第6話 彼の過去、あるいは猜疑心
本日の講義は、三限まででおしまい。
大学の門を出たところで、さくらは若い女性に呼び止められた。
「ねえ、あんた。柴崎さくら、だよね?」
さくらの噂が、学内に広まった。
わざわざ、さくらが出席している講義の教室まで来て、顔を見て笑う者、憤る者、嘲る者、いろいろいる。ひやかしや暴言まで、各種様々。
たまに応援してくれる人もいるけれど、『ルイくんに釣り合わない』『何様のつもり』など、ストレートな酷評は、聞き過ぎて耳がマヒしている。
「聞いてんの? あんたのことだよ」
この女性もそれ関係かなと、直感が走った。
けれど、学生には見えない。背が高くて細くて、きれいな肌に整った顔つきだけれど、派手な濃い化粧に短いスカート丈。祥子よりも、もっと年上そうだ。
それに、ちょっと野卑な東京弁。いきなりの呼び捨て。
「少し話がしたいの」
さくらは、キャンパス内に建っている、時計塔の針をちらりと窺った。二時四十五分。
金曜日の今日は早く家に帰って、仕事で上京する類の荷造りを手伝いたかったけれど、そうもいかないらしい。
「じゃあ、あちらのカフェで。それとも、吉田神社へ行きましょうか」
最初にさくらは門の近くにあるカフェを提案し、次に大学の東側にある大きな鳥居のほうを見やった。
「人に聞かれたくない。歩きながら」
女性はさくらの返事も聞かずに、東大路通を南に下りはじめた。
また、類くんがらみでやっかいな人につかまってしまった。さくらは口を曲げた。
絡まれるのは、何度目だろう。
どこからか類とのことを調べ上げ、直接さくらを攻撃してくる。個人情報の保護制度など、あってなき時代だ。接触しないようにと、片倉からも言われているけれど、無視することもできない。
「ルイと婚約したって、ほんとうなの?」
「はい」
これだけは、自信を持って胸を張れる。
「なんの取り柄もなさそうな顔立ちなのに。ま、大学生だし、頭は良さそうだけど、見た目はほんとに普通」
「よく言われます」
「似合わない。ぜったい、納得いかない!」
女はさくらの肩をつかんで、路地に入った。
「私はね、ルイのモデル仲間。ルイの恋人だったの。ルイと一緒に、たくさん遊んだんだ。六本木、麻布、渋谷、青山……」
類は、女性と付き合ったことがないと言っていた。すべて、ひと晩限りの関係だったと。この人も、そのうちのひとりなのだろう。
『北澤ルイ』の過去を思うと、さくらの胸は痛むけれど、類の言うことをすべて信じたいと思っている。
「……過去、ですね」
「そんなことない。見なさい、この写真」
突きつけられた写真には、目の前の女性と愛らしい男の子が笑顔で映っている。
「今年二歳になる、私の子ども」
『北澤ルイ』との関係をちらつかせ、さくらに迫るということは、言いたいことは想像がついた。
「なにが目的ですか。これを私に見せて、どうするつもりですか」
「別れなさい、ルイと。私とルイの間には、子どもがいるんだから。ルイの事務所は、男女関係に厳しいからずっと隠してきたけど、私のルイが奪われそうになるのを、放っておくわけにはいかない。ルイはこの子の父親なのよ、よく似ているでしょ?」
いっそう写真を突きつけ、女はさくらに訴えた。
認めたくはないけれど、男の子の顔立ちは悔しいことに類によく似ている。華やかな雰囲気も。
「できたあと、類くんに黙って生んだということですか」
声が震えていた。でも、冷静にならなくてはならない。
「そうよ。ルイは女関係が派手だったから、妊娠した女はみんな、堕ろされた。さわやかな少年のイメージ売っていたのに、夜は女が手放せないなんて世間が知ったら、幻滅ものよ。だから、私は黙った。内緒にしていて、よかった。ルイの子どもを生めたのは、私だけ! だから、あんたはさっさと身を引いて。調べたら、ルイの義姉らしいじゃない。事務所が必死になって隠しているから、表立っては出てきていないけど、ネットの噂ではひどいもんよ。『北澤ルイは近親相姦』だって。そんな噂を放っておくわけ?」
さくらの髪を引っ張りながら、女は怒りをぶちまけた。
感情的になってはならない。相手に引きずられたら、おしまいだ。
さくらはじっとして、息を整えた。類を支えるということには、こういうことも含まれているのだ。
「赤ちゃんができるほど愛し合っていたら、類くんはあなたを放っておかなかったと思います。あなたは、忘れられていた。つまり、愛はなかった」
「でも、私のところに子どもは生まれた。ルイの子どもよ、北澤ルイの! ルイだって、私たち親子に会えば、気が変わる。あんたとのことなんか、気の迷いだったって認めるから、早く別れなさい。子どもが片親でつらい思いをするなんて、ルイもつらいはず。それぐらい、あなたも分かるでしょ」
相手は、さくらのことをだいぶ調査しているようだった。さくらが片親であることを知っているらしかった。
さくらは息を止めた。
父ひとり、子ひとりで、切ないことが多かった。これ以上、片親の子どもを見たくない思いはある。
けれど、写真を、どうにか押し返す。
「別れません」
「引いてよ。ルイの前から、消えて! あんたなんて、いなくなれよ!」
なおも、女はさくらを強い口調で責め続けた。
けれど、さくらは食い下がった。
「いいえ。類くんにとって、私は必要な存在です。類くんと私の絆は、誰にも切り離せない。自信があります。あなたのお名前を教えてください、類くんと話し合ってから、お返事をしますので」
「お金なんて、要らない。ほしいのはルイ」
「いいえ。類くんは、渡せません。任せられません」
「強情な女。あんたみたいな女、ルイが本気にすると思っているわけ? 珍しいだけでしょ、義姉とやれるなんて。飽きたら捨てられる。傷つく前に消えろって、ありがたいアドバイスをしてやってんのよ。この、ど素人が! じゃますんじゃねえよ。いい子ちゃんぶって、ルイをたぶらかしたんだろ?」
シャツの胸もとを強くつかまれたさくらは、それでも耐えた。
睨む。睨みつける。睨み返す。先に視線を逸らしたのは、ケンカをふっかけてきた女のほうだった。
「ばかばかしい。これ以上は、時間のムダね。私と会ったこと、ルイには言わないでよ。子どもがいること、急に知ったらルイは驚いて苦しむと思うから。彼を悩ませたくはないのよ、それにはあんたも同意するでしょ?」
なんという、自己中心。都合よくルイを盾にし、風除けにする狡猾な女の態度に、さくらは憤った。
「あなたに、類くんの、あ……赤ちゃんを、生む資格なんて、なかった! 類くんが望んでいるのは、私だけです」
「それは、あんたの単なる思い上がり。ルイはその日の気分で、女と寝る男だもの」
前科を知っている。祇園祭。祥子との、一夜。思い出したくもない。さくらは全身に震えが走った。
「このまま、あんたがルイにすがりつくなら、私の子どものことや、ルイの夜遊びの数々をマスコミにバラす。そうしたら、北澤ルイの芸能生命は終わりね、うふふっ」
「本気で言っているのですか。類くんには、モデルが天職なんです。それを奪うだなんて。自分勝手な理由で」
「あんたは甘い。ルイを狙っている女は多いんだから、先に奪った者勝ちなの。待つとか、耐えるとか、そんな悠長なことは言っていられない。ま、私はこうして子どもがいるんだし、リードしているけど」
「お名前、教えてください。写真、預かってもいいですか? お子さんは、どんなことがお好きなんですか。類くんに似ていますけど、声も似ているんですか。会わせてください。何気ないしぐさや、表情も似て……」
「うるさい!」
女は、さくらのことばをさえぎった。
「写真は渡せない。どうしてあんたごときに、詳しいことを教えなきゃいけないの? 私の子どもなんだから。あんたにできることは、一日でも早くルイから離れること。別れなかったら、次の行動に出る。あんたを、仲間に襲わせようかしら。あの女好きなルイが気に入るぐらいなんだから、さぞかしいい身体しているんでしょ? それとも、あんたたちきょうだいの、ただれた三角関係をマスコミに訴えて血祭り。それも、おもしろそう」
不吉な笑みを浮かべ、女は消えた。
***
……どこを、どう、歩いたのか。
夕刻。さくらは、ようやく自宅マンションにたどりついた。
東京から訪ねてきた女性と子どもの件を、類に報告するべきかどうか迷ったけれど、さくらは言い出すのをやめた。忙しい類をわずらわせたくない。今の類を信じたい。
家に帰ると、類はちょうど東京へ行くところだった。
玄関先でいってらっしゃいのキスを交わし、マンション下で見送る。
「すぐに帰って来きてあげるから。いい子でね」
「うん」
いつもの会話が、より切なく感じる。
引き留めるつもりはないのに、さくらは類の袖をつかんでいた。ぎゅっと。
「さくら。もう遅れちゃう。まったく、いつの間にそんな甘えんぼうさんになったのかな。かわいいけど、極度なわがままは困るよ。ぼくだって……ほんとうは離れたくないんだ」
「……ごめんなさい」
「日曜の夜、いっぱい抱いてあげる。今のうちに、よく休んでおいて」
そう言って、類はタクシーに乗った。
車内から笑顔で手を振る。さくらもせいいっぱいの笑顔で手を振り返した。
類の仕事絡みのことで、さくらが相談できる人物は、ひとりしかいない。
類の乗ったタクシーが見えなくなった直後、さくらは北澤ルイのマネージャーである片倉に宛ててメールを打ちはじめた。
『類くんには、内緒で会ってほしい。電話だけでは、説明が難しい。また、困ったことが起きている』、と。
週末は、片倉もルイのマネジメントで多忙なはずだ。
けれど、さくらも週末しか動けない。返事はすぐに来た。
『明日、ルイの撮影中ならば少しの間、現場を抜け出せます』
時間と場所を確認し、さくらは翌日東京へ向かうことに決めた。日帰りはきついけれど、この際仕方がない。類はもちろん、両親にも知られたくない。
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