第3話 板挟み①
四月の、とある日。
「五階の、柴崎はんどすね」
大学からの帰り、マンション管理人の男性に呼び止められたさくらは、どきりとした。なにか、よくないことでもあったのだろうかと、あるいはしてしまったのかと。
思い当たるふしが、ある。最近、類が困ったことにベランダで騒ぐのだ。最上階角部屋ゆえ、たぶん聞こえないからと類は言い切ってさくらも連れ出して。
たぶん、ストレスが溜まっているのだと思う。
自宅はとはいえ、屋外という場所に興奮した類は大声で叫んで大満足だったが、まさかマンションの住人に聞かれていて、クレームが入ったのかとさくらは焦った。
「同居の若い男性、有名芸能人はんですやろ。今も外にいてはるんやけど、彼目当てのファンが、マンションの周りを昼夜問わずうろうろしてはるし、張り込みのマスコミもあらわれたりとか、住人さんから苦情が入っとるんや。対応してくれへんか。あんまりひどいときは通報しとるけど、警察のお世話にはなりとうないし」
なんとなく、さくらも気がついていた。
マンションの周りにいる、北澤ルイのファンらしき女性たちに。
マスコミは警察をおそれるが、彼女たちは純粋な好意で張り込んでいるため、罪悪感が薄い。
「申し訳ありません。すぐに対応します」
「トラブルはあかんえ、直接のトラブルは。マンションの価値が下がってしまうさかい」
「はい。すぐに彼の事務所と相談して、穏便に対応します。住人の方々には、迷惑をかけてしまってごめんなさい」
「すんまへんな。あんじょう頼むで」
部屋に戻ると、さくらは片倉に電話をかけた。北澤ルイの敏腕マネージャーだ。
片倉は、すぐに電話に出てくれた。
「こんにちは。あの、今日はお話ししたいことがありまして」
『こんにちは、さくらさん。かしこまりました。では、こちらからかけ直しますので、さくらさんはいったん電話を切って、そのままお待ちください』
片倉の、丁寧な応対に、さくらは安心した。
電話は間もなくかかってきたので、北澤ルイの追っかけの存在を説明した。
『そうですか、それは大変な事態です。芸能人とはいえ、プライベートは守られるべきです。迅速に対処しましょう。くれぐれも、彼女たちと直接話したり、接触なさらないでくださいね。さくらさんの身に、危険が及ぶ可能性があります。もちろん、類にも』
「はい。お忙しいところお手数ですが、よろしくお願いします」
『いいえ、これも大切な業務です。マネジメントしているタレント、及びその家族を守ることも。先日までの大変な騒ぎが、ようやく落ち着いたばかりです』
「ありがとうございます……あの、もうひとつお聞きしてよろしいですか」
さくらは思い切って質問してみた。
「類くんの仕事、本人は調子いいと言っていますが、婚約その後の反応はどうですか。電撃発表したことで、やはり仕事に影響が出ていますか?」
『はい。実は、ですね』
片倉はいったん、ことばを切った。
『十代など、若い層向けの雑誌からは、モデル依頼が来なくなりました。婚約・結婚は、十代にはふさわしくないからでしょう』
そうなんだ、やっぱり。がっかり。でも、分かる。自分の好きな、異性タレントさんが結婚なんて知ったら、幻滅だ。
『けれど、大学生~新社会人周辺以上をターゲットに想定している雑誌の依頼は、かえって増えたぐらいですね。『北澤ルイと行く、恋が叶う京都(仮)』なんて、ガイドブック的写真集企画も来ました。教育番組に使いたい、という声もあります。少子化を防ぐには、早婚化を進めるべきですからね』
恋が叶う京都……それ、読みたい。わりと本気で。出たら買う。
『北野リゾート以外のコマーシャル契約を切られてしまい、さわやかイメージに傷がついたことは痛いのですが、類自身の思い描いている大人モデルへは近づいていると思います。おおむね、好評ですよ。そんなに心配していらしたんですか』
「はい! とても」
『まあ、社長は今でも、かんかんに怒っていますから、さくらさんは当分、事務所付近には来ないほうがいいですね』
「……すみません」
『私は今回のことで、類の人間味が増したと考えています。さくらさんを守ろうと必死になっていて、どんどん成長していますよ。ただ、くれぐれも、妊娠には気をつけてください。そこまで進んでしまったら、私ひとりではあなたたちをかばいきれません』
「は、はい! 気をつけます! もちろんです!」
類に、忠告しなければ。
ここまで釘を差されるとなると、そんなことになった場合はマネージャーの片倉も、責任を問われるだろう。なにせ、激怒の社長だ。こわいこわい。
もう一度お礼を述べてから、さくらは丁寧に電話を切った。
再度、エレベーターで下りて管理人室へ向かう。報告は、早いほうがいい。
すると、数人がエントランスに集まっていた。住人のようだ。どれも小金持ちそうな、中年のおばさまがたである。
「ああ。柴崎はん、来はった」
管理人のひとことで、さくらに視線が集中した。トラブルに巻き込まれる予感がしたけれど、あとにはひけなかった。
「あんさんが、柴崎はんか」
「はい。そうです」
「うちなあ、東に面しとる二階の部屋なんやけど、朝早うから夜遅うまで、外から若い女の子の話し声がずーっと聞こえてくるさかい、もうノイローゼや。早うなんとかして」
「うちもや。毎日じろじろ見張られて、気持ち悪うてかなわん」
「先月も、騒いだのに。まだ改善されへんのか」
さくらは一方的に苦情の的となった。
「あんさんとこ、賃貸物件なんやろ。うちらはここ、高いお金出して買うてんのや。買うてまで、こないな肩身の狭い思いせなあかんのか」
「ほんとうに、すみません」
懸命に、さくらは頭を下げた。
「まったく、有名モデルだか、なんだか知らへんけど、迷惑なんや。若い身空で、ここのマンションは贅沢やで。不似合いや。どうせ、東京者やろ。さっさと出て行きよし」
真正面から出て行けと言われ、さくらは息をつまらせた。婚約に反対されたときもつらかったが、いきなりここまで責められるのも、身にこたえる。
類が、普通の人だったらこんなことは言われなかったはずなのに。目立つ仕事をしているだけで、こんな扱いを受けなければならないなんて。
思わず涙が込み上げてきて、返答に戸惑っていると、外で大きな歓声が上がった。
同時に、マンションエントランスの自動ドアが開いた。
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