第10話 妄想はしていない。
朝の目覚めは、遠慮なく開かれた自室の扉の音と、レオの声だった。
「ルーク、起きろ!ミツキがいなくなった」
「なんだと?」
こんな素早い目覚めは久しぶりだ。
急いで夜着から、シャツとトラウザースという簡素な服に着替える。
「どういうことだ?」
部屋の外に出ると、昨日ミツキ付きにした侍女のアイラが青ざめた顔で立ち尽くしていた。
「も、申し訳ございません。今朝、お召換えをとお部屋に伺ったのですが、既にミツキ様のお姿はなく、バルコニーに続く扉は開け放たれ…。ああ、どうしましょう。わたくしがもう少し早くにお伺いしていれば…」
狼狽し、その瞳からは今にも泪がこぼれ落ちそうだ。伯爵令嬢であるアイラは1年前から侍女として城で勤めてくれている。仕事も早く、真面目で責任感が強い。だからこそ、ミツキの側付きにしたのだ。そんな彼女を責めることなどできない。苛立たしげに窓の外に目をやる。
「―――ん?何だ、あれは」
北の塔の騎士団の練習場に続く径を走っていく、ミツキらしき人影。その後ろに一定の距離を保ちながら衛兵たちが走っている。いや、追いかけているようだ。
…逃げた、のか?
まさか…
気づけば、走り出していた。後ろでレオが慌てる声が聞こえたが、構ってはいられなかった。
裏切られたという思いがふつふつと湧いてくる。
昨日会ったばかりの素性もしれない人間に、そんな感情を抱くこと事態が愚かだと、王太子としての自身が警告する。やり切れない思いを抱えつつ、練習場に向かう径にたどり着いた。
探し求めていたミツキの姿は、地面に伏せられ押さえ付けられていた。伸し掛っているのは騎士団長のオリヴァーだ。
昨日掛けた『言葉が通じる術』は切れているであろう。呪文を唱えながらミツキとオリヴァーに近づいていく。
ミツキを離すように促していたが、近づいて見ると、ミツキの足にオリヴァーが持ち歩いているボーラが巻きついていた。
なぜそこまで手荒なことをしているのかと、オリヴァーに殴りかかりたくなる気持ちを抑える。
ミツキを抱き起こし、足に絡まったボーラを外す。
なんの騒ぎだと問うと、ミツキはきょとんとしたまま俺を見つめてくる。鈍い!察しろ!皆まで言わせるのか。
搾り出すように“なぜ逃げたのか”と、問いかける。だが、ミツキの態度は俺のそれとは対照的に、悪びれる様子もなく、いやむしろ何を言っているのだと俺を問いただしてきた。そして、その言葉も仕草も、昨日感じた距離感のままのミツキだった。
逃げたのではない、のか?
なぜ部屋から出たのか問うその間にも、安堵と歓喜が綯交ぜになり抱きしめそうになり、堪えた。
ミツキの傷ついた掌を見た時には、もう無意識にその手を引き寄せ、傷に口づけていた。
レオが確認した、ミツキの部屋を出た理由に驚いたが、それよりもオリヴァーがボーラを使わざるを得ない状況に追い込まれたことに驚愕する。
ミツキは何者なんだ?
もし、間者であったら…
距離を、近づけすぎてはいけない。
先ほどの自分自身の警告が再び湧き上がる。噛み締めた奥歯と握りしめた拳にさらに力が入る。
しかし、オリヴァーを罰しようとする俺を諭すミツキは、そんな俺の中の警告をものともせず、遠慮なく、ぐいぐいと懐に入ってくる。俺を真っ直ぐに、揺るがない瞳で見つめる。あれには参った、お手上げだ。もう頷くしかないだろう。
だが、当のミツキはどうだ。
こともあろうにボーラに興味津々。さっきまでの真剣な眼差しはどこに行った!もう、俺の方など見ていない。
ボーラがそんなに大事か?
苦々しい思いが込み上げる。
気が付くと、ミツキに対し、ボーラ禁止令を出していた。
朝議を終えたあと執務室にあるソファーに腰を下ろし、深くため息をつく。
朝議でミツキの「話し相手兼教育係」の通達をした際、一部から意見が上がった。素性の判らぬ者を王太子のそばに置くのはいかがなものかと。まあ、妥当な判断だ。
判らないから情報収集と監視を兼ねているとレナードが説明する。王太子の側近であり、将来の宰相候補であるウェリントン公爵の発言力は大きい。というか、怒らせると怖い。今回はさらに騎士団長を務めるオリヴァーが援護した。朝、俺の怒りから救ってもらっているから、恩返しのつもりか。とにかく、王太子である俺と、ウェリントン公爵に騎士団長が加われば、もう誰も異を唱えようとする者はいなかった。
ソファーの背もたれに体を預けると、自然と目線は天井に向いた。
花や蔦をモチーフにした繊細な石膏装飾が施されている天井は、白一色の造りになっている。その模様に焦点を合わせるでもなく、ぼんやりと眺める。
軽く目を閉じると、手首を掴んで思わず口づけたミツキの掌の感触と、耳まで真っ赤になった顔を思い出す。刹那、自分の顔も火が付いたように熱く感じ、慌てて目を開けた。
何をやっているんだろうな、俺は…。
ルーカスは右手で顔を覆いつつ、再び深いため息をついた。
ややおいて、レナードの声がする。
「思春期ですね、まるで」
「悪かったな」
「おや、失礼いたしました。聞こえてしまいましたか」
「聞こえるように言っているだろう。そんな大きな声の独り言があるか」
「殿下、物思いにふけるのも、妄想に浸るのも構いませんが、この分だと今日中に書類を片付けられそうにありませんね。ミツキのもとに行くのは難しそうなので、断りの伝令を出しておきましょう。トマス、こちらへ」
レナードが自分の補佐官を呼び、紙に素早くペンを走らせた。
「待て。伝令はいらん、仕事はすぐに終わらせる。…それと、妄想はしていない」
思い出していただけだ。
翡翠の間に戻った美月は、アイラに盛大に怒られた。が、途中からアイラが感極まって泣き始めたために、宥める事に時間を割くこととなった。思った以上に大騒ぎになっていたようで、アイラは生きた心地がしなかったと言う。
「だーかーらー、本当ーにごめんなさい。もう勝手に走り回らないから。必ずアイラに断ってから行くようにするから。ね、お願いだから、機嫌を直して。その可愛い瞳からそんな大粒の涙を流さないで。アイラが悲しむと私の胸も苦しくなる。だからお願い」
「本当ですね?本当に黙って出て行ったりなさいませんね?もう、わたくしは…」
そこまで言うと、またアイラの目に涙が溜まっていく。さっきからこれを何回繰り返してきたことか。
「あー、アイラ?私、走ったらたらお腹がすいちゃって。何かつまむものがあると嬉しいんだけど」
「まあぁぁぁ、申し訳ございません、ミツキ様。そうでございました。すっかり遅くなってしまいましたわ。すぐに準備いたしますのでお待ちくださいませ」
いそいそと部屋を出ていくアイラの後ろ姿を眺め、真面目な侍女の涙を止めるには、仕事を与えるのが一番だと学習する美月だった。
遅くなったので簡単なものをと準備されたパンとミルク、野菜たっぷりのスープにオムレツとフルーツ、なかなか充分な量だった。
「さてと、それじゃあ行こうか、アイラ」
「どちらにですの?ミツキ様」
「どちらにって…」
美月はアイラをじっと見つめ、にっこりと微笑む。
「トレーニングに決まってるでしょう。黙って行かないと約束したし」
「えええっ!お待ちください、ミツキ様!この後、王太子殿下がお見えになられるのではありませんか?お部屋でお待ちになるようにおっしゃられていたとお伺いいたしておりますが」
驚愕のあまり、アイラは淑女らしからぬ声を上げた。
「何言ってるの。王太子殿下でしょう?朝議の後すぐ来られる?」
「いえ、それは、ご政務があられますからすぐにとは…。お忙しいお方ですし…」
「でしょ?何時になるか分からないのに、部屋でじっと待ってなんかいられないわよ。遠くにもいかないし、城の中だし。そんなに時間も取らせないわ。だから一緒に来て、協力して?アイラの力が必要なのよ」
「そうおっしゃられても…」
王太子が部屋で待てと言っているのだ。“待てない”という選択肢をアイラは持ち合わせていない。
「ほら、悩んでる間に時間が過ぎちゃう。急ごう!」
アイラの手を取り廊下を進んでいく。部屋の前の騎士にすぐ近くにいるから殿下がきたら教えてねとお願いをしておく。騎士も困っていた。ごめんねー。
二人ひと組で警備と監視をしてくれているのに、この時は相方が不在だったので、私を追う事も出来なかったみたい。慌てて誰かを呼んでたけど。
さっき外から帰ってくるときに見つけていた場所へ、アイラの手を引き急いだ。
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