第18話 溢れる想い

 抱き合ったままどれくらいの時間が経ったのか。


 背中に回していた腕と、押し付けられた胸許に感じる、ルーカスの見かけよりも厚い胸板や鍛え上げられた肉体に、治まらない動悸とは別に安堵を感じ、すっかり身体を預けていた。

「ミツキ、そろそろ…時間切れだ」

 そう言いながら、ルーカスがきつく抱きしめていた腕を解くと、つま先立ちになっていた美月は、途端に重力が戻ってきたかのような錯覚に陥った。その反動で、少しふらついた両肩をルーカスが支えてくれる。そして礼を言おうとする美月の頬に躊躇うことなく手を伸ばしてきた。

 頬から顎にかけて添えられた手は、美月が驚くまもなく顎を持ち上げ、そっと唇を推し当ててくる。さらに、立ち尽くす美月の唇を、今度はやさしく角度を変えつつ、何度も啄む。

「…はっ、ん…」

 ぞくりと身体の芯が疼き、思わず声が漏れる。思いもよらず甘さを含んだ自らの声に躊躇う美月に、フッと笑を漏らしたその唇は、ゆっくりと名残惜しそうに離れていった。

「おやすみ、ミツキ」

 最後に額にキスを落とし、ルーカスは翡翠の間を後にする。

 美月はあまりの衝撃に、顔を真っ赤に染めたまま、未だ立ち尽くしていた。


 え、今のなに?何で…、キス……

「…!」


 そこで、同じように赤い顔をしている人物に気づく。

「アイラっ!い、居たの、いぃぃいつから?」

「申し訳、ございません。あのっ、こちらに帰られた時から…。あぁ、いいえ!いいえ、ミツキ様!わたくしは何も見ておりませんわ!」

 しかし、同じように頬を染め、視線を外す護衛の騎士達の姿も、開け放たれたままの扉の向こうに見える。アイラはこの婚約が偽りのものだと知っているが、騎士たちは知らない。


 酷い、酷いよ、ルーク。こんなこと…、なん、で…。


「アイラ、私、もう休むから。アイラも休んで?」

「かしこまりました。ミツキ様」

 美月の声は微かに震えていた。


 アイラが辞した部屋に一人佇む美月の頬に、泪がひとすじ流れる。美月は慌てて寝室の扉を押し開き、ベッドにその体を投げ出した。次々と流れ出る泪を止めることもできず、声を押し殺して泣いた。




 足早に自室に戻ったルーカスもまた、頭を抱え、声を押し殺しながら唸っていた。


 どうしたものか。

 思わず抱きしめたのがまずかった。


 思いがけず華奢な美月を抱きしめていると、様々な感情が波のように、次から次へと押し寄せてきた。昨日、ここまで心を乱されたことはないと伝えた思いは本当だ。

 だが、そんなルーカスの訴えのさらに上、想像を超えるところで美月は話をしてきた。この国の女性では考えられない、男並みのトレーニングをこなしているのにも驚くが、オリヴァーとのサッカーのトレーニングを行った時の報告にさらに驚かされた。自分の腕の中に収まってしまう、この小さな体のどこにそんな力があるのだと信じられない思いで、抱きしめる腕にさらに力が入ってしまった。


 サミュエル王子の事を伝えた時には、相変わらずの鈍さに油断した。事が分かれば、相手が王子であろうが一刀両断だ。信用ならないと切り捨てた。まあ当然の判断だ。だが、俺も信用できないと国の利益で動く存在だと言われた時には返す言葉がなかった。王太子という立場を考えれば確かにその通りだ。むしろ、当然のことだ。いや、しかし、サミュエルと俺が同じ扱いか?王族だということに誇りを持っているし、周囲にもそう扱われてきた。その称号をここまで拒否されたのは初めてだ。俺個人を信用しろと叫んでいたが、それすら否定される。もう、命令するしかなかった。


 一体どれほど俺の心を振り回すのだと恨めしい。だから、婚約の話をした時には小気味好かった。相変わらずコロコロ変わる表情がたまらない。やっとこちらのペースにもっていけると思ったが、サッカーの練習をさせろと手を握り、許可すると抱きついてくる。相変わらず俺を振り回す。その挙句、サミュエルが来る前に早く帰りたい、俺の前から居なくなるだと?せっかく歓喜に満ちていたのに谷底へと突き落とされた気分だった。仕事に戻ると美月たちを退室させたが、当然、しばらく仕事にはならなかった。

 そんな美月に一矢報いようと、何やら部屋で考え込んでいる隙に近づいた。寝室だが、ドアを開けていれば大丈夫だろう。男に免疫がないという美月をからかってやろうという思いもあった。案の定、初心な反応を返してくる。可笑しさを堪えながら、美月を刺激していたら俺が危ういことになっていた。そもそも、謁見室で着飾った美月を見たときには思わず見とれて固まってしまった。父上に揶揄されるくらいにだ。近づいて触れるとその甘い香りに、柔らかな肌触りに、俺の方が刺激される。挙句、真っ赤な顔をして潤んだ目で挑発的な視線を向け、それは俺のせいだと言う。レナードが止めなければそのまま口づけ…。いや、まずかった、ここは寝室だった。

 そして、今日の美月も美しく着飾っていた。これは、俺の精神力への挑戦か?試されているのかと恨めしくなる。日本という国に帰りたいという。仕方がないだろう。だが、その後は、もう一度俺のところに帰って来いと言いそうになり、慌てて口許を押さえた。

 駄目だ。…いや、いいのか?父上もこのまま本当になっても構わんと言っていたではないか。

 そんな俺の葛藤をよそに、美月はサッカーをする自分は格好よすぎて惚れるかもとからかってくる。“女官のように?”と返すので精一杯だった。

 コイツは本当は悪魔か何かではないのかというくらいに、俺の心を激しく揺さぶる。


 降参だ。

 もう充分に惚れている。


 王家の面々との晩餐もはじめは緊張していたが、すぐに臆することなく馴染んでいた。事情を知らない母上も、いたく美月を気に入っているようだ。

 翡翠の間まで送り美月に笑顔を向けられると、思わず抱きしめた。

 美月の甘い香りと、華奢な抱き心地に俺の扇情浴が刺激される。一層強く抱きしめた俺の背中に、美月は腕を回してきた。

 媚びることなく傅くことのない美月が、だ。俺の心は喜悦で満ち溢れた。愛しいという想いに抗うことができず口づけていた。

 美月の全てを俺で満たしたいという欲情に駆られたが、流石にそれはまずいだろう。正式に婚約してからだ。俺は心に鞭を打つ。そう言い聞かせないと、どうにも止まらないくらいに想いは高まっていた。


 一つ、気になることといえば美月の言っていた「こっちの世界」という言葉だ。どこかで聞いた気もするが、美月の言うように、国のことなのか?まあ、明日になれば、分かることも増えるだろう。まずは、サミュエル王子の目的がなにかだ。和平交渉から始まり、何度も会ってはいる。物腰は柔らかいが、なかなか食えんやつだった。4年前の戦をけしかけてきたのも、対外的な発表は違うが、実質はサミュエル王子だ。

 今度は一体何を企んでいるのやら…。まさか、女ひとりに国を動かすつもりもないだろうが、エアージョン帝国は国内の情勢が、未だ不安定なままだ。王位継承者もその順位が決まってはいるが、正式発表はされていない。政務官も軍隊も派閥争いが続いていると、密偵からの報告に変化の兆しはない。

 用心に越したことはないが…。

 そう思いつつ先ほどの美月との逢瀬を思い出す。幸せな思いに浸りながら、レナードがいなくてよかったなと思う。居れば何を言われていたかわからないくらいにルーカスの表情は緩んでいたから。

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