第5話 五月晴れの空なのに

 多忙な四月が過ぎ、五月。



 さくらは類と、葵祭の桟敷席にいた。


 最近、微妙に気持ちがすれ違っているので、さくらが強引に類を誘ったのだ。

『京都三大祭』のひとつと呼ばれている、葵祭の見学イベントデートを企画した。今日のために、特別に設置される桟敷席を予約しておいた。

 華麗なる王朝絵巻の中に入ったような行列が、京都御所から出てきて市内を練り歩き、下鴨神社を経由して上賀茂神社に至る。


 ……はず、なのだが。


「あーつーい!」


 平日とはいえ、晴天に恵まれた五月十五日。人も多く、なにもしていないのに、じっとりと汗が流れてくる。


「暑いよ、もう帰りたい」


 さくらは類に向かって扇子であおいでやるが、とても不機嫌だった。類は、混んでいる場所へ出るのが好きではない。すぐに身バレしてしまうから。


 斎王行列の出立もやや遅れているらしく、類は明らかにいらいらしていた。屋外で、日焼けしてしまうことも危惧している。


「あと少しだよ、ね。行列まで、あとちょっと」

「てゆうかこれ、うちのベランダからも見えるんじゃないの?」


 ……それを言ったらおしまいだ。


「少しでも近くで、類くんにお祭り気分を味わってほしかったんだけど」

「ぼく、人ごみ嫌いなの。知っているでしょ? 涼しい部屋で、一秒でも長く、さくらといちゃついていたいのにさ。第一、今の時間ってお互い、普通に学校じゃん」


 時計の針は、十時三十分を指している。

 授業をさぼってまで見たい、というほどではなかったけれど、類と一緒に楽しみたかったのだ。

 けれど、ここまで酷評されると、ほかの人を誘えばよかったとも思えてくる。例えば祥子など、葵祭は古い物語にも出て来るから、精通しているだろう。


 じわじわと、さくらは後悔しはじめた。


 

 観衆がどよめく。御所の南、建礼門から、ようやく先頭が見えてきた。

 先触れ、騎馬の武官、華やかな牛車、大きな輿に乗っているのは斎王代。神の嫁。


「昔は未婚の皇女が選ばれたそうだけど、今は京都在住の、良家の未婚のお嬢さまが斎王代に立つみたい」


 ハレの日を正装で、何万もの好奇な目にさらされている斎王代。自分は絶対にできないし、やりたくないと思う。常に見られることを仕事にしている類には、どうってことないはずだが。


「……さくらのほうが、かわいいじゃん。若いし」

「ちょっと、なに言うの。失礼だよ」

「白塗りの姫君メイクで年が分かりづらいけど、若い子がいい。若い子……さくらはぼくのもので、処女じゃないからだめだけど、お、そうだ。ぼくたちの子どもが女の子だったら、斎王代にしようよ。きっと、超絶かわいいと思うよ! よし決めた。今夜もがんばろうっと」

「類くん、なんてことを」


 葵祭→斎王代→女の子→未婚→ぼくたちの子ども?

 類の妄想には、ついてゆけない。


「ぼくさあ、実は女の子がほしいんだよね。男はしんどいからさ。まあ、生まれたら生まれたでかわいいと思うけど、できれば女の子」


 最近の類には、赤ちゃんのことしか頭にないようだ。さくらには分からないところで、追いつめられているのだろうか?


「でも、私たちの都合だけで、赤ちゃんを欲しがっていいのかな」

「いいんだよ。ぼく、絶対に大切にする。二十歳になったらとか大学卒業したらとか、気長なことを言っていたけど、生まれてくる子どものためにも早く入籍しよう。結婚式は済ませてあるし、指輪も交換済みだし、時機を見て入籍。親ができ婚だったら、子どもがイヤでしょ」


「軽井沢の……あれが、ほんとうに結婚式だったの?」

「うん。公開結婚式」


 なにを勝手に、もちろんさくらは反論しようとしたけれど、類の満面のきらきら笑顔を前にすると、勢いが削がれてしまう。


「ずるい笑顔。反則技だよ。ふたりのこと、家族のことなんだから、類くんひとりで決めないで」

「このぼくに、それだけでも言い返せるのは、すごいよ。さすがさくらだね」


 肩を抱かれて耳に唇を寄せられると、さくらはすっかりおとなしくなってしまった。


「ひ、人前だよ。類くん……?」

「いいねえ、こういう反応。年上で気が強そうでも実は、ってギャップに萌え萌えだよ」


 大学を卒業したら、類は東京に戻って聡子の会社に入るつもりでいるのに。娘を斎王代になんて、できないのに。なんでも自分に都合よく考え、でも次々と実現してしまう類が、さくらは怖い。


***


 大学二年生になってから、さくらは自転車登校をやめていた。

 晴れの日は、京都御苑の中を通りながら、徒歩。そのあと、鴨川を渡ってしばらく進むと大学が見えてくる。

 雨の日は面倒だが、地下鉄とバスを乗り継いで通学。

 途中まで、類と一緒に登校しているからだ。


 さくらとしては買い物にも便利だし、自転車でも構わないのだが、類は頑として自転車を拒否した。


「転んだら困る」


 というのが、主な理由。

 よくよく聞いてみたら、こうも言った。


「うっかり屋のさくらが気がつかないうちに、おなかの中にぼくたちの赤ちゃんがいて、転んだら困る」


 類には話しづらいのだが、小学校中学校と小柄で細身だったさくらの生理は、はじまるのが遅かった。今でも、周期はあまり安定していない。こんなことを相談できる母親がいなかったので、深く考えないできたけれど。


 今回初めて、祥子に聞いてみた。


 さくらから連絡を取って、とある日のお昼休み、大学のキャンパス内で待ち合わせた。周囲に聞かれたくない話なので、人の少ない中庭のベンチを指定した。


 新緑が生え揃いはじめて、木々が輝いている。


 そして、あらわれた祥子も、相変わらず颯爽としていて、うつくしい。午後から、市内の女子大で学会があるというので、濃紺のスーツを着ていた。


「おまたせ、さくら」

「すみません、お忙しいのに。時間、取らせちゃって」

「ええって。さくらがうちを頼るなんて、ほんまうれしゅうおす。今日は、類のこと? 毎晩激しく求められて、さくら参っちゃう……とかゆう、おのろけ? え?」


 しかも、両手を伸ばしてきたと思ったら、祥子はむんずとさくらの胸をつかんで、揉んできた。ぎゅううっと。


「ひゃあああっ! いいいきなり、なにするんですか!」


「さくら、前より胸がずいぶんと大きゅうなった気がするんやけど、気のせい? 類の手技か。町家を出て、たったの三ヶ月で。恐るべし使用前、使用後!」

「やめてください………大筋で、合っています。類くんのアドバイスで、ちゃんとサイズを測って下着を買ったら、いい感じにカップがアップして……あ。なにを言わせるんですか、昼間っから!」

「ぷっ。正直やね、相変わらず!」


 祥子のさりげないほほ笑みも、相当な破壊力を持っている。思わず、さくらはどきりとした。


「若いうちは、仕方あらへんよ。あの類をずいぶん、お預けさせたし。けど、類がええんやろ、この幸せ者」

「それが……」


 類が赤ちゃんを熱望していること、でも困ること、さくら自身の身体がまだまだ不安定なことを素直に打ち明けた。


「そないなことやったら、計画的な妊娠はできひんわ。類の弾数に賭けるしかあらへんね、ご苦労さん。今夜も、おきばりやす」

「逆です。私、赤ちゃんはまだ困るんです。できれば、類くんには知られないように、避妊したくて。類くんの所属事務所からも、止められていますし。いい方法、知りませんか。類くんを傷つけたくないので、できればさりげなく」


「んー」


 祥子は腕を組んだ。意外と真面目に、さくらの話を聞いてくれている。


「さりげなく、ねえ。難しゅうおすね。クスリを飲むか、女性用の避妊具を装着するか。けど、さくらは十九やし、自然なままでええと思うで。いろいろ小細工して、身体に負担かけへんほうがええ」


 やはり、そうなるだろう。さくらの浮かない顔を見て、祥子は明るく、励ますように言った。


「ええやん、できたら。類、喜ばせたって。あんさんはうちの大学では、近年まれに見る追加合格で、すでに色物なんや。子持ちの大学生、ええやん。うちかて赤ちゃんの面倒は見るつもりやし、考えるより生んだらよろし。あの類が、新しい家族を欲しがっとるんや。柴崎家は変わった家庭やさかい、家族の愛に飢えとるはずや」


 もう、類の流した流れに全部をまかせるしかないのだろうか。


 祥子はさくらの頭をよしよしと撫でた。奇妙な感じだ。いやではない。

 ついこの間まで、恋のライバルで苦手な人だったのに、今では姉のように近く思える。


「……玲は、元気ですか」


 つい、聞きたいけれど聞けなかったことを、とうとう聞いてしまった。


「玲? ゴールデンウィークに、季節外れのインフルエンザにかかったけど、もう元気やで」

「インフルに!」

「そうえ。あれは、連休ぐらいまで注意が必要な病気や。さくら、玲がまだ気になるん?」

「はい……義理の兄ですし……」

「盛大に振って傷つけてくれたもんなあ、うちの玲を」

「すみません、その件はほんとうに」


「玲は、うちにまかせて。あの子には時間が必要や。まだ、そっとしておいておくれやす」

「は、はい。よろしくお願いします」

「時間に余裕がでけたら、聴講生か通信教育で、芸術系の大学に入ろうかなって言うてた。もっと、色の勉強したい、って」

「いいですね。玲の、将来のためになりそう」

「そやね。仕事に打ち込み過ぎて、実の弟にかわいい恋人を寝取られたあほな男やけど」


 ちょっと玲のことを思い出したようで、祥子は笑顔になった。とても愛らしい表情だ。


「祥子さんは、ほんとに玲が好きなんですね」

「当たり前やん。愚問」

「玲と、将来を誓い合っているどころか、お付き合いすらしていない仲なのに、お互いのことをよく理解し合っていて、なんだか羨ましいです」


「は? アイドルモデルと、毎日らぶらぶのさくらに言われとうないわ。厭味か」

「すみません……でも今、類くんと一緒に住んでいても、身体がつながっていても、不安でどうしようもなくて。なんだか、お互い別のことを考えているっていうか……」

「ま、さくらは類のことだけ、考えておればよろし。二十四時間抱かれまくって、さっさと孕めばええ」


 いやいや、現実的にはそうもいかないんで! それに、声が大きいです!


 けれど、祥子に話せたことで、さくらは少しだけ胸のつかえが取れた気がする。



 波乱の家族旅行から、一年が過ぎていた。

 あのときは、こんな未来が訪れるなんて、想像もできなかったのに。

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