花火の夜に、もう一度

夏野

第一話 P1

 世の中には、物語の主人公になれる人間と、なれない人間がいる。


 十七歳にもなれば、栞(しおり)にも自分がどちらなのか、さすがに理解することができた。


 街を歩いていても芸能事務所のスカウトに声をかけられることはないし、模擬試験で全国上位になることもない。運動も芸術も、人より優れた特別なものなんて何もない。


 主役になれない、その他大勢。


 それでも、頑張ってめいっぱいおしゃれをして、友だちと花火大会や遊園地にでも行けば、少しは楽しい夏休みになったはずだ。


 彼氏がいなくたって、クラスの中心でキラキラ輝いている子たちのようになれなくたって、きっとそれなりに楽しい夏は過ごせたはず。


「何が悲しくて、こんな田舎に来なくちゃいけないんだろう……」


 品川駅から新幹線で一時間半。そこからさらに在来線を乗り継いで、乗り継いで、一両編成の鈍行列車に揺られること二時間。


 窓の外は延々と続く緑、緑、緑。ビルどころか、民家さえ一軒も見えない、奥深い山のなかだ。


「もう嫌。あと何駅だっけ」


 スマホで調べようとして、アンテナが一本も立っていないことに気づく。


「嘘。スマホも使えないの?!」


 思わずそう叫び、栞はおんぼろな車内に掲げられた路線図を見上げた。


「さっきの駅がここで……あと五駅もあるの?!」


 ありえない。いったい何分かかるというのだろう。乗り換え前に、トイレに行っておくべきだった。さすがにそろそろ限界だ。車両にトイレがついていないのが、たまらなく恨めしい。栞はぎゅっと拳を握りしめ、硬い座席にぐったりと脱力した。




『夏休み、おばあちゃんのようすを見に行って欲しいの』


 女子大で准教授をしている母からそう告げられたのは、今から二十日ほど前。七月の頭だった。


『おばあちゃん……? おばあちゃんって、去年、死んじゃったよね。お墓参りに行ってこいってこと?』 


 首を傾げた栞に、母はいつになく真剣な声音でいった。


『父方のおばあちゃんだよ。あなたのお父さんのお母さんがね、病気を患って困っているの』


 物心がついたときには、この家には母と栞しかいなかった。父親の話を聞いたことは今まで一度もないし、アルバムにも栞と母の写真しかない。父親というものは、栞には存在しないのだと思っていた。


 だから父親に会いたいなどと思ったことも一度もないし、それ以前に常にすっぴんでショートカット、色気のない服装で研究に没頭している母に、そんな相手がいたこと自体、驚きだ。


『私にもお父さん、いるの? てっきり精子バンクかなにかで作られた子どもかと思ってた』


 栞の言葉に、母は苦い笑みを浮かべる。その目尻に皺が寄って、「老けたな」となんとなく思った。毎日顔を合わせているからあまり気づけないけれど、栞の背が伸びるのと同じように、母は少しずつ年を取っている。若く見えるけれど、もう四十代も終盤なのだ。


『いたよ。籍は入れていないし、一緒に暮らすこともなかったけどね』


 過去形、ということは、すでにこの世にはいないのだろうか。入籍も同居もせずに子どもを産ませるなんて、いったいどんな男だったのだろう。不倫とか、遊びで抱いただけとか、そういう酷い男だったのだろうか。


『どうしてそんな男の、母親のようすを見に行かなくちゃいけないの』


『お義母さんにはね、ほかに頼れる人がいないの。あなたのお父さんは一人っ子だったし、お義父さんも他界してしまったから。本当なら私が行くべきなんだけど、どうしても仕事、休めなくてね。このとおり、お願い』


 母はそういって、拝むように両手を合わせる。


『おばあちゃんのところに行くことで、私になにかメリットある?』


『夏休みの間、おばあちゃんの家で過ごしてくれたら、あなたが欲しがっていた最新型のタブレット、買ってあげる』


 その言葉が決め手だった。私は新品のタブレットを手に、つい先日まで存在さえ知らなかった亡き父の母親のもとに行くことになったのだ。




 鈍行列車はゆるゆると山道を進んでゆく。


「まだ次の駅、着かないの?!」


 都内の電車と違って、駅と駅のあいだが物凄く遠い。このままでは、膀胱が破裂寸前だ。ガタンゴトンと揺れるたびに、逼迫したピンチが訪れる。


「あぁ、もう、なんでトイレないのよ!」


 もじもじと膝を擦り合わせ、必死で尿意をこらえつづける。


 こんなことをあと五駅分もしつづけるなんて、絶対に無理だ。


「毎度ご乗車ありがとうございます。次の駅は――」


 間延びしたしゃがれ声の車内アナウンスが流れる。祈るような気持ちで、栞は窓の外をのぞき込んだ。


 あった。駅だ。やっと次の駅に着く。


 いくら田舎の駅だって、トイレくらいあるだろう。とりあえずいったん降りてトイレを借りて、次の電車に乗ればいい。


 はやく。はやく。駅に着いて。両手を胸の前で組み、涙目になって祈りつづける。


 やっとのことでおんぼろ電車は駅に到着した。扉に駆け寄ったけれど、いつになっても開く気配がない。


「うそ、壊れてるの?!」


「ああ、ここいらの電車はな、ボタンを押さんと開かんよ」


 優先席に座っていたおばあさんが、扉の脇にある開閉ボタンを指さし教えてくれた。


「ありがとうございますっ」


 そう叫び、電車の外に飛び出す。その瞬間、鼓膜を破られそうなほど盛大な蝉の声に包まれた。ゆらりと視界が揺らぐような熱気と、むせかえるような木々の匂い。


 立ちくらみを起こしそうになりながら、周囲を見渡す。


 日よけさえない、駅名を記した看板が立っているだけの簡素なホーム。その先に、改札と思しき鉄製のゲートが立っていた。


「あっちだ!」


 よろめきながら駆け寄り、栞は絶句する。そこには切符を回収するための鉄の箱と物置きのような小屋があるだけで、駅舎が存在しなかった。


「嘘でしょ?!」


 電車に戻ろうとしたそのとき、発車を報せるベルが鳴り響く。ぷしゅーと音をたて、無情にも扉が閉まってしまった。


「どうしよう。この駅、トイレないよ……!」


 泣きそうになったそのとき、ゲートを抜けた先の雑草の生えた砂利道に、工事現場にあるような簡易トイレが置かれていることに気づいた。


 酷いにおいがするけれど、この辛さから逃れられるなら、匂いなんか気にしている場合じゃない。


 息を止め、栞はそのトイレに駆け込んだ。


 やっとのことで平穏を取り戻し、ふたたびホームに戻る。駅名看板の隣に立つ時刻表に目をやり、栞は悲鳴をあげてしまいそうになった。


 さっきの電車が、十一時二十分発。そして次の電車は、十三時三十分発。次の電車が来るまで二時間以上もある。


「こんなところで、二時間も待たなくちゃいけないの?!」


 ぐったりとうなだれ、スマホの画面を確認する。相変わらずここも圏外だ。ネットなしで二時間。いったいどうやって時間を潰せというのだろう。


 タブレットは新幹線内で使ってしまったから、すでに電池残量がゼロだ。途方に暮れた栞をあざ笑うかのように、蝉たちの大合唱が響き渡る。


「もう、やだ……」


 額をダラダラと汗が伝う。とりあえず何か飲んで落ち着こう。そう思い、仮設トイレの向かいに立つ自販機に向かったけれど、電子マネーが使えない旧式の機械だった。


「嘘でしょ。電子マネーも万札も使えないなんて。何も飲めないよ」


 ふだん電子マネーしか使わない栞は、小銭を持ち歩く習慣がない。財布のなかには、母がお小遣いとしてくれた一万円札が二枚あるだけだ。


 ぐったりと肩を落とし、栞はホームに戻った。


 バックパックを開き、スケッチブックと鉛筆を取り出す。スマホやタブレットが使えない以上、スケッチをするくらいしか、時間を潰す方法がない。


 どこまでも続く線路。生い茂る緑。改札ゲートの先になにもない、シュールな駅。いつか、なにか田舎の絵を描くときにでも使えるかもしれない。そう思い、栞は周囲の景色を描き始めた。


 栞は絵を描くのが好きだ。物心がついたときから、何にでも絵を描いてしまう子どもだった。母は栞が勉強をせずに絵を描くのを止めなかった。それどころか、休みの日には美術館に連れて行って名画を鑑賞させ、絵画教室にも通わせてくれた。


 もしかしたら、芸術家にさせるつもりだったのかもしれない。けれども、どれだけ描いても、栞はあまりよい絵を描けるようにはならなかった。


 デッサン力がないとか、そういう問題ではない。栞の描く絵には、華がないのだ。美大進学を考えたことがないわけではないけれど、絵で食べていけるとは、とてもではないけれど思えなかった。


 プロにはなれない。そのことが分かっていても、描くことをやめられるわけではない。


 絵を描くのは趣味にして、普通に大学に入って、普通に就職しよう。そう思い、高校もそこそこのレベルの進学校を選んだ。


 集中して鉛筆を走らせているうちに、意識が朦朧としてきた。ぐにゃりと視界がゆがむ。まずい。そう思ったときには、鉛筆が地面に転げ落ちていた。すうっと目の前が暗くなる。どうにかしなくちゃ――そう思ったけれど、脱力する身体をどうすることもできず、栞は意識を失ってしまった。




 


「おーい、大丈夫ー?」


 遠くで誰かの声がする。身体にジンと響く、低くて甘い声だ。かっこいい声だなぁと思い聞き惚れていると、額に冷たいなにかを押し当てられた。


「ひぁっ!」


 慌てて目を見開くと、すぐそばに薄茶色の瞳があった。


 長いまつげに覆われた、大きな瞳。栞と目が合うなり、すっと優しく細められる。


「よかった。意識が戻ったようだね。――起き上がれるかい」


 手を差し出され、おずおずとその手に触れる。白くてほっそりした手のひら。触れると、驚くほど冷たかった。


 きゅ、とその手を掴むと、しっかりと握りかえしてくれる。細いのに、思いのほか力が強いようだ。もう片方の手で背中を支えるようにして、抱き起こされた。


 ふわりと、変わった匂いが鼻先をくすぐる。なんの匂いだろう。どこかで嗅いだことがあるような気がするけれど、思い出せない。


 まばゆさに瞬きを繰り返し、目の前の男の姿を見あげてみる。


 面長の優しげな顔だちに、透き通るように白い肌。男性にしては少し長めの色素の薄いさらさらの髪に、鼠色の作務衣をまとったそのひとは、思わず見惚れてしまうほど、美しい顔だちをしていた。


「ぁ……っ」


 かっこいい男のひとに抱き留められている。その事実に気づき、慌てふためいて身体を離そうとする。


「危ない!」


 ベンチから転げ落ちそうになった栞を、彼はますます強く抱き留めた。細身に見えるその身体は、思いのほか逞しい。すらりと長い腕や華奢に思えた胸がしっかりとした厚みのある筋肉に覆われていることに気づき、かぁっと栞の頬が熱くなった。


「だ、大丈夫、です。大丈夫ですからっ……」


 慌てて身を離そうとした栞に、彼は心配そうな顔を向ける。


「本当に大丈夫? 救急車、呼ばなくていい?」


「呼ばなくて平気です! 救急車なんて、必要ないです」


 さりげなく彼の手を退け、彼との距離を広げる。改めて見ると、とてつもなくきれいな人だ。百八十センチ以上あるだろうか。すらりとした長身に、驚くほど長い手足。顔がとても小さくて、直視するのをためらうくらい整っている。寂れた田舎町には不釣り合いな、垢抜けて洗練された容姿だ。


 剃り残しどころか毛穴さえまったく存在しないように感じられる、透明感溢れる肌。中性的な顔だちをしているのに、作務衣からのぞく形のよい鎖骨や筋張った手のひらは男らしくて、そのギャップが妙になまめかしく感じられる。


 こんなにきれいな男性は、ネットやテレビ、雑誌でも一度も見たことがなかった。


「これ、飲みなよ。最近の暑さは異常だからね。若い子でも熱射病で死んでしまうこともあるんだよ」


 差し出されたペットボトルを、おずおずと受け取る。まばゆい夏の日差しにキラキラ光る水滴をまとったスポーツドリンクは、からからに喉が渇いているせいか、今までに飲んだどんな飲み物よりもおいしく感じられた。


「これ、きみが書いたの?」


 地面に落ちたスケッチブックを拾い上げ、彼は栞の瞳をのぞき込む。


 あまりにもまっすぐなその眼差しに、どうしていいのかわからず、栞は狼狽えた。


「は、恥ずかしいです。あんまり、いい絵じゃないからっ……」


 慌ててスケッチブックを取り上げた栞に、彼は穏やかな声音でいった。


「いい絵かどうかは、描いた本人じゃなく、その絵を見た人が決めることだよ。――僕には、とてもいい絵に見えるけどな。派手さはないかもしれないけれど、優しくてあったかな、素敵な絵だ。僕は、きみの描く絵が好きだよ」


 お世辞でいってくれているだけだと思う。そのことが分かっていても、ばくばくと心臓が暴れて、どうにもできなくなる。


「きみ、この辺の子じゃないよね? ひとり旅かい?」


「いえ……祖母に、逢いに来たんです……。あ、電車っ……」


 慌ててスマホの時計を見ると、一時四十分だった。意識を失っている間に、貴重な電車が行ってしまったようだ。


「どうしよう。電車、行っちゃった……」


 途方に暮れた栞に、彼はにっこりと笑顔を向ける。


「このまま放っておくのは心配だし、車で送ってあげようか」


「いえ、そういうわけにはっ……」


 否定したけれど、彼は栞の荷物を拾い上げ、素早く肩に担いでしまう。


 知らない男の人の車に乗るなんて、危険すぎる。そう思う反面、こんなにもかっこいい男の人が、自分なんかに手を出すわけがないという確信が頭をよぎる。


「立てないのなら、おんぶするけど?」


「や、だ、大丈夫ですっ!」


 差し出された手から慌てて身体を離し、栞はいそいそと立ち上がった。

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