第7話 ランニングしていたら、捕まりました。
ルーカスとレナードが去った部屋に、灰白色のお仕着せを着た女性が挨拶に来た。
歳は美月と同じくらいだろうか。亜麻色の髪を高い位置でしっかりと結い纏めている。髪と同じく明るい色をした瞳も薔薇色の口許も、少し紅潮した頬も喜悦に満ちていて、愛らしい容姿がひときわ輝いていた。
「ミツキ様。わたくしは本日より、ミツキ様のお世話係を拝命いたしました、侍女のアイラと申します。ルーカス王太子殿下のお客様であらせますミツキ様のお世話をさせていただけるのは、私にとって身に余る光栄、恐悦至極にございます。精一杯お勤めさせていただきますので、どうぞなんなりとお申し付けくださいませ」
恭しくスカートを摘み、淑女の礼をするアイラに感心しつつ、美月もにっこりと微笑み、挨拶を返す。
可愛い――。侍女というよりお姫様なんじゃない?
「こちらこそよろしくお願いします、アイラ。私の方こそアイラに会えて、とても嬉しい。この国のことも作法も全く分からないので、ご指導よろしくお願いします」
淑女の礼はやったことがないので、とりあえずお辞儀した。
「まあっ、いけません、ミツキ様。わたくしに分かることならいくらでもお話させていただきますわ。ですがご指導いただくのはわたくしの方です。そのようなお言葉をかけ頭を下げられるのは、どうかお控えなさってください」
いやいや、どう考えてもご指導いただくのは私でしょう!突っ込みたいところをぐっと我慢する。
それでもあまり畏まられても私が困る…。
「えーっ、色々と面倒だね。誰も聞いてなければいいんじゃない?」
「いいえ、どこで誰が聴いているやもしれませんもの。さあ、ミツキ様。今日はお疲れでしょう。もう休まれますか?湯浴みをされるようでしたら湯殿へご案内いたします。食事をされるようでしたら、お部屋で取れるよう手配済みです。いかがいたしましょう」
この人、アイラは出来る人だ。
「じゃあ」と、安心した私は、食事を摂ってからお風呂に入ることにした。
食事は――、ちょっと心配だったけど、割と元の世界に近くて味付けも美味しかった。私の男性並みに食べる量の多さに、アイラが目を丸くしていたけど、部活もしていたし、安心したら急にお腹がすいてきたから、仕方がない。とどまることを知らない私の食欲は標準装備だ。早く慣れて欲しい。
私が驚いたのはこの部屋が続き部屋で、寝室と湯殿がそれぞれあること。お城の客室ってすごいね。ホテルのスウィートルームみたいだ。まあ、入ったことないんだけどさ。
だから、“大丈夫かなあ、こんな豪華なベッドで寝たら身体が腫れちゃうんじゃない?”って、なんだか、おばちゃんみたいなセリフだけど、本当にそう思った。天蓋付きの寝台に恐る恐る足を踏み入れる。でも、入ってしまえば瞬殺。着馴れないネグリジェのような寝衣の足元が、とってもスースーして覚束無いのも忘れ、私は深い眠りに落ちていった。
何か忘れている、…ような、気がする。
何だっけ。
ええっと、昨日からチームに合流したから、今日のトレーニングは何するんだっけ。ああ、そうだ。理央と玲那がセットプレー合わせたいって言ってたなあ。
秋の選手権で中足骨骨折してから、ひと月半チームから離れてたもんね。迷惑かけたぶん気合い入れないとね。
ん?
あれ、今日の朝練あったっけ?
―――!
「そうだっ!朝練!!」
勢いよく起き上がった美月は、視界に入った部屋の様子を見て愕然とした。
天蓋付きの広い寝台。まだ薄暗い部屋の中には本棚とライティングビューローがセットになったサイドバイサイドが置かれているのが見える。
自分の着ている寝衣に目をやり、しばし呆ける。
…ああ、そうだった。私は異世界に落ちてきたんだった。
昨日はどこかで考えないようにしていたけど、一番の問題は帰れるか否かよね。あの時急に落ちたから、死んでからの転生じゃないはず、だよね?
一度考えてしまうと、忘れようとしていた不安が一気に押し寄せてくる。背筋がゾクッとした。
―――恐い。
大丈夫、大丈夫だよ、きっと。帰れるはず。帰りたい。うん、帰ろう、絶対に。自分に言い聞かせるように繰り返す。
「んんん――――っ」
両手の拳を上にあげ、力いっぱい伸びをした。
いま考えても仕方がない。ルークも調べてくれるって言ってたし。今出来る事をやろう。
美月はさっと顔を洗い、髪を梳く。昨日御丁寧に洗濯して乾かしてくれたプラクティスシャツとパンツを身に付け、私たちの間ではシャカシャカと呼んでいるピステの上下セットを着て、ネックウォーマーをすっぽりと被る。
来月から新人戦が始まるし。骨折の為、別メニューでトレーニングしていた分、基礎体力はグッと上がった。体幹もばっちりだ。
「よっし、行こう!」
部屋を出ようとした時、廊下の話し声が耳に入る。
「…あれ?何?何言ってるか全然解らないんだけど…」
…多分、話し声だよね?
本当に一言も、自分の知っている単語すら出てこない会話に、ドアを開けようとした手が止まる。
昨日も解らなかったけど、ルークが来てから通じた。あれはきっと、ルークが魔法をかけてくれていたんだろうと思う。
「効力が切れたのかなぁ…。どうしよう、もう走る気満々なんだけど」
言葉が通じない状況で、廊下で会う人にランニングに行くことを伝える自信はない。困り果て、部屋を眺める。
ふと窓辺に目をやると、外はバルコニーになっている。
「おおっ、ここから外にいけるじゃん!やった!」
アップシューズの紐をしっかり結び直し、いそいそと鼻歌交じりにバルコニーへ続く窓を押しやった。バルコニーから庭へと続く階段を降りる。軽くストレッチをして地を蹴る。
冷たく冴えた朝の空気が、肺に入ってくる。うっすらとガスがかかり霞んだ王城は、広く大きく、まさに聳えていた。その全容が見えない分、雄大さに威圧感が加わり圧倒される。しかし、庭の木々や花々の美しさが加わり、何とも幻想的な雰囲気を醸し出していた。
美月は徐々にピッチを上げながら、城壁に沿って内周を走っていく。
昨日は、周囲の景色もなにも見る余裕がなかったが、流石に王城ともなると、その敷地は圧倒的な広さだ。
「すごい。サッカー場がいくつも出来るわ」
この頃は特に走り込んでいたからか、すぐに身体が温まってくる。更にピッチを上げた。上気した頬を掠めていく風が心地よい。規則的な息継ぎの、馴染んだリズムに安堵する。
「?」
何か聞こえたような気がした。耳を澄ませてみる。
やっぱり、何か聞こえる。人の声。
声のする方向、後ろを振り返り、ギョッとした。
「!」
「ちょっ、ちょっと待って!えっ、えぇぇっ」
振り向いた美月の目に映ったのは、昨日槍やら剣を突きつけてきた衛兵たちが、集団で追いかけてくる姿だった。顔は覚えていないから同一人物かどうかは判らない。判っていることは、怒声を上げながら集団で追いかけてくること、そのことだけだ。
「うそっ、なんで追いかけてくるわけ?えっ?私ルークの教育係って言ったよねー。堂々と過ごせるって言ったじゃない!っレオの大嘘つき――!」
昨日の恐怖を思い出し、半泣き状態になりながら必死に走る、走る、とにかく走る。
リハビリ中、みっちり走り込んだ私の脚は、なかなかに頼りになった。
でも、いつまでも走り続けるわけには行かない。後ろの衛兵もしつこく追いかけてくる。でも流石に疲れたのか、声は出なくなっているようだ。
根性あるのは認めるから、そろそろ諦めて欲しい。
その時、進行方向から大きな声が響く。
しまった。後ろに気を取られていた!
慌てて顔を向けると、シャツにズボンという軽装姿の男性がこっちを向いて叫んでいる。
まだ60メートルぐらいは距離があるが、その屈強な肉体は遠目からでもはっきりと確認出来た。それに、追いかけてくる衛兵たちとは、明らかに違うオーラを放っている。
ズザザザザァ――。
靴底を滑らせながらも踏みとどまる。全力で走っていた為、私の靴のブレーキ痕は長く尾を引いている。と、
ぎゃあぁぁぁっ!こっちに来るっ!
落ち着け、私。相手をよく見て!左に帯剣している、右利き。軸足は左だ。
美月もその男性めがけて走り出す。
正面に向かってくる美月に、一瞬ひるんだ男性との距離2メートル、その右へ行くと見せかけ左の脇を抜ける。
抜いた!
そう思って10メートルも走らないうちに、体を前に投げ出された。
足に何かが絡まっている。咄嗟に受け身を取るが、派手に転んだ。背中に伸し掛られ腕を逆手に取られる。
その時、やっと私に分かる言葉が飛び込んできた。
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