第3話 岩場

「さっさと帰れ」

 憧れのウサギに追いついていきなりそう言われた。だが、覚悟はもうできていたし、今さらすごすご引き下がるわけにはいかない。

「俺だって、母がライオンに喰われたんだ。悔しいし、仇をとりたい」

「最初に言ったはずだ。これは個人的な戦いだと」

 憧れのウサギは自然界の掟のように容赦なかったが、白ウサギの情熱に動かされたのか、

「まあ、邪魔にならないよう見学するだけなら勝手にしろ。それはお前の自由だからな。ただし、ヘマをして他の肉食獣に食われそうになっても俺は知らんぞ」

 と答えると、黒い箱から棒状のものを、今や手と化した前足を器用に使って取り出した。

「何なんです、それは?」

「ショットガン。文明の産物さ」

 黒い箱は、この眼つきの悪いウサギが遠路はるばる運んできたトランクで(もちろん、この若い白ウサギにトランクなんて分るわけはない)、洞穴の入口が狭いので地上に置いていたのだった。白ウサギはそれを見て、なにか禍々しい力を感じた。もちろん、生まれてずっとサバンナで暮らしてきた白ウサギが、銃器類について何か知っているはずがない。それでも野生のカンが、今、眼つきの悪いウサギが持っている真っ黒な鉄の塊に対して、尋常ならざる嫌悪感を抱かせた。それは全くの無機質なのに、いや、むしろそれ故にライオンより凶悪に感じた。

「まずは、あの岩の上にいるアイツからだな」

 黒光りする「それ」で指した先には、一頭のライオンが岩の上で寝そべっていた。

「本当に殺るんですね」

「ああ、まあ見ていろ。帰ってきたら、お前にも戦い方を教えてやる。お前はなかなか素質がありそうだからな」

「絶対に、帰ってきてください」

「言われなくてもそうするつもりさ」

 やや傾きかけた陽のもと、新緑の中を真っ黒なショットガンを担いで、そのウサギはゆっくりとライオンがいる岩場の方へ歩いていった。

 白ウサギは、久々の新芽の香りを鼻いっぱいに吸い込んだ。肉食獣の臭いはしない。陽光が心地いい。

 周りは平和そのもので生命に満ち溢れていた。母が死んだあの日と同じように。


 百獣の王は、最初は草原の上で寝転がっていたが、バッファローの群れがこちらに向かっているのを知ると、すぐに少し離れた岩場にベッドを移した。

 草原から絶海の孤島のように突き出ているその岩場は、自らの領国を見渡せる彼専用の玉座だ。ここで太陽を眺めながら時間を浪費する――まさに王者にのみ許される大自然の娯楽といえよう。

 強烈な太陽も、乾季が終わった後では気持ち良かった。先程の狩りで体についた血の臭いを取り除いてくれる。

 百獣の王がたてがみを震わせて大きな欠伸をすると、いつの間にここへやってきたのか、一羽のウサギが岩場の上のライオンを見つめていた。そいつはウサギのくせに眼つきが悪く、反抗的な臭いが風上に居るにも関わらずプンプンとした。いつもならライオンは一瞬でこのウサギを腹の中へ送り込んだだろう。だが幸いなことに、彼は満腹だった。だから一羽のちっぽけなウサギなどどうでも良かったし、そいつが話しかけてきても無視していた。

「よう、サバンナの親愛なる兄弟」

 そういえば、縄張りを侵してくるライオンは――半分眠った意識の中でふとそんなことを考える。しかし、そんな無謀なことをする者などいないだろう。彼はこのサバンナで一番強い雄なのだから。年齢もまだまだ現役真っ盛り。その上満腹というベストコンディション。領土を求めて流離う疲れ果てた雄になど負ける訳がなかった。他の領土を持っているライオンたちは自分と同じく、狩りの後の至福のひと時を満喫しているはずだ。つまり、自分の最大の仕事は食後の昼寝をたっぷりして、乾季の間消耗した体力を取り戻すことだ。

「せっかくアンタらの餌を代表してあいさつしに来てやってるんだぜ。そうだな、『いつもおいしいお肉をありがとう』なんてちょっと気の利いたことのひとつも言えないのかよ」

 ウサギがまた何か喋りかけている。ライオンは後から考えれば幸いとも言うべきか、このときすでに七割ほど夢の世界へ旅立っていた。といっても、このおかげで免れえたのはあの世へ旅立つきっかけとなる最初の苦痛だけだったが。

「もしも~し、こちら機長、管制塔、応答せよ。ただちに着陸許可を!」

 ライオンは、ウサギ機長氏に着陸許可を与える代わりに、この岩場が自分の玉座であることを示すために尻尾を使って尿をまき散らし、寝返りを打って仰向けになった。

 ようするに、お前など眼中にないからさっさと失せろ、ということだった。

 それでほんのしばらく、ウサギを黙らせることに成功した。だが、ウサギが持っている黒い鉄塊は、すでに長かった沈黙を破ろうとしていた。

 ウサギは、しばし岩場の上で一定のリズムで上下するライオンの腹を眺めていた。腹の筋肉が、力強く腸内の消化された肉を運んで行く様子が手に取るように観察できる。

 突然、ウサギはその腸内の肉を本当に手に取れるようにしてやりたい衝動に駆られた。父に子供の頃聞かされた話によると、ライオンに喰われたウサギは体だけでなく、魂までも体内に留まってしまうらしい。助け出す唯一の方法は、そのライオンの腹に穴を開けることだ。そうすることで、その穴から餌となったウサギ達の魂は解放されるのだという。

 実をいうと、このサバンナ現チャンピオンのライオンは、ウサギを食ったことは一回しかなかった。彼の掟の中ではウサギは弱者のための食べ物であって、真の強者たる者の食べ物ではない。だが、いくら強くても飢えには勝てない。乾季が明けたばかりの頃、大きい獲物を狩るためのエネルギーとして仕方なく一羽の白いウサギを食ったことがあった。彼がウサギを捕食したのはそれが最初で――どうやら最後になるようだった。

 眼つきの悪いウサギは眼に入り込んだ尿を手で拭うと、ライオンの上下する腹に狙いをつけてショットガンを向けた。

 引き金がカチッと音を立てると同時に、サバンナの優雅な午後を横断する轟音が響き渡った。

 反動で吹き飛ぶウサギ。

 ライオンは夢の中で出会ったおいしそうな獲物を諦めて超特急で現実へ帰ってくると、何が起こったか確かめるために起き上がろうと腹をねじった――おかしい。いくら起き上がろうとしても力が入らない。

 なぜだと思って太陽から仰向けになった自分の腹へ、首を動かして眼を移すと、そこには大きな丸い穴が肉食獣の口のように開いていた。断面に映る腸の端っこは、本体のライオン同様に何が起こったのかも判らず、いつも通りに消化活動を続けていた。消化物は、すでに岩の上へ、草の上へ飛び散っているというのに。

「へえ、中々お洒落でいい穴が開いたじゃないか」

 あのウサギが立ちあがって、穴越しに向こうの空を眺めている。

「俺が住んでいた日本という国では秋にお月見をするんだが、お前さんの穴、まるでその時の満月みたいだぜ。最も、サバンナの月の影はウサギみたいには見えんだろうが」

 血が満月大の穴からドクドクと溢れて止まらない。痛みの感覚が戻り始めた。どうやら、これは夢ではないらしい。

「青い満月も中々おつだな。おや、向こうに雨雲が見えるぞ。どうやら早ければ夕方にも一雨きそうな感じだな。ところで、着陸許可はまだなのか? できれば天気が悪くなる前に頼みたいんだが」

 シャコン。

 ポンプを引いてショットガンの弾を充填する音。薬莢が地面に落ちる。ウサギと眼が合った。

 ライオンは、玉座だと思ってきたこの岩は実は巨大肉食獣の大きな歯の上であって、正に今、ここで噛み砕かれて餌にされてしまうのだと直感した。一度目の咀嚼で腹に穴が開いた。では二度目の咀嚼ではどこに穴が開くのか――いつの間にか、さっきのウサギの目はショットガンの薄暗い空洞に変わっていた。

「安心で快適な空の旅を、ラビット航空が皆様にご提供します。なお、離陸時には若干の揺れがございますのでシートベルトをお締め忘れにならないよう、十分お気をつけくださいませ。それじゃあ、あの世でもご達者で」

 冷たい空洞から飛び出した鋼鉄の獣は、轟音を上げながらライオンの頭にかぶりついた。

 この鉄の肉食獣があげた咆哮で、草むらから鳥は飛び立ち、ネズミは一斉に穴倉へもぐり、ヒョウやチーターは木の上へ避難して様子をうかがい、ハイエナもバッファローの死体から口を離して音のする方を眺めていた。

 今や、彼らが見つめる先にいるのはライオンなどではなかった。

「ようやく着陸できたぜ」

 そう言ってウサギは岩場に登ると、頭部が毛の生えた潰れたトマトみたいになったライオンを蹴った。岩場は血でヌメっていたため、死体はウサギが蹴っただけで玉座から地面へ、ズルズルと滑り落ちていった。腹の穴から腸の切れ端が動いているのが見えたが、それもしばらくすると動かなくなった。

 だが、後に『豪雨の前の戦い』と称されることになるサバンナの闘争劇は、ライオンの腸が完全に動きを止めた時ですら、まだ始ったばかりだった。

 サバンナの新たな王者を絶対に認めないものがいる。それは、前の王の一族、つまり、メスのライオン達だった。

 彼女たちが復讐にやってくる気配は、眼付の悪いウサギにはすでに聞こえていた。聞こえるだけではない。さっきからサバンナの草があちこち揺れているのだから。

「今日は盛大な供養ができそうだな」

 さらに眼を細めながらそう言った。この戦いを見物しているはずの、白いウサギに聞かせるように。


 白ウサギは新緑の中に伏せた顔をあげ、長い耳を立てると、本格的に危ない状況になっていることを悟った。自分の近くにはいないが、すでにあの岩場の周りには復讐を誓う雌のライオンが隙間なく取り囲んでいた。ライオンは、オスよりメスの方が狩りは上手い。頑張ってチーター並の走りが出来れば逃げ切れるかもしれないが、あのウサギは重そうな武器を持っているし、持ってなくったってまず不可能だ。

 もちろん、近くに地下の巣穴の入り口もない。

 つまり、あのウサギに生き残る道はない、自ら武器を使って切り開くまでは。

 果たして宣言通りライオンを打ち倒して、盛大な供養を上げて生還出来るのだろうか?――出来るにきまってる。なんたって、彼は生ける伝説なんだから。しかし、この数。全部で5頭。一羽のウサギに対してはあまりに大げさすぎる。

 そのとき、彼の耳が草むらの中で葉が擦れる音と、遠くで雷が鳴る音を拾った。期待と不安の中、とうとう始まってしまったようだ。サバンナでの生存を巡る本格的な戦いが。たった一羽に託されたまま。

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