第2章 王太子殿下からの求婚

第21話 すれ違う想い 1

「ミツキ、…どういう事だ?」


 水を打ったように静まり返っていた応接室に、ルーカスの声が静かに響く。


「……ごめん」


 ミツキはまだ、ルーカスの顔を見られないまま目を伏せていた。

 その青ざめた顔が、これ以上にないくらいに真実を物語っている。

 ルーカスは、己の心をこれほどまでに統べる事が出来ない事があるなど、想像だにしていなかった。目眩がする。怒りにも似た感情が、腹の底から沸き上がってくる。その一方で、その震える唇を愛おしいと見つめる自分もいた。揺れる想いを面に出すまいと、必死に感情を押し殺す。


「っ面会は中止だ!サミュエル殿。申し訳ないが、日を改めさせてもらう」


 サミュエル王子は深く息を吐いた。

「…しょうがないね。分かったよ、ルーカス殿。ここは一旦引こう。だけど僕は、平和的な解決を望んでいるよ。君が、僕の国にしたようにね」

 意味ありげに語尾を強め、ルーカスを見据える。それから改めて美月に向き直り、微笑む。


「じゃあね、ミツキ。早く僕のところにおいで、待ってるからね」

 そう言い残し、サミュエル王子の一行は退室していった。


 サミュエル王子が去った応接室で、見送るために起立した美月もルーカスだったが、再びソファーに腰を落とすことはなく、ただ立ち尽くしていた。

 そんなふたりを眺めるレナードもまた、いつもの辛辣さは鳴りを潜めていた。


 ルーカスは、美月に手を差し伸べようとするが逡巡した。伸ばそうとした手を握り締め、目を閉じる。サミュエル王子の言っていた「肝心なことも言っていない」という言葉が、耳について離れない。


 “異世界から来た住人”


 肝心なこと。そうだ。ルーカスの描きつつあった未来にとっては、外せない一番大事なことだ。


 美月が漏らしていた「こっちの世界」とはそういう意味だったのだと、やっと納得する。そして美月自身も、ここが自分の住む世界とは違うということに、早々に気がついていたということ、その事実を知らされなかったことに、胸の奥かざわめき、押しつぶされそうになる。

 ルーカス自身も全く頭を過ぎらなかったわけではない。そういう例があったことを、話には聞いたことがあったのだ。しかし、美月はあの時、“国のこと”だと誤魔化した。


「ミツキ…」

 名前を呼ばれて飛び上がらんばかりにビクッと反応した。

 しかし、次の瞬間、その過敏になった体はふわりと包まれた。

「なぜ、言わなかった…」

 ルーカスはやり場のない想いを、無理やり心の奥に沈め込みながら、過敏に反応する美月を刺激しないように、愛しいという感情だけを表に出すことに徹した。


 なぜ、と聞かれても、美月は返せるだけのものは持ち合わせていなかった。初めは警戒していたからだった。だが、その後は、なぜ言わなかったのか?

「…ごめん」

そっと後ろから抱きしめるルーカスの腕に自分の手を重ね、謝ることしかできなかった。


「なぜ、謝る…」

「…ごめん」

 なぜ謝るのかさえ分からない。黙っていた後ろめたさ以外の感情、締め付けられるようなこの胸の苦しみ、この感情が別のもだということに美月は気づいていなかった。


 いつの間にか、レナードの姿も見えなくなっていた。

 ゆっくりと離されたルーカスの腕から、自分の手も離していく。喪失感に苛まれながら、やっとルーカスの顔を見る。いつか見た傷ついた少年の顔だ。苦痛に歪むルーカスの瞳に、裏切られたという色が滲んでいた。


「ごめんなさい。私…」

 後に続く言葉が出てこない。何を言っても言い訳にしかならない。


 相変わらず謝罪を繰り返すだけの美月に、ルーカスは次第に苛立ちを隠せなくなっていた。謝罪をされるたびに自分の想いを、存在を、否定されているかのように思えてならなかったからだ。


「異世界から…来たというのは…」

「うん…」

「…そうか」

「……」

「帰るのか?」

「…うん」

「ここに……」

 戻っては来られないのに、そう言いかけて、ルーカスは言葉を飲み込んだ。

そんな事は、判っているではないか。判った上で美月は帰ると言っているのだ。

 ぎりりと奥歯を噛み締める。


「ミツキ、すまぬが先に失礼する」

 ルーカスは足早に応接室を出ると、控えていた王太子付きの第二部隊長を呼んだ。

「カイト!付き合え!」


 ルーカスの押し殺した怒りを含んだ声に、後悔の念に押しつぶされるようにへなへなとソファーに座り込む。


 応接室に一人残った美月に、控えていたウォーカーが声をかけた。

「ミツキ様、お部屋に戻られますか?」


 外に控えていたウォーカーには、何があったのか分からなかったが、早々に終わった面会や、ただならぬ王太子殿下の様相に、ひとり残された美月の事が気がかりだった。

 しかし、部屋に戻るかと聞かれて浮かんだのは、アイラの顔だ。そのアイラの顔に先ほどのルーカスの表情が重なる。


「ごめん。もう少し、ここにいて…いいかな」

「はい、大丈夫だと…?ミツキ様?」

「ごめん。ちょっと一人にして」

「っは!失礼いたしました!」

 慌てて退室し、ウォーカーが扉を閉めたのを確認すると、一人になった安堵と寂しさに、こらえていた感情が溢れ出した。



 騎士団の訓練場に激しい剣戟が響き渡っていた。

 無造作に地面に脱ぎ捨てられた上衣が、舞い上がった土埃に晒されている。その上質な生地と豪奢な刺繍に目を見張る。

 目の覚めるようなブルーの色は、サミュエル王子を牽制する意味も込めて、美月のドレスと合わされたものだ。その色は、今、砂埃にまみれ、輝きを失いつつあった。


 飛び散る汗をものともせず、剣を打ち込んで来るルーカスに、じわじわと押されながらも、カイトはなんとかその面目を保っていた。ルーカスは剣技に長けている。本気で交わればカイトは勝てる気はしていなかった。しかし、今日のルーカスの剣は荒く、力任せだ。いや、だからこそ、気を抜いて当たりでもすれば、いくら刃を潰しているとは言え、大怪我をすることは間違いない。

 そう考えていた矢先、ルーカスの剣が左下から斜めに勢いよく振り上げられた。

「くっ…」

 カイトのうなる声の後、はじかれた剣が地面に落ちる音が響いた。

 目の前に鋒を突きつけられた。

「集中しろ!カイト!」

「申し訳ございません!」


 慌てて剣を拾おうとするカイトの視界に、ウェリントン公爵の姿が入る。


 レナードは嘆息しつつ、放り投げられ砂埃にまみれたルーカスの上衣を拾い上げ、その砂埃を払った。

「こんなところに脱ぎ捨てて…。褒められた行動ではありませんね、ルーカス王太子殿下。まあ、今日ぐらいは細かいことは言いませんが」

「なんの用だ?」

 ルーカスは乱れた呼吸を整えつつレナードを一瞥し、再び剣を構えたカイトに向き直った。

「陛下がお呼びです。先ほどの件で」

 レナードの言葉が終るや否、ルーカスの剣が地面に突き刺さった。

「…分かった。カイト、後を頼む」

「承知致しました」

 レナードから荒々しく上衣を奪い取り、ルーカスは訓練場を後にした。


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