透明の月
阿瀬みち
第1話
うんと小さなころ、わたしの意識はうすぼんやりとしたあたたかな幸福のなかにあった。けれども八つのときに父が事業に失敗して、そこからすべては壊れてしまった。母は私を連れて家を出た。財産を守るために離婚をするのだ。母はそう言っていた。形の上だけ、書類の上だけだ、と。
現実には違ったみたいだった。わたしはそれ以来父と顔を合わせていない。
母は綺麗な人だった。男の人の理想みたいな体型、肉付きの良い、ハリのある体。母が勤めるお店に、小学生の頃一度だけ顔を出したことがある。綺麗に盛装した母の姿は、テレビで見る芸能人の誰よりも美しかった。他の若い女の人より、誰より。母が一番きれいだと思った。
母はどんなに忙しくても、私の髪を整え、セットし、服装のチェックをすることを欠かさなかった。
「乃愛ちゃんは綺麗だからね。他のどこの子より、うんと綺麗」
「ママより?」
「それはどうかな、まだまだ」
ママはにこりと笑う。
「大人になったとき、もう一度同じことを聞いてごらん。そのとき教えてあげる」
そう言ってママがくちびるに乗せてくれたディオールのリップ。くちびるを軽く噛んで合わせる。よくママがしてるみたいに。ママの香りを感じながら、真似る。
十歳の時にママが再婚した。相手は若い男の人だった。ママよりも年下の、飲食店を経営している人。つまりママのお客さんだ。ママと新しいパパは一緒にお店を始めた。ママは忙しくて、私にかまう時間が無くなってしまった。
クラスの男の子と話しているときに、ふと、この子は私が好きなのだな、と思った。新しいパパがママを好きになったように。
「キスしたい?」
私はママに塗ってもらわなくても、自分でリップを塗るようになっていた。コンビニで買った、コーラルピンクのリップ。
「え」
男の子は黙ってうつむいた。
その時何を言ったか覚えていない。男の子に耳にそっとなにか囁いた。男の子が目を見開いて、悲壮そうな顔をする。私は気がつかないふりをして、こっそり舐めていた飴を奥歯でがりりとかみ砕いた。
そのことは結局担任にバレてひどいトラブルになった。私は男の子に、気に入らない女の子を懲らしめるように言った。男の子は、クラスでいじめられていた、可哀そうな片親の女の子を、みんなで囲んでぼこぼこにしてしまったらしい。
ママが学校に呼ばれた。先生たちと話をした。
「そもそもその派手な格好」
学年主任の先生が苦々しげに言った。もとから私のことが気に入らなかったらしい。
「娘さんにそんな派手な格好をさせて、犯罪にでも巻き込まれたらどうされるおつもりですか?」
私はいつも有名子供服ブランドを身に着けていて、どうもこの先生はそれが気に入らないらしかった。ねちねちママを責めるので、イライラして、
「うるせーな、ひがんでんじゃねーよブス」
とつい呟いてしまった。先生は一瞬はっと息を呑んで、それからママの顔をキッと睨む。長いお説教が始まった。ママがこっそりとため息を吐いた。そのことすら先生の逆鱗に触れた。
帰り道、ママはわたしを叱らなかった。
「ママをかばおうとしてくれたんだよね、乃愛ちゃん」
気持ちはありがたいけど、言い方がちょっと悪かったかな、と言ってママは笑った。
「寂しい思いさせて、ごめん」
そう言ってママは、ぎゅっとわたしを抱きしめる。ああ、ママが好きだな。
わたしはママが好きだな。私はママを抱きしめ返す。つよく、とても強く。
家に帰ると、いつもパパがいるようになった。ママがお仕事を頑張っている分、パパが家のことをしてくれる。してくれる? パパはなにもしてくれなかった。パパはよく私に命令した。手伝いなさい。宿題しなさい、これをしなさい。私はふてくされて何もしない。パパが怒る。
あんまりパパがしつこいので、喧嘩になった。パパが私に手を挙げる。私はパパの手に噛みつく。私の犬歯は尖っていてぎざぎざしている。パパは痛がっていた。
ママが帰ってくるころには、私たちは何事もなかったかのようにしている。私はママに抱き着く。ママが好きな男の人のことは、わたしは嫌い。わたしからママをとらないでほしい。
五年に上がったころだった。ソファでテレビを見ているとパパが横に座ってきた。私はパパのお腹を殴る。腹筋がガチガチに硬くて全然パパは痛そうじゃない。パパはわたしを捕まえて、シャツの裾からおなかに手を差し込んできた。パパの手が胸の辺りに伸びてくる。私はパパの腕を噛んで逃れようとした。でも羽交い絞めにされていて、できない。
パパの手がショーツの中に差し込まれたとき、おなかの底にふ、と怒りが沸いてきて、それはなんだか熱く、背中の方に燃え広がっていくようだった。「ぶち殺す」私は呟いた。「やってみろよ」パパは嗤った。結局私はされるがままだった。でも私はいつかこの男を殺すと思う。男が忘れた頃に、思い出させてやる。最悪の気分がどんなものかって、絶対に、味合わせる。この痛みは倍にして返す。
私はクラスの男の子たちに万引きを命じて、盗ってきた品物を同級生に売るようになった。別にお金がほしかったわけじゃなくて、他人が思い通りに動くことが面白かったのだ。なにもはっきり「盗って」って言ったわけじゃない。でも他の出口を一つずつ潰していくと、気がつくとその子には「盗る」ことしか残らなくなる。鳥の目を覆うと静かになるみたいに。
でもそれも先生にバレて、またママが怒られることになった。クラスの中で物品を売買したのが悪かった。証拠が残ったし、足もつく。次はもっと別のルートを探そうと思う。
帰り道ママは、私の手をぎゅっと握って、ごめんね。と言った。先生とママの話し合いの結果、私は一週間学校を休むことになった。
家に帰るとパパが私を殴った。ためらいなく顔を殴った。ママが呆然としている。
「言ってわからないんだったら体で覚えるしかないな」
二発目が飛んでこようとしたとき、私の目の前に、ママの体が飛び込んできた。ママはドラマの主役みたいに、ちゃんと私をかばってくれる。パパより私の方が大事なのかな、と思って、少しだけ安心した。
「お前才能あるよ」
ママが仕事に行って、ふたりきりのときに、パパが言った。私は聞こえないふりをしてゲームをしていた。さっきはいきなり殴りつけてきたくせに、すぐに態度を変える。
「子供のわりに、知恵があるじゃん」
次はもっとうまくやれな。とパパはわたしの頭を撫でた。
「お前見てると他人事と思えないな。自分の子供時代思い出す。ほんとはお前、俺の子じゃないか」
パパは言った。とても不愉快で不名誉だ、前言撤回してほしい。とわたしは思った。
忙しいなかでも、ママはできるだけ私に寄り添おうとしてくれた。私の寂しさを埋め合わそうとしてくれた。ママは優しい。それなのに、いろんな人から責められて可哀相だ。夜、家を空けることが、まるで犯罪みたいに責められる。派手な風貌や、母親っぽくない服装。私のしたことのすべてが、まるでママのせいみたいに、言われる。
つまり他の人たちからすると、私はママにあてつけるために、つまらない悪事を繰り返すのだそうだ。なにそれ、そんなことは全然なくて、私はすべての男の子を憎んでいるのだった。私からママを奪う人たち。私からなにかを掠め取っていく人たち。若さとか、美しさとか、なにか価値あるものを剥奪しようとしてくる。血のつながりがあるほうのパパのことも、ないほうのパパのことも、大嫌いだった。
だいたい人に軽く言われた程度で犯してしまう罪なんか、はじめから背負っているのと同じだ。みんななぜ自分の判断力をそこまで軽んじるのだろう? どうやら私は全然反省していないらしく、それをママに察知されない必要があった。私だってできればママを悲しませたくない。
学校を休んでいる一週間、私は好きなだけ朝寝坊して、ママと過ごした。ママは特別、と言って私がママのベッドで寝ることを許してくれた。ふたりで朝ご飯を作って食べた。こんな幸せなことってあるだろうか。
私が学校に行かなければ、もっとママと過ごせる。そしたらママにはパパなんか必要ないかもしれない。ということに気がついてしまい、私は学校のことも深く憎むようになった。
でもパパの策略のせいで、私は中高一貫の私立の中学校を受験することになってしまった。そのころ私はパパに復讐する計画を頭の中で練り続けていた。勉強の合間にパパをどうやって殺すか考え続ける。
だけどパパには誤算があって、私はどうやらあんまり頭がよくないみたいだった。このままだとパパの言う通りの学校には行けそうもない。かといって勉強しないと殴られるので、本番だけ試験に失敗すればいいか、と思った。
どこの模試を受けても暗澹たる結果で、わざと手を抜くこともなかった、と安心していたのもつかの間、わたしはなんと合格、受かってしまったのだ。一体何があったのか全然わからない。あんなにテストができなかったのに。なのに、結局、女の子ばかりの通う、なんだかわけのわからないところに入れられてしまった。ママは男の子との関係でトラブルばかり起こしていた私を、カトリック系のお嬢様学校に入れたことですっかり安心しきっていた。
最終的に私は、パパも一枚噛んだ美人局に違いことをやることになるんだけど、それもなんか運命のいたずらという感じ。共学だったらこんなことにはならなかっただろうか? それとも私は、クラスメイト相手に同じことをしただろうか。
でもパパにもひとつだけいいところがあって、通学中痴漢に遭って困っている、と言うと、じゃあ俺がついて行ってそいつをぶちのめしてやる、というので、はいはい。と聞き流していたら、ほんとうに朝ついてきて私の後ろにずっとついていてくれた。きもい。でもその日は誰にも触られなかった。パパはその制服目立つからな。嫌ならジャージで登校してトイレで着替えろ。って言ってたけどめんどくさいからやってない。
ママも私も、パパにとっては所有物のひとつだった。自分の持ち物が勝手に他人に触られていると気分が悪いのだろう。
美人局と言うか売春のほうは、ママにはバレなかった。私は上手くやりとおしたのだと思う。でも明らかに犯罪のラインを超えていて、人としてはダメだった。パパに利益の上澄みを吸われているというのも、全然ダメだった。私は自分の身の安全を守るために、他の女の子を犠牲にした。もしかしてパパは、はじめからこのつもりで私に受験を勧めたのだろうか。なるほどなぁと思った。ロリコンと言うわけでもなさそうだし、私に暴力を振るったのも、恐怖心を植え付けるため。痛みを理解していれば、自分を守るために同級生を差し出すくらい、簡単にするだろう。そういう組み立てがあったみたいだった。
ママに隠し事をしている罪悪感からだろうか。それとも単純に、思春期だったからだろうか。私は前ほどママに甘えられなくなった。パパは私に入れ知恵するのに必死だったから、ママに私たちがどういう風に映っていたか想像すると、胸が苦しくなる。私はママを裏切った。少なくともママにはそう見えたと思う。
そのころから、どうやって家を出るかを考えるようになった。小学生の頃の私はパパへの憎しみだけで生きていたけど、それなりに知恵がついた私は、それじゃいけないことを知った。自分の人生を犠牲にしてまで遂げるべき復讐なんか存在しない。
私は自宅から通えないような、離れたところにある大学を探し始めた。学部や偏差値は二の次で、安い学生寮があったり、通学圏の家賃の低さが重要だった。細かいところは家を出てから考える。今はとにかく、この家から、あの男から、離れたい。
犯罪や金銭トラブルは人間関係の根本を破壊する。そのころの私には、共犯者はいても、相談し合えるような友達はもういなかった。
高等部二年の進路相談のときに、久々にママと話した。
「行きたいところはもう決めてる」
以前から取り寄せていた資料をママに見せた。
「成績とお金が許せば。ここに行きたい」
「すこし、遠いね」
ママが言った。どきりとした。
私はいかに自分がその大学に行きたいか、ママに熱弁した。八割は嘘だった。
「いいよ」
あなたの好きなようにして。説明を全部終えた後で、ママは言った。私は心の中で、ママに何度も謝った。お金のかかる学校でごめんね。ママの顔が、綺麗な顔が、疲れで翳っている。
ここを出たら。この場所を離れたら、私は一から人間関係を築き直して、普通に生きる。できるんだろうか? そんなこと今までできたためしがないのに。もう誰からも奪わないし、誰にも奪わせない。できるんだろうか、私に。
大学には無事合格したし、入学金も振り込んだ。住む場所も決まって、ママから仕送りしてもらう金額も決まった。足りない分はバイトを探すつもりだった。昼間のバイトにしてね。とママは言った。
でも入学早々、パパがママのお店のお金を使い込んでいたことが分かって、ママは唐突に借金を負うことになった。「もう別れる」電話越しに聞いたママの声は疲れていた。「ごめんね、乃愛ちゃん。また、パパいなくなっちゃうね」私いつもこうだから。ママは涙声で言った。最後まで男の人の面倒みられないの。ママが泣いている。私はぎゅっと拳を握りしめながら、小学五年生の、あのとき。あの瞬間に、確かにあの男を殺していればよかったのに、と思った。
私が幼かったから。バカだったから。自分が我慢すればママは安全だと思っていた。そんなわけなかった。なかったのだ。あの男に限って。それだけで足りるはずない。
もう大学を辞めてママのところに帰ろう。お店を手伝おう。そう思っていた矢先、ママの古いお客さんが、私の生活費や学費を工面してくれる、という話が出た。これが俗にいう愛人契約と言うものだろうか。
愛人と言ってもまるで父と娘ごっこだった。母が紹介してくれたお客さんは、年齢が七十を超えている。現在は不動産を運用するなどの固定資産で食べているらしい。お客さんは“藤堂さん”といった。立派な体つきをしていて、若いころはきっと体を鍛えていたんだと思う。私は借りていた物件を引き払い、藤堂さんが管理しているマンションの一室を借りた。藤堂さんはあちこちに物件を持っていて、これもそのひとつなのだという。藤堂さんはその隣の部屋を使って、ときどき私の部屋にやってくる。ただで部屋を使わせてもらっては申し訳がないから、私はときどき藤堂さんの部屋を掃除しにお邪魔した。だけどそんな必要はなく、いつも家政婦さんがきれいに部屋を整えてくれているのだった。
休みの日、私たちはよく旅行に行った。あちこちに藤堂さんの持つ家や、貸し別荘があって、そこを拠点に観光したり食事に行ったりした。
「藤堂さんはあちこちにおうちがあるんですね」
私が呟くと。藤堂さんはにこりと笑って、
「君、お母さんによく似ているね」
と言った。私はママに似ていると褒められるのが一番うれしい。藤堂さんは良い人だ、と思った。実際藤堂さんは優しくて、今まで出会った男のひとたちのなかで、一番父親らしかった。
私たちは親子ごっこをする。とても仲のいい親子ごっこ。私は藤堂さんのお皿のエビの殻をむいてあげたり、藤堂さんは私にサラダを取り分けてくれたり、苦手なトマトを私に押し付けたりする。なんだかママが離婚する前の時代のことを思い出す気がした。あんまり楽しいので、私はときどき、藤堂さんの本物の家族に対して後ろめたさを覚えることがある。
本当の家族のことを、藤堂さんはあまり話したがらない。私の話ばかり聞きたがった。私は大学のこと。女友達ができても関係が続かないこと。父になった人たちとの思い出、なんかを喋った。
「つらくなかった?」
ふたりめのパパの話を聞いていた藤堂さんが、呟いた。
「辛い?」
私は呟いた。
パパはそういう人で、そしてママが選んだ人だから。辛いなんて。
「つらいなんて、思ったこともなかった」
殺したい、とは思ったけど。とは言わずに、私は足をパタパタさせた。足先からスリッパが滑り落ちた。
実のところ私には友達がいない。藤堂さんがはじめてできた友達らしい人かもしれなかった。女の子には嫌われるし、男の子とは続かない。支配と服従とか、そういう関係になってしまう。ろくなものでない。だけど私と藤堂さんは対等だった。お金をもらって生活しているのに、対等なんて不思議だ。
藤堂さんが食べるなら。私は自分からすすんで料理をしだした。消化に優しいような、小鍋で作ったおかゆ。湯鶏スープ。家政婦さんの作ってくれた料理には勝てないけど、藤堂さんは嬉しそうに食べた。
ある日、藤堂さんはわたしは老舗の中華料理店に連れて行ってくれた。飴色の木の椅子、回らないテーブル。
「ここの粥が絶品でね」
おかゆはどこをどうすればこんなにおいしくなるのか、わからないくらいおいしかった。甘くて、とろとろしていて、やさしい。赤いクコの実をかみしめながら、私のおかゆよりも、もっと美味しいものを食べたいだろうな。藤堂さんは人生を折り返して、総括する時期だから。中途半端な若い女の手料理よりも、完成された一品のほうがずっといいに決まっている。という思いを噛み締めた。
「私のおかゆまずかった?」
「いや、おいしかったよ。乃愛ちゃんにはもっと美味しいものを食べて勉強してもらわないと」
藤堂さんは笑った。そういうことなら、とわたしは安心しておかゆをむさぼる。言葉を失くすほどおいしかったのだ。付け合わせのピータンなんて、家でも、家政婦の雅代さんにだって用意できないだろう。
しばらくすると奥から人が出てきた。料理長だそうだ。藤堂さんと料理長はしばらく親しげに談笑していて、私はそれを黙って眺めていた。料理長がふと私に微笑みかける。私も会釈を返した。
「この子はぼくの娘みたいなものでね。理央ちゃんの娘さん」
「ああ、あなたが」
料理長は私に手を差し出した。握手を求められているのだと思った。
分厚く、固い手の皮。働いている人の手だ、
「藤堂さんからよく聞いてますよ。良い子なんだって」
「いい子って、まるで、小さな子供みたい。恥ずかしいです」
「わたしみたいな老人からすればね、あなたみたいな女の子なんて、みんな小さな子供ですよ」
藤堂さんはとてもやさしいと思った。なのに家族と疎遠だなんて。世の中うまくまわらないものだ、と思う。優しい人ほどひとりぼっちだ。
あるとき藤堂さんが言った。
「私はあなたのお母さんのことが好きで、好きでね。彼女の娘のあなたのことを、実の娘みたいに可愛がれて、本当に幸せです」
私はうなずいた。
「ママは綺麗。私も大好きです。藤堂さんの気持ち、わかる」
「彼女はね。見た目はもちろん綺麗だが、中身がほんとうに美しい。騙されやすいのが玉に瑕だが、そのぶん情が深いのでしょう。あんな素直できれいな人、他に知りません」
同感だった。ママだけは、年を重ねても、心も見た目も美しいままだ。
「内面のかわいらしさが外見に漏れ出てますよね」
言ってる側から自分の言葉に納得してしまう。
「それに肝が据わってる。わたしは強い女性が好きでね」
藤堂さんの表情から、心からママを大事に思ってくれていることが伝わってきた。本当にありがたい。藤堂さんがパパだったら、私もママももっと幸せだっただろうか。でも、それはまた違う話なのだろう。
私が二十歳になる日、藤堂さんとママの三人でお祝いした。ものすごく高そうなフレンチのお店。藤堂さんがふと指輪のケースを取り出す。これはもしかして? 結婚指輪だ。
「私ももう先が長くないだろう。遺産を子どもに渡すくらいなら、あなたたち親子にもらってほしい」
ママが、とても受け取れない、と言う。
「理央さん、私はあなたを愛しています。ずっと。苦労しているあなたを見てきた。私にできることなら、なんでもします。あなたを楽にしてやりたい」
なんでだろう、見ている私の方がうるっときた。鼻がツンとくる。藤堂さんは本当にママのことが好きなのだ。私がパパと呼ぶべきはきっと、この男性だったのだろう。
「お金なんて、私」
ママが困った顔をしている。そんな顔しないで、ママ。
「ごめんなさい。結婚はもう……」
お金はすべて藤堂さんが使うべきです。とママは藤堂さんの手を取って、その中に蓋をした指輪ケースを握らせた。ウエイターの人がさっきからデザートを運んでくるタイミングを見失って困っている。私は彼と目を合わせて、今、と合図をした。
細かな飴の細工が乗っかったアイスをを食べた後、藤堂さんは悲しそうに笑って、「驚かせてしまいましたね」と言った。喉から絞り出したせいいっぱいの言葉であるように思えて、息が詰まった。
「ほんとうにごめんなさい。でも今はひとりでいたいんです」
「いえ、いいんだ。ぼくが悪かった」
「こんなによくしてもらっているのに、私……」
「これは私が好きでやっていることだから」
藤堂さんは私を見て微笑んだ。
「心から、あなたのことを実の娘みたいに思っていますよ」
「お金が出来たら乃愛の学費やお家賃は必ず私がお支払いします」
「いや、もうこの年だと他に使い道も思い浮かばない。若い人に使ってもらえて本望です。私は家庭を二度も壊してしまったから……」
そう言って藤堂さんは、は、と言葉を途切れさせた。
「同じですね」
「ええ、似た者同士だ」
母と藤堂さんは顔を見合わせて笑った。
藤堂さんのマンションに戻った後、私は荷物をまとめ始めた。もうきっとここには置いてもらえないと思う。仕事を探してここを出よう。もらったブランドバッグを売れば、敷金礼金の足しになるだろうか。
「乃愛ちゃん、どうしたの」
物音で察知したのか、藤堂さんが慌てた様子でやってくる。
「え……、ううん、そろそろ私も独り立ちしないとなぁって思って。悪いでしょ、いつまでも甘えてちゃ」
「乃愛ちゃん、ぼくの養子にならないか」
「え?」
藤堂さんには二人の子供がいるという話を、周りの人から聞いていた。
「だって藤堂さん」
「息子たちには一銭も残したくない」
藤堂さんの声がかすかに怒りで震えていた。藤堂さんが憎しみをにじませる様子を初めて見た。
「いったん落ち着こう、お互いに」
私たちはキッチンへ移動した。小鍋にミルクを温め、シナモンとはちみつを落とす。
「飲んで。体が温まるよ」
私が子どもの頃、よくママがこうして飲み物を温めてくれた。眠れない夜はミルクにお砂糖、スパイス。ジンジャーシロップとミルク。シロップと炭酸水。
藤堂さんとミルクを飲みながら少し話をした。お金を残しても息子二人に使われるくらいなら今全て使い切ってしまいたいこと。お母さんと再婚してお金を渡してしまうつもりだったこと。それが叶わない今、資産の名義を少しずつ私の名前に変更したいこと、藤堂さんはいたってまじめだった。私は受け取れません。と呟いたきり、何も言えなかった。
大学の近くの駅は、利用者のわりに駅自体が小さく不便だ。新しく大学ができ、街の新開発が進んだせいで、駅を利用する人が急激に増えたらしく、乗り降りのたびに人が溢れる。もとはとても田舎だったんだろう、山の中腹を切り開いて綺麗に平らにされたところに私が通うキャンパスはあった。駅から大学までバスに乗るのだけど、勾配が急なのでうねうねと迂回して道が作られているのがもどかしい。いっそモノレールでもあればいい。
それでも、大学の近くの町の方が、藤堂さんと暮らしている町よりも物価が安かった。以前の習性から、つい日用品の安さを追求してしまう私は、荷物になるのにかさ張るものを買って電車に乗ってしまう。
その日も、駅から十五分ほど歩いたドラッグストアに生理用品を買うために立ち寄った。お金を支払った直後、「岡田乃愛さんですね」と知らない男性に声をかけられた。「藤堂の次男の仁隆です」男性は帽子をとって頭を下げた。
*******
男に連れられて、客入りの少ない個人経営のコーヒーショップに入った。
「私のことご存じなんですね。お父さんとはずいぶん疎遠みたいですけど」
「すこし調べさせてもらいました。人を使って」
この人捕まったみたいですね。と男が言った。ジャケットの内ポケットから取り出した写真は、前のパパの写真だった。
「詐欺、でしたか」
「ええ。でもそのほかにずいぶん前科もあるようで」
「なにがおっしゃりたいんでしょう」
私は男の目を見上げた。特に何の感情も読み取れない目だった。
「この方、あなたのお母さんと結婚してらっしゃった間はずいぶん大人しくしてらしたみたいですね」
「要件を先にお願いします」
「組織的売春の件、調べさせてもらいました。売春していたあなたの元同級生、後輩の証言もとれています。あなたを買ったという人にも話を聞きました。具体的に収益のどれくらいがあなたに渡っていたのか。あなたからあなたのお父さんに渡っていた金額はわかりませんが、客ともめたときに間に入った男、あれはあなたのお父さんのお知り合いみたいですね」
この件は表には出ていないようですが、今ばれたら大変なんじゃないんですか。あなたのお母さんの新しいお店、やっと軌道に乗り始めたところみたいで忙しそうですけど、これ以上忙しくなったらお母さん倒れてしまうかもしれないなぁ。と男は言った。
「私にどうしろとおっしゃるんですか」
「藤堂の目の前から消えてください」
男は分厚い封筒を差し出した。
「今からこれを持って、あのマンションには二度と戻らないで」
私は封筒を受け取ったうえで言った。
「荷物がありますから一度戻ります。どうしても私とお父さんを会わせたくないなら、その間あなたが藤堂さんを外に呼び出してお茶でもなさってたらどうですか」
「私と藤堂の間にはもう何十年も交流がなくてね。知ってて言ってるでしょう。いい性格をしていますね」
「仁隆さんのお母様と藤堂さんは正式な夫婦ではなかったと聞いています」
「まぁ早い話が、実子が俺に持ちかけてきたんですよ。あのお嬢さんを藤堂の家から追い払ったら、お前が実子だった場合の金額を正当に受け取った金額に補填して俺が払ってもいいって」
「悪くない条件ですね。これだけのことを調べるのにそれなりのお金がかかっているえしょう」
「払ったのは私じゃない」
「でしょうね」
私は席を立とうとする。男が机の上に前のめりになって声を潜めて聞いた。
「このことを藤堂に喋りますか」
「いえ。特には」
よかった。と男は人懐っこそうな笑顔を見せた。じゃあ私は引き留めません。有意義なお話ができてよかった。男はそう言うと、ズボンの尻ポケットからくしゃくしゃになったタバコの箱を取り出した。男が火を点ける前に、私は店を出た。
封筒の中の現金はちょうど百万円あった。店を出る直前まで、一度マンションに戻って必要な私物を取りに戻るつもりだった。でも、気が変わった。私は適当な店に入って大きめのカバン、着替えと下着を買い求めた。中に未開封の生理用品を入れたとき、なんだか馬鹿みたいだと思った。
駅のホームでベンチに座って、一日ただ、行き来する人たちを見ていた。同じ駅にずっといると、藤堂さんの知り合いに見つかってしまいそうで怖くて、適当に電車を乗り継いで移動した。気がつくといつも遊んでいる駅に来ていて、これだと見つかってしまうな、と思ったのでまた電車に乗る。見当もつかないような、今まで利用したこともない遠くの駅に行くことにした。そこで降りて、新しく部屋を借りる。電気にガスに水道を引く、職が見つかるまでごはんを食べる。学費はすでに一年分支払われているので当分は問題ないかもしれない。でもまた定期がいる、美容院代がかかる、生活用品も揃えなくてはならない。それらのことを考えると百万円ではとうてい足りない気がしてきて、急に心もとなくなる。どこにも降りられないままとうとう終電の駅についてしまった。もう一度反対側の電車に乗ろうか、思案する。もっと遠くへ、どこか遠くへ行ってしまいたい、という気持ちがふと沸き起こってきた。電車ではいけないような、もっと遠くに。
「大丈夫ですか」
気がつくと辺りはすっかり暗くなっていた。
私は駅のベンチで少し眠っていたようだ。
「具合でも悪いのかと思って」
「あ、いえ、その、、、平気」
若い男だった。同じ年ごろだろうか、日に焼けた肌、潮の香りがする。
「このあたり海が近いんですか」
私は聞いた。何を聞いているんだろう、と思う。
男はにこりと白い歯を見せて笑った。
「浜でBBOした帰りです。わかります? まだ煙臭いかな」
男は二の腕に鼻を押し付けてふんふんと臭いを嗅いだ。まるで犬みたいだ、と思う。
「大きな荷物ですね。持ちましょうか」
「いえ、中身はほとんど空だし……」
「家出女子高生みたい」
男は笑った。
「こう見えても二十です」
「ほんと? 見えないな」
「じゃあ幾つに見えるんですか」
「十六から三十三の間の全部」
私は笑った。
「そういうあなたは幾つ? 学生じゃないでしょ、ずいぶん高いシャツ着てる」
「わかる? おしゃれしてきたから。二十七歳」
「うわ、いい年してチャラチャラして嫌な感じ」
「そうかな? いや二十七だよ? まだまだ若いでしょ」
「おじさんじゃん」
私は笑った。まじかよ。と男は私の隣に腰を下ろした。
「まぁでも、女子高生は外れだけど、家出っていうのは当たってる。私今日行く場所なくて、野宿かな~、って思ってた」
「野宿ってマジ? いや、いくら日本が治安いいつってもさ、この辺夜になるとあぶないよ? 人通りもないし、暗いし、ホテルってもラブホしかなくて、一晩過ごすとなると高いじゃん」
「じゃああなたの家に泊めてよ」
え、と面食らった様子で男は言った。
「見ず知らずの人間信頼すんの早くない?」
「あなた良い人そうだから」
「そうかな? そう?」
男は照れたようにはにかんだ。
「名前聞いてもいい?」
「岡田乃愛。そっちは?」
「俺は鈴木悠馬」
「いい名前だね。ユーマ、UMA。」
「かっこいいっしょ」
「ユーマ一人暮らし?」
「いちおうね」
「彼女は?」
「今はいない」
「じゃあ泊っても問題なくない?」
呆れたように、悠馬は息を吐いて笑った。
「わかった。じゃあ行こ。荷物持つよ」
一瞬差し出された手にカバンを預けるべきか迷う。ひゃくまんえん、の姿が脳裏をちらついた。私は不自然な間をごまかすように、にっこり笑って、悠馬の手にカバンの持ち手をのせる。百万円を奪われて、全裸で路上に放り出されたところで、そのときはそのときだ。もとより失うものなどなにもない。私は空いている方の悠馬の手を握って歩き出した。
透明の月 阿瀬みち @azemichi
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