、ルイの取り巻きをしていたことは私も知っていますし、ルイと交渉があったことはおそらく事実でしょう。以前の北澤ルイは、ああいった年上女性が好みでした。彼女の所属事務所にも確認しましたが、松原かれんに子どもはいません」
いない。
子どもは、いない?
「さくらさんに対する脅しです。少し調べればすぐに分かってしまうことを、わざわざ知らせてくるあたり、ルイとの過去……身体の関係を、強調したかっただけかと。ただ、堕胎経験は数回あるようなので、もしかしたらルイや男性全般を恨んでいる、という可能性はありますが」
「いま……、あの人に、子どもは、いない……んですね」
じわじわと、心身の隅々にまで安堵が広がってゆく。
「悪質な嫌がらせです。さくらさんを、類から引き離すための、捨て身作戦。写真はいたずらだと分かっても、あなたたちの間には動揺が走り、不審が募ります。卑怯な作戦です」
「お願いです。今回のこと、類くんには言わないでください。私は、類くんを信じています。あの女性……松原かれんさんも、かわいそうな人です。そっとしておいてあげてください」
「あなたは強いですね。分かりました。類には、報告しません。ただ、さくらさんの身が心配です。この件、まだ終わりではありません。あなたが襲われる可能性があります。ボディガードをつけましょうか」
「だいじょうぶです、いりません。なるべくひとりにならないよう、行動します。夜道は歩かないようにします」
「ふうむ。人をつけるとなると、ルイにも詳しい事情を話す必要がありますし、私が根回ししましょう。いいですか、無用の外出は避けてください。あやしい場所、暗い場所へは近づかないでください。知らない人からの呼び出しには、対応しないでください。私も近々、京都へ行ってさくらさんの安全を確認します」
「はい」
「無理をしないように。あなたの笑顔が見たい。ルイさえいなかったら、私はあなたを……いいえ、もうやめておきましょう。さくらさんを困らせるだけですね。我々は、ルイ……類を守る同志です」
類を守る同志。
そのことばは、さくらの心のドアを強くノックした。
「どうか、酔っぱらいのおじさんの妄言は、忘れてくださいね」
おやすみなさい、そう告げた片倉はさくらの部屋を出て行った。
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