第9話 翡翠の間の客人
開いた窓から、中庭に咲いた金木犀の香りが、ふわりと入ってくる。
ハーヴェロード王国は、今、秋を迎えていた。
北にある緑豊かな山や森は、国民に自然の恵みを与える。紅葉やプラタナスの赤や黄色の彩は、山の中腹まで降りてきていた。
南は海に面して港が開けている。他国との交易も盛んに行われ、様々な国の人が行き交う。港街は、異国の言葉や文化が溢れ、一年を通して賑わっていた。
そんな王国の北西に王都は位置している。城下は港街とはまた違った賑わいを見せていた。
貴族のタウンハウスを中心とした一の通り。その周囲へ広がって行くように、王室御用達の店や、貴族専門の店が多く立ち並ぶ二の通りがあり、三の通りから六まで通りがある。大通りには休日ともなると大きな市が立ち並び、更に賑わいを見せていた。
4年前に隣国のエアージョン帝国と戦があったが、指揮を執った第一王子のルーカスが和平交渉に持込み、現在は同盟国として友好的な関係が維持されている。その他では戦らしい戦はなく、平穏な時代が続いていた。
そのエアージョン帝国に、1年間の期間限定で第二王子を留学させる話が出ている。事件は、その話し合いを行っている最中に起こった。
「なんだ、今の反応は?」
ハーヴェロード王国第一王子のルーカスは、類希な魔力の持ち主である。城に張り巡らせている結界を、すり抜ける存在があったことに気づき、一旦会議を中断し、自身の側近であるレナードと共に、反応のあった場所へ向かう。
正面の玄関ホールを抜け、外に出ると、ちょうど立哨の衛兵の一人が報告に上がろうとしているところだった。現場に移動しながら報告を受ける。場所は東の正門前、突如として現れた存在に、衛兵たちも混乱しているようだ。だが、結界を破る程の強い魔力も感じられず、なにか道具を使ったのではと警戒しているということだった。
東の正門前まで行くと、言葉が通じないようだとの報告を受ける。だが、その異様な光景に愕然とした。
「なんだ、この状況は」
変わった衣装を身につけてはいるが、衛兵に囲まれているのは、女だ。まだ10代半ばといったところか。しかも本当に、碌に魔力も持っていないようだ。その娘を衛兵たちが取り囲み、刃を向けている。娘は明らかに怯え、青い顔をしている。
何を考えているんだ、こいつらは!
どう見ても、擁護すべき存在だろう!
ルーカスは、苛立ちを隠そうともせず、衛兵たちを引かせた。しかしその後は、娘を怯えさせないように、ゆっくりと近づいた。言葉が通じるように術を施すと、その娘は嬉しそうに笑い、…気を失った。
慌てて娘を抱きあげ、レナードに、娘の物らしい荷物を運ぶよう伝える。衛兵にはそれぞれ持ち場に戻るように指示をすると、ルーカスは娘を抱え城の中へと戻っていった。
城の正面玄関は、当然のことではあるが広々としたホールになっている。正面には真紅の絨毯が敷き詰められた広い階段があり、途中から左右に分かれるものと、そのまま正面にぬける階段とに分かれていた。ここを中心に建物は左右に伸びている。
控えていた黒いお仕着せを着た女官長に客室を1室開けるよう指示を出す。
女官長は黒いお仕着せのスカート部分を少しつまみ膝を折り、すぐさま対応する旨伝え、傍にいた紺色のお仕着せに白いサロンエプロンを着けた数人の女官に指示を出す。ルーカスに辞する挨拶をし、自らもその準備に取り掛かろうと客室に向かう。
ホールから見て左側の南宮に消えていく女官長の姿を確認し、ルーカスも娘を抱えたままゆっくりと歩みを進めた。
彼女たちは優秀だ。ゆっくり歩けば準備も整うだろう。
ルーカスは腕の中の娘に目を向けた。
どこから来たのか…。とりあえず保護の対象だろう。
用意させた「翡翠の間」に着くと、やはりすっかり準備は整っていた。娘をソファーの上か、ベッドの方かどちらに下ろそうかと僅かに逡巡したその時だった。
「ゴキッ!」
突然伸びてきた娘の拳で、顎を突き上げられた。
何だ、この仕打ちは。
しかも、いつまでたっても手を引こうとしない。
強引に押し返すと、やっと気づいたかのように謝ってきた。遅いだろう!
更に、抱き上げられていることに気づくと暴れる。
何という落ち着きのなさだ。
しかも殴ったことについて問いただそうとすると、癖になりそうかだと?
はにかみながら何ということを言うのだ!
俺にはそんな趣味はない!
そう思っている間にも、何やら部屋の様子に気付いて落ち着かなくなる。なんと、コロコロと表情の変わるやつだ。そんなことではあっという間にカモにされるぞ。
保護だけでは駄目だ。
どうやら指導も必要だな。
などと考えていると、俺も相当に百面相をしていたらしい。レオに盛大に笑われた。
―――面白くない。
しかも、突然人前で腰を揉むか?恥じらいはないのか!というか、…自分で揉むのか?
…ああ、いや、怪我をしていないか確かめたという事だったな、いや、しかし、それにしてもだなぁ…。大体、スカートも短すぎるだろう。黒いタイツを履いているとは言え、足が半分出ているではないか。しかもタイツは男の履くものだろう。この異国の娘は一体どこの出身なんだ?
この不可思議な行動をする娘に、俺の心はざわついた。
悶々とする俺をよそに、ミツキと名乗った娘は、どうやら女官のハートを鷲掴みにしたらしい。レオがそれを餌に、俺をつついてくる。なんだか、今日はやけに絡んでくる。何が気に入らないんだか。
しかも俺に隙があるなどと戯けた事を…。茶をミツキに吹きかけるところだったぞ。噴出さなかった俺を褒めてやりたいわ!
挙句、妃の話まで持ち出してくる。レオこそ一体どうしたというのだ。ミツキの前でする話ではないだろう!
不機嫌な俺と、俺の態度に眉根を寄せるレオに構わず、ミツキはここがどこかと聞いてくる。
――また顔色が悪くなっている?
なんだ?本当に分からないのか?
ハーヴェロード王国の王城だと伝えると、さらにミツキの顔が青ざめていく。
おい、大丈夫かと声を掛けようとしたら、レオ…、ウェリントン公爵に付けている補佐官のトマスがミツキ荷物を持ってきた。怪しいものはないという。
だろうな。ミツキの荷物からは魔力のかけらも感じなかった。
だが、見慣れた荷物を見て安心したんだろう。ミツキの顔色が幾分良くなってきた。
しかし、ミツキの話は聞き捨てならなかった。
学校の帰りに道がなくなり落ちた、だと?
誰かが術を使ったのか?何のために?
城内でそんな術を使えば、俺が気づかない筈がない。
では、外部からわざわざ城内に落としたのか?
なんだ?何が起こっているんだ?
早急に調査をしなければと考えていると、ミツキが急に態度を改めてきた。つらつらと慇懃に謝罪の言葉を述べていく。
おい、今更だろう。突っ込みたくなる気持ちを自制し、怒っていないことを伝えると、本当かと身を乗り出し、さらに言質を取りに来る。
なんだ、さっきまでの慇懃な態度はどこへ行った?
王太子の俺に怯む事もない。おかしな奴だ。
面倒見てやると伝えると、少年のように瞳をキラキラと…、いや、犬、だな。これは。ミツキに尻尾があれば、今頃ちぎれんばかりに振っているだろう。思わず想像してしまう。
だが、働くといったミツキの言葉に、一気に現実に引き戻された。客人として迎えようというのに嫌だという。
王太子の客人だぞ?何が不満だ?懐いたと思えば去ろうとする、何なんだ、コイツは!しかも俺が対価を求めるかのように思っているらしい。俺の善意を疑うのか!
あー、いや、使われた術と、その背景の調査、素性のはっきりしないものを泳がすわけにいかないので、100%善意ではないが、それにしてもだ!
憤る俺を尻目に、レオが上手く纏めた。
話し相手兼教育係、何かをしたいというならそれくらいが妥当だろう。ミツキもあっさり了解した。それもなんだか面白くない。
そして、何を思ったのか、また急に態度を改めてくる。何だ、また距離を置こうというのか?それならばとこちらも態度を改めると、とたんに恐縮する。畏まらなくていいことを伝えると、すぐに距離を縮めてきた。なんと切り返しの早い奴だ。まあ、ミツキに“ルーク”と呼ばれるのは悪くない。今日のところはこれで良しとしよう。
レオとともに翡翠の間を出ると、自分の執務室へ向かう。ミツキに使われた術や、使った相手と目的、これらを早急に調べなければならない。
「寄りにもよって王城内に落とすとは…、何が目的だ?」
ハーヴェロード王国はここ数年、安寧の時が流れている。しかし、不穏な空気や動きが全く無いわけではない。王政に反する動きや謀反の芽があるなら、早めに摘み取っておきたい。
ルーカスの指示でレナードが各方面に指示を出す。
第二王子の留学検討の会議は日を改めることにした。ミツキの件に隣国が関わっているとも思えないが、国内の情勢も含め、第二王子の安全のためにも、もう少し状況が解ってからにしたい。
今日中に片付けておかないといけない書類のみ精査し処理をして自室に戻る。
侍従の入れたお茶を口に含むと、その香りとともに昼間の出来事を思い出す。
「おかしなやつだ」
ルーカスはふっと笑い、残りのお茶を飲み干した。
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