第7話 信じたい/信じていたい①
片倉が指定したのは、都内の高級ホテルのラウンジだった。
土曜日ということもあってか、生演奏のピアノが流れている。
背が高くて肩幅がある片倉は、遠目からでもよく目立つ。
さくらよりも早く到着していて、さくらの存在に気がつくと小さく手を振り、こういう場所に不慣れなさくらを先導してくれた。
「こんにちは、片倉さん。お待たせしました」
「さくらさん、こんにちは。おつかれさまです」
挨拶を済ませると、片倉はさくらの分の飲み物を注文した。
いつもながら、凛々しいスーツ姿にスマートな対応で、社会人とはこういうものかと少し憧れてしまう。
「先日は、ありがとうございました。おかげで、マンションの張り込みはいなくなりました。今日も、急に呼び出したりしてすみません」
「いいえ。さくらさんご自身が、類に内密で上京するほどです。今回はよっぽどのことでしょう」
さくらは、自信なく頷いた。
時間が限られているので、昨日の帰りに出会った女についての一部始終を、打ち明けた。隣の席とは離れているし、誰かに盗み聞きされる心配はなかったけれど、話題がデリケートなだけに、たどたどしい説明になってしまった。
けれど片倉は、適切に相槌を入れてさくらの話を理解してくれた。
「その写真ですが、今、さくらさんがお持ちではないのですね」
「はい。預かってはいません。その女性が、持って帰りました」
「……おつらいでしょうが、遭遇した女性の特徴を教えていただけますか。調べてみます」
片倉は、持っていた黒い鞄からパソコンを出して画面を開くと、タレント名鑑にアクセスした。
思い出すだけで心が痛むけれど、さくらは覚えている限りの女性の特徴を並べた。
さくらの記憶と、片倉の知識が融合した。
「……ああ。おそらく、モデルの松原(まつばら)かれんですね。さくらさんは御存じありませんか。女性ファッション誌の表紙なども飾っている、そこそこ有名なモデルですが」
即答だった。
「いえ。女性向け雑誌は、あまり読まないもので……北澤ルイ特集が載っていれば別ですが……感じは悪かったのですが、とても綺麗な方でしたし、売れている人だったんですね」
「いつも北澤ルイを熱心に応援していただいて、ほんとうにありがとうございます」
片倉は、さくらの気持ちを察して少しおどけた。
「顔を確かめていただきたいのですが……ご覧になれますか、松原かれんのプロフィール写真」
「はい、確認します」
ためらう気持ちもあるけれど、大切なことだ。さくらは自分を励ました。
片倉の隣に、寄り添うように座り直してパソコンの画面に視線を移動する。
「……この人です。間違いありません」
さくらの脳裏に、昨日の会話がよみがえってきて、いらいらともやもやが、ぶつかり合う。
「そうですか。分かりました」
ため息をまじえながら、片倉は画面を閉じた。
「一時期、北澤ルイに対して相当なつきまとい行為を働いていました。ルイは、男女関係に関して非常にドライな性格でしたので相手にしていませんでしたが、おそらく松原かれんは本気でした。一時期休業していたように聞きましたが、なるほど。ルイとの子どもがいると、吹聴してきましたか」
「とてもよく、似ていました。その人にも、類くんにも」
俯いたまま、さくらは頷いた。
やはり、過去につながりがあったようだ。
さくらの知らない、北澤ルイとしての、類。三年前というと、十五か十六。その、早熟さにあきれてしまう。過去の類に対して怒っても、仕方ないのに。過去の女性に嫉妬しても、どうしようもないのに。
……せつなくて、歯がゆい。
「私が会いましょうか。松原かれんも人気商売、事務所に所属している身です。金銭で解決できるなら、示談にしましょう」
「この方と、類くんは」
「過去のことです。私も、北澤ルイの交友関係のすべてを把握しているわけではありませんのでね。ルイに、直接妊娠を言ってきた女性に関しては、承諾の上で適切に処置しましたが、万が一こうやって黙って生むケースもあったかと」
「じゃあ、まだいるかもしれない……ってことですか!」
「ですね。頭の痛い問題ですが。子どもをゆすりのネタに使うなんて、最低ですよ」
片倉は頭をかかえた。
自分の恋人で婚約者でもある類に、子どもがいたかもしれない。万が一、マスコミに漏れたら、隠し子だの遊び人だの、再びの大騒動は間違いない。
さわやか少年イメージの若い北澤ルイに、認知されていない子どもがいたら、ただのゴシップ。さくらとの婚約ですら、波紋を呼んだのに。人気は急落し、スポンサーもいなくなるだろう。
「私は、彼女の身辺を調査します。現在のところ、証拠はさくらさんが見たという写真だけ。そのお子さんが、実在するかどうかも分かりません。悩むのは、真実が判明してからでよいでしょう。ご報告ありがとうございました。このことは内密にお願いします」
情けないことに、返事もできない。黙って頷くのがやっとだった。
「さくらさん、お気を確かに。自棄にならないでください。あなたはルイ……いいえ、類にとってかけがえのない、必要な人。さくらさんがいなくなったら、類はつぶれてしまいます。今日はどうされますか。日帰りでもよいと思いますが、ここのホテルに泊まって帰ってはいかがでしょう。類には内緒で部屋を予約してあります、ゆっくりしてください」
脱力したさくらは、その場から動けなかった。
まるで、泥にはまったようだった。身体が重い。
過去の類は、いったいどれほどの女性と夜を共にしたのだろう。さくらに与えてくれる甘いことばを、ほかの女性にもささやいたのだろうか。心がちぎれそうだ。
「立てますか。お部屋まで、案内しましょう」
さくらは、片倉に手を引かれて部屋に向かった。
休みたい。現実を忘れたい。
『類の存在は重い』
玲に言われたことばが、さくらの上に、のしかかる。
好きだという心があれば、なんでも乗り越えられると思っていたのに、そんなに簡単なことではなかった。
ぼうぜんとするさくらに代わって、片倉が部屋のドアを解錠する。
「もう少し時間が経てば、東京のうつくしい夜景が見えますよ」
「……はい」
「夕食は、ルームサービスを利用してください。泊まる準備がないようですので、着替えなどはあとでお持ちしましょう」
「……なにからなにまで全部、すみません」
「ルイの家族は、私の家族です。明日には、笑顔を見せてください。私も、さくらさんの笑顔が好きです」
「ありがとうございます。片倉さん」
お世辞でも、うれしかった。自分は多くの人に支えられている。
ひとりでがんばることはない。そう思うと、涙がこぼれてきた。
「泣かないでください。離れがたくなります」
泣くつもりはなかった。ただ、片倉のやさしさが心にじわじわとしみてきて、うれしい。
「ごめんなさい。だいじょうぶです」
さくらは穏やかに言って、ほんのちょっとだけ笑ってみせた。
片倉が仕事に戻ったあと、さくらはベッドに倒れ込んでしばらく眠った。
昨夜はほとんど眠れなかったのに、そのまま上京したので、極度の疲労がたまっていた。
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