第11話 息が詰まる。
神がかり的な集中力を発揮し、本日分の書類を片付けたルーカスは、レナードを伴い翡翠の間に向かった。
気になる情報を得たため、今後の対策を話し合うためだ。と、自分に言い聞かせながら。
ところがその途中で不穏な声を耳にする。
「なりません!どうかお止めください、私が怒られてしまいます。ひゃあっ。駄目っ!きゃあぁぁぁぁっ。いやぁぁぁっ」
ぎょっとしてルーカスとレナードは顔を合わせる。声は、この先の尖塔に向かう階段から聞こえてきているようだ。二人は悲鳴の聞こえた方へと急いだ。
「お、お止めくださいませぇっ、あぁぁぁぁっ」
一体何をしているのだと、苛立ちを露にしながら尖塔に向かう階段にたどり着く。
「そこにいるのは誰だ!ここで何をしている!」
雄々しいルーカスの声が響く。
見上げたルーカスの目に映ったのは……、アイラをお姫様抱っこして降りてくる美月の姿だった。
「お、おまっ、お前はっ…、何をしているん、だ?」
「何って、トレーニングだけど?」
ルーカスを一瞥し、ああ、と思い出したかのように笑う。
「あれ、ルーク、お仕事終わったの?早かったんだね。じゃあ部屋に戻ろうか。アイラ、協力ありがとう!またお願いね」
美月はアイラをそっと下ろしたが、アイラの方は足が立たなかった。
「うわっ、ごめんね。もしかして恐かった?」
「いえ、あの…、申し訳…、ございません」
美月に抱えられたアイラは、ぐったりと項垂れている。
ルーカスは今度こそ開いた口が塞がらないのではないかと思ったが、なんとか声を出す。
「レオ…、お前がアイラを運んでやれ」
翡翠の間の前で、美月を探しに行くべく思案していた騎士ふたりは、生きた心地がしなかった。
一人残り、一人が探しに行こうとしていた所に、満足げに、今にも鼻歌でも歌いだしそうな笑顔で歩く美月が帰ってきた。安堵したのは一瞬だ。ふたりは、すぐにそれを後悔することになった。
その後ろから、ぐったりしている侍女のアイラを抱えるウェリントン公爵の冷めた視線、不機嫌極まりないルーカス王太子殿下の射るような視線をそれぞれ向けられ、無言のまま翡翠の間に入っていったからだ。
若いふたりの騎士は、自分たちの王城勤めが今日で終わるであろうことを悟った。
4人が入っていった翡翠の間には、何とも言えない空気が漂っていた。
ひきつった笑顔の美月を前に、不機嫌さと苛立ちを隠そうともしない王太子が座り、その後ろに控えるウェリントン公爵の冷ややかな視線。
その三人の表情を見比べる事の出来る位置にアイラは座らされていた。本来ならば、美月の後ろに控えている立場である。しかし、足にまだ力が入らない。その申し訳なさと、もっとしっかり止めていればとの後悔の念、さらにこの重々しい空気に押しつぶされそうになり、失神しそうだった。
「あー、もしかして、またやらかしてしまいましたか?」
美月が口を開いたのは、運ばれてきたお茶をレナードが受け取り、人払いをした後だった。だが、しかし、そのあとに誰も言葉を繋げなかった。
誰もが無言のまま時が過ぎる。
もちろん、心の中の声はそれぞれに違っている。
「俺は、…ここまで心を乱された事はない」
重い口を開いたのはルーカスだった。
「ここに急いできたのは、伝えたい事と、今後のことで確認したい事があったからだ。だが…」
そこまで言うと、深く長いため息をつく。
「もはや、何から話していいか分からぬ」
逡巡しつつ、美月が尋ねる。
「あのう…、何がいけなかったのでしょうか?」
上目遣いの美月を見て、ルーカスは盛大に溜息をついた。
「自覚なし、…か。…レオ、頼む」
「御意」
眉根を寄せて天を仰ぐルーカスに、レナードが軽く頭を下げる。
「では、ミツキ。先ほどの行為から、説明していただけますか?」
「先ほどの行為?」
いや、こっちが聞いているんだけど。…行為?
「あなたが、護衛も伴わず、トレーニングだと言い、アイラを失神寸前まで追い込んでいた行為ですよ」
レナードは笑顔のまま辛辣な言葉を並べる。
はっとアイラの方を見る。力なく笑うアイラ…。
「…っ!ごめんなさい…。そんなつもりじゃなかったんだけど」
「どう思おうと、結果は結果です」
―――ああ、それはそうだ。私のノリで押し切った自覚はある。足が立たなくなるほど怖がっているとは思っていなかった。
「うん。そうだね。ごめんなさい。…アイラ、怖い思いさせてごめんね」
「いいえ!いいえ、ミツキ様!わたくしが不甲斐ないのがいけないのです。わたくしが至らぬせいでミツキ様にご迷惑を…」
謝罪の言葉を述べるアイラの口許を、美月の人差し指がそっと塞ぐ。
「―――!」
アイラの顔が赤く染まった。
「いいよ、アイラ。もう黙って。そんなに私の事を庇わなくていいから」
アイラに向かい、出来るだけ優しく微笑む。アイラが口を閉じ、コクコクと頷くのを確認し、もう一度微笑んでルーカスとレナードに向き直る。その瞳には先程までの躊躇いはなく、落ち着いた深い色だった。
「色々とすみません。落ち着いて考えたら、ちょっと調子に乗りすぎていたと思います。ですが、巫山戯ていた訳ではありません。トレーニングというのは本当です。私は、女子サッカーの選手です。あー、サッカーというのは一つのボールを手を使わずに奪い合う競技で、11人対11人で行います。敵のゴールにボールを入れたら1点入ります……」
サッカーについて競技の特性や、普段の練習内容、そしてもちろん今朝のランニングや先ほどの筋トレについても説明する。そこまで話すとレナードが美月の言葉を制した。
「つまり、あなたの国では、女性を抱えて階段を昇降するのが、当たり前だと?」
「あー、いえ、一般的には当たり前ではないかも。ですが、スポーツ界ではチームメイト同士で体重の負荷をかけて階段を登ったり、砂浜を歩いたりするのは足腰を鍛えるために、取り入れられています。パワー重視の競技では2~3人抱える選手もいます」
「女性が?」
「もちろん。ちなみに、わたしも普段は2人抱えていますよ」
「…さようで」
にっこり笑う堂々たる態度の美月に、何とも言えず、レナードは柳眉さげ肩を竦めた。
「私は2か月前に骨折して、ずっとチームメイトとは別メニューで練習していました。ここに落ちて来る前に、やっとチームに合流して練習を開始したところでした。来月から新人戦が始まります。リーグ戦を勝ち抜いて決勝トーナメント戦へと続きます。長丁場になるので体力を落としたくないのです。でも、皆さんにご迷惑をかけたことはお詫びします」
深々と頭を下げたあと、美月は話を続けた。
「アイラはそんな私の行動を、この世界の常識をもって止めようとしてくれていました。ですが、先ほどお伝えした事情のため、私が強引にアイラの言葉を押し切って連れ回しました。私の日常を押し付ける形で、王城の大切な侍女を恐がらせてしまいました。それと、部屋の前の騎士お二人にも申し訳ないことをしました。部屋を出るときにちょうど一人不在だったので、待ってくださいと言われたのに、城内のすぐ近くにいるからと伝言してアイラを連れてトレーニングに行きました。これもこっちの世界では非常識ですよね」
ここまで話すと、改めて、自分の行動が迷惑をかけていたと思い知らされる。冷静に考えると反省点ばかりではないか?
…まずい。本当にやらかしたのかもしれない。
私のせいで…。
まさかの断罪―――?
私は仕方がないかも知れない。
いや、本当は嫌だけど。
でも騎士やアイラまでそれは申し訳無さ過ぎる。
「自分の立場を弁えず、身勝手な行動をしました。申し訳ございません。全て私が押し切ったことです。騎士二人にも、アイラにも非はありません」
「それは、こちらが決めることです」
レナードの何の迷いもない言葉。その表情も変わらない。
当たり前のことだと―――。
「そうですね、すみません。出過ぎたことを」
感情のこもらない返事を返し、目前に座るルーカスへと視線を移す。その瞳もまた、“立ち入るな”と咎めているようだ。
美月は目を伏せた。
単なる客人、いや一応教育係だった。
それでもそんな身分など、王太子から比べると小さなものだ。そもそも比べることさえおかしい位の格差。
ここで、…私が籠の鳥でいれば、何の問題もないんだろうね。
そうして、部屋の中で静かに監視されて日々を過ごしていく。
帰れるかどうか判らない恐怖と向き合いながら…。
息が詰まりそうだ。
走っている間は何も考えずにいられた。
できれば1日中走っていたい。
でもトレーニングを続けたからといって、帰れる保証はどこにもない。
そう、確かなものなど、どこにもないのだ。
だからといってアイラ達に迷惑をかけてもいけない―――。
美月は、膝の上に置いた手を強く握り締めた。
心の中に湧きあがりつつある絶望を、握りつぶしてしまいたかった。自分の置かれている理不尽な状況を、泣き叫び、誰かにぶつけたかった。
俯いたまま懸命に目を開く。今にも泪が溢れそうだ。
こんなのは嫌、嫌だ。
「大丈夫か?ミツキ」
これ以上ないくらい握り締めた美月の手に、ルーカスが手を重ねた。
「!!」
突然重ねられてきた手に驚き、美月は慌てて手を引いた。
不安に苛まれ、全身の神経がこれ以上ないくらい過敏になっている。
美月の驚きように、ルーカスもまた驚きを隠せなかった。
「す、すまぬ」
「いえっ、大丈夫、です。すみません。…って、やっぱり大丈夫じゃない!無理!」
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