第19話 決戦の前に

 眠れない夜だった。


 目を閉じるたびに浮かんでくるのは、至近距離にあるルーカスの瞳と、優しく口づけられ、啄まれた柔らかい唇の感覚だ。

 昨夜のルーカスの挑発に対しては、サッカーのことを考えてなんとか眠りに就くことが出来た。しかし、今夜は、そのサッカーのことを考えることすら無理だった。何故フリだけの婚約で、ここまでしなければならないのか、そう問いただしたい思いと、唇の感覚とエメラルドグリーンの瞳が綯交ぜに脳裏に浮かんでくる。

 ひとしきり泣いたので、瞼が腫れぼったい感覚がある。一旦眠りにつくのを諦め、重い身体をゆっくりと起こす。

 窓から差し込む月明かりに、室内の家具がほんのり照らし出されている。ライティングビューローの上には、異世界転移の事について整理しようと書きかけたノートがそのままになっていた。

 結局、何の進展もないまま、夜が明けたらサミュエル王子が来てしまう。ぼんやりした意識の中でその事を思うが、緊張感が戻ることも、危機感に食指を動かすことも出来ない。頭の中はルーカスのことで溢れかえっていた。


 ベッドから降り、椅子にかけていたガウンを羽織る。寝室を出ると、バルコニーから差し込む月明かりで、さらに部屋の中は明るく感じた。バルコニーに続く窓を押し開け、外に出る。

「寒っ…」

 冷たい夜風に身震いをする。見上げると、夜空には半月が一際明るく輝いていた。

「綺麗…」

 月齢とかは地球のそれと同じなのだろうかと、ふと考える。

 そうして、ルーカスのことが頭から離れていたことに気づき、可笑しくなった。


 少し冷静になろう…。


 深呼吸すると、冷えた空気が肺に入る。寒いくらいがちょうどいいかもね。この腫れぼったい瞼も冷やしてくれたらいいのに。

 そう思ってみたものの、そんな訳ないかと少し笑って、ため息を一つ。


 そっと、唇を手でなぞる。ルークの唇の感触を思い出し、ドキッとした。


 ルークは、何故キスをしたんだろう。

 婚約者のふりにそこまで必要?ないよね?

 そう思ってみたものの、私が過剰に反応しているだけで、こっちの世界…、この国ではキスくらいは当たり前なのかもしれない…。

 むむっ。そうだとしたら、私が一人で騒いでるだけ?


 ―――それは痛い。


 いや、待って。

 でも、でもよ?私は初めてなわけでっ!

 ファーストキスだよね。やっぱりお互いの思いが通じてからって思うじゃない~!夢みたっていいんじゃない?


 それをあっけなく奪われた。

 しかも、ルークは美月と違って大人だ。キスくらいで騒ぐ年齢ではない。

 …だって、慣れている感じだった。

 そう考えて、胸が苦しくなる。


 ~~~~っ

 どうせ、私は子どもだし、ファーストキスだし!

 なんだって言うのよ!

 よくも断りもなく、わたしのファーストキスを奪っていったわね!

 もうっ!

 ルークのバカ!


 心の中で盛大に罵った。声にしていないはずなのに息切れがする。相当力が入っていたみたい。

 なんにせよ、少し気分が晴れた。気づけばバルコニーの下で護衛についてくれている騎士が、心配そうにこちらを見ていた。軽く頭を下げ、ご苦労様、ありがとう、と礼を言い、室内に戻った。


 夜風にすっかり身体の火照りと頭が冷えた美月は、再びベッドに潜り込んだ。

 明日はサミュエル王子と対峙しなければならない。そのためにもゆっくり休んで、まあ、まずは早朝の朝練だ!

 今度こそトレーニングメニューを考えながら眠りにつくことができた。




 朝起きると、まだアイラは来ていなかった。朝練の準備をし、部屋を出るとアイラと団長が話をしているところだった。

「おはようございます。ミツキ様。昨夜はよくお休みになられましたか?」

 少し慌てたように感じたが、口調はいつものアイラだった。


「おはよう。アイラ、団長!今日も絶好調だよ!団長、行こうか」

 今朝もいい天気だし、何より大好きなサッカーができる喜びは大きい。


「ああ、今日はミツキ殿に勝つからな」

「え、今日も勝負するの?」

 思いがけない団長の意気込みに呆けてしまった。

 もうボーラの件が片付いたからいいのに。


「当たり前だ、勝つまでやるぞ、俺は」

「うっわー、しつこそうー。よっし、それじゃあ、私も本気でやるね」

「え、ちょっと待て、まだ本気じゃなかったのか?」

「何言ってんの、あったり前じゃない。素人相手に初めっから本気は出さないでしょー?」

「え、えぇっ!」

 いいじゃないの!益々やる気が満ちてきた!


 賑やかに話をしながら訓練場へと向かう美月達。その姿に目を細めながら、アイラは今日の段取りを頭の中で繰り返した。


 今日はきっと美月にとって大きな転機になるだろう。ルーカスとの関係も新たな局面に入るかもしれない。大好きなふたりに幸せになって欲しい一心で、アイラは両手を胸の前で握り締めた。



 サッカーの勝負は、相変わらず美月の圧勝だった。


「駄目だ。全くもって勝てる気がしない」

 息を荒げ、オリヴァーは項垂れた。

「や、でも昨日より動きが良かったよ?ちゃんと予測して動くなんて流石だね」

 本当にそう思った。

「だが、美月殿はさらにその先を読んでいるではないか」

「当然!」

 それはそれ、これはこれ、だ。

「く~~~。悔しいが今は何も言い返せん」


 団長の悔しそうな顔を見て笑っていると、他の隊員から声をかけられた。


「え?勝負?」


「はい。昨日、今日とお二人の対戦を見て、自分もやってみたくなりました」

「あ、俺も~。ミツキ殿、俺は団長と違って若いから手強いぜ~」

「ならば、私もぜひ!」


 わらわらと騎士団の隊員が集まってくる。

 え~、しょうがないなぁ。

 みんなサッカーに興味を持ってくれているんだね。

 ―――嬉しい。きっと今、ニマニマしているよね、私♪


「じゃあ、人数も多いから、一人5ポイントずつね」

「おう!」

「よっしゃー」




「何だ、お前ら。口ほどにもないな」

 うちひしがれている騎士団の面々に、オリヴァーが嘆息した。

 勝負は、程なく美月の圧勝に終わった。 


「団長ぉ~、何者ですかミツキ殿は…」

 騎士団として、男としてのプライドをへし折られた騎士が泣きついた。


「何者って…、ルーカス王太子殿下の婚約者だ」


「―――ああ…」

 頭に浮かんだ王太子の顔。その婚約者―――。もう何をやっても勝てる気がしなかった。


「団長、みんな、ありがとう。また明日よろしく!」

「明日?明日も勝負してくれるのか?」

 一人が言うと「俺も、俺も」と群がってきた。


「勝負…。そうね、宿題出すからそれが出来たら、勝負するわよ」

 じゃあ、と護衛の騎士を引き連れて訓練場を後にした。


「―――宿題?」

 美月は彼らに宿題という名の条件を出した。この国にサッカーボールと同じものはないが、フットサルボール程度の跳ね返りのボールがあった。そのボールを使って腿を使ったリフティングと八の字ドリブルをマスターしてから挑戦するようにと。

 多少は扱えないと、本当に勝負にならないからだ。



 上機嫌で訓練場を後にすると尖塔に向かう階段では、昨日のレナードの予想通り女官の行列ができていた。ただし、本日からは業務に支障をきたさないために、希望するものの中からの抽が行われ、人数は限られていた。それでも10名はいただろうか。


 何だか朝から賑やかで楽しいと、女官たちときゃあきゃあと騒いでいたら、護衛の騎士に声をかけられた。

「ミツキ様、本日はあまりお時間がございませんので…」

 あ、忘れていた。そうだった。

 協力してくれた女官たちにお礼を告げ尖塔を後にする。



「ありがとう。ええっと、ウォーカー。あなたには助けてもらってばかりだね」

「いいえ!助けて頂いたのは私の方でございます。御恩は忘れません。私の命に代えてもミツキ様をお守りさせていただきます」

「そ、そお?…ありがとう」

 ウォーカーの慇懃な態度に、困惑する。ウォーカーは、美月が翡翠の間に来た時から付いてくれている護衛騎士だ。美月が置いてけぼりにしたせいでお咎めをうけそうになっていた。つまり、迷惑をかけた思いはあれど、助けた記憶はない。変わらず勤めてくれているので大丈夫だったのだろうが、礼を言われても嫌味にしか聞こえない。だが、そんな含みも持たせない物言いに、アイラといい、ウォーカーといい、なんと出来た人たちが多いのかと感心する。


 翡翠の間に戻り、急ぎ湯浴みと朝食を済ませ、侍女に囲まれる。随分この環境に慣れてきたなぁとしみじみ思う。もし、サミュエル王子が美月の転移に関わっていて元の世界に帰れることになったら、皆とはお別れになるんだなーと侍女たちの動きを眺めながら考える。異世界に来て今日で4日目。だが、随分と時間が経ったように感じる。

 皆が良くしてくれるのも、ルーカスの客人としての扱いがあるからだろう。ああ、今は婚約者だったなー。と、考えたのがいけなかった。昨日のことを思い出してしまった。ドレスを被せられて顔を出した時には美月の頬は赤く染まっていた。

 今日のドレスは、目の覚めるようなブルー。シンプルなデザインにその鮮やかな色が際立つ。髪はハーフアップに結い上げ、アイラの指示通りに美月の着付けは終わっていった。


 ハーブティーの香りを堪能していると、王太子付きの騎士の一人が伝令としてやって来た。

 エアージョン帝国のサミュエル王子が到着したという。この後、国王陛下に謁見し、陛下から今回の訪問の意を問うという。その時にルーカスも立ち会うのだと。


 いよいよだ。

 顔も知らないサミュエル王子のことは、正直よく分からない。アイラは今年の和平条約締結記念式典の時に遠目に見ただけだという。ルーカスはもちろん知っているはずだけど、詳しくは教えてもらっていない。

「待つしかない、ね」

「大丈夫ですわ、ミツキ様。ルーカス王太子殿下がついていらっしゃいますもの」

「うん。そうだね、アイラ。ありがとう」

 笑顔で返事をした美月だったが、先程から胸騒ぎがしておさまらない。


 刻々と時間だけが過ぎていく。

 ただ待っているだけの時間は、不安を増幅させた。握り締めた掌に、アイラがそっと手を重ねてくれる。

 ありがとうと口を開こうとしたその時、翡翠の間のドアが勢いよく開かれた。


「ミツキ!居るか?」


 ドアを開けると同時にかかる声。ルーカスの足取りは荒く、その表情は硬い。


「居るわよ、ここに」

 座っていたソファーから立ち上がろうとすると、ルーカスがそれを制した。

「いや、いい。そのままで」

 目があった瞬間、ルーカスがホッと緊張を和らげたのを感じる。そのまま美月のもとに来て、向かいのソファーにドカっと腰を下ろす。美月はすぐにでも問いたい気持ちを抑え、ルーカスが落ち着くのを待った。

 ルーカスは、注がれたハーブティーを一気に飲み干すと、大きく息をついた。


「ミツキ、エアージョン帝国のサミュエル第一王子が、お前に会いたいと名指してきた」

 美月の瞳をまっすぐに捉えるエメラルドグリーンの瞳。少し苛立っているようだ。

「どうして?理由は?」

「それが分からない。お前に会って直接言うとしか…」

 ルーカスの中の苛立ちが顕著になる。

「そう…」

「どうする?嫌なら会わなくていい。このまま追い返す」

 相変わらず苛立たしげにしている。前髪をくしゃりとかきあげた。


 美月から小さな笑みが漏れる。

 そんな事が出来るわけがない。相手は友好国の王子だ。だから言ったのに、と思いつつ、その言葉を飲み込む。


「会うわ」

「…そうか。大丈夫だ、俺も立ち会う」

「うん、わかった。ここに来るの?」

「ここには入れん!誰がっ…、あ、いや…応接室が別にある。時間は、今、ウェリントン公爵が段取りを進めている。まあ、午後からになるだろうから、それまではゆっくりしていろ。じゃあ、後でな」

 美月の頭に手を乗せくしゃっとさせると立ち上がる。

「いくぞ、カイト」

「はっ」


 聞き覚えのある名前にハッとする。ルーカスの後ろに控えていた騎士、カイトと呼ばれた人物に目をやる。アイラの想い人だ!おおっ!なかなかの男前。焦げ茶色の髪はサラサラのストレートで思わず触りたくなる。強い意志を宿した茶色の瞳にキリっと引き締まった口許。黒の騎士服がその凛とした佇まいを引き立たせていた。アイラちゃん目が高い!

 思わずニヤリとしてアイラを見たが、アイラの方は、美月のことを心配してそれどころではないようだった。どうやら、脳天気に気が削がれていたのは美月だけのようだった。

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