人魚姫のキリム

清涼

第1話 人魚姫のキリム

うんと若い女が捕まって、人魚にされた。

婆が世話係になった。名を聞くと、そよ風みたいな声で「キリム」と言った。化粧っ気のない白い顔は、まだ少女だった。魚になった下半身に慣れないみたいで、指で鱗に触れたり、動かしたりしていた。

「あんた、若いし、がんばれば一年くらいで人間に戻れるよ。だから・・・」

婆が言いかけると、

「戻らなくていい」

とキリムは言った。

「馬鹿なことを言うんじゃないよ。こんなとこ、まだ五十年早いよ、あんたには」

キリムの、咲いたばかりの花のような唇に見とれて言った。

「もう、あたし、脚を開くことに疲れたんだ」

キリムは、ぽそっと言った。スイカの種を一粒口から吐き出すみたいに。

「・・・へぇ。そうか」

婆はごくりと卑しい音をたててツバを飲み込んだ。息苦しくて、思い切り息を吐いた。

「・・・じゃあ、ちっとは休みな」

キリムは眠くてたまらない子どもみたいに薄目でうなづくと、丸い岩に身を横たえた。

すると、もう若いチンピラカモメがキリムを見るために集まって、ぎゃあぎゃあ鳴いていた。

婆は舌打ちをして手を振った。

「うるさいね、あんたたち。新入りが来るたびに集まってきて」

「うるせぇ、ババア」

「ババア、じゃなくて、婆だよ、あたしは」

「ババアの顔なんか、見たくねぇや」

「そうかい、じゃ、消えなよ」

「きれいな肌だなぁ。触りたいなぁ」

チンピラカモメは、人間時代に悪さばかりはたらいていた連中だ。リーダーが婆に火のついたタバコを一本投げた。婆の目は一瞬輝いて手を伸ばしかけたが、プイッと横を向いた。チッと音がしてタバコは海に消えた。

「この子はだめだよ。絶対に、だめだ、あっちいけ、しっしっ」

婆は大きく手を振って、カモメたちを追っ払った。

「あんなゲスどもに、触らせるもんかい」

婆は、海の中からわかめを手繰り寄せると、大きく広げて、キリムの身体にかけた。

「つめたい・・・」

キリムが身体をびくっとさせた。

「すぐあったまるよ。じっとして寝な」

婆はキリムを見つめた。白い肩が、かすかに上下に動くのを見て、婆は安心した。

キリムの背中をさすってやった。

「やめてよ」

キリムはいやがって身体をよじった。ワカメは太陽の日を浴びて、すぐに温かくなってきた。

「よしよし、ほらほら」

婆がしつこくキリムの背中を撫でていると、そのうちに、そよ風のような寝息を立てた。婆は目じりに何本もの皺を刻んで微笑み、風に乱れた髪を撫でてやった。

婆は目を見開いた。

「こ・・これはっ」

キリムの額の上に、台風の目のようなつむじがあった。

婆はひとつ大きなため息をついた。

「まさか。偶然さ。母ちゃんからあたし、娘って遺伝してきたこのつむじ。あんた、まさかあたしの孫じゃないだろうね」

婆はキリムの白い頬と、スイートピーのツルみたいに可愛いまつげを見ていた。

「十五年前だよ、娘が子を産んだのは。となると、あんたはあの時の赤ん坊かい。いや、まさかだよ。額の上のつむじなんか、誰にでもあるよ」

婆は、ずれかけたワカメをかけた。

「まったく、しようのない子だよ、ガキのくせにこんなことになっちまってさぁ」

そうしていると、女村長がやってきた。

「婆、どうだい新入りは」

「ああ、落ち着いてるよ。泣きもしなけりゃ、寝てばかりさ」

「まったく最近の子はこんなところに来て、平気な顔さ」

婆はうなづいて、

「罪状はなんだい」と聞いた。

「男百人、ノイローゼにしやがった」

婆は、村長の顔をじっと見た

「一人も・・・殺ってないのかい」

「殺っちゃいない。ただ、全員廃人さ。全員が、今までやっていたことを、辞めちまう。仕事、学校、スポーツ。それで、何もしない男になっちまう。だからここにぶちこまれた」

「金が目的かい」

「全然。寝る男はみんな貧乏人さ」

「・・・」

村長は婆を見て、口の端を上げた。

「まるであんたと罪状が同じだ」

婆は額に手をやって、何かを言いかけて、そしてふっと笑った。

キリムは、一週間ほど寝てばかりいて、話らしい話もしなかったが、そのうちに、食欲も出てきて、婆が取ってくるアジやウニをおいしいと食べるようになった。

(好物までアタシに似てるけど)

婆はキリムがもぐもぐと口を動かして者を食べる姿を見るのがしあわせだと思った。

(もしかしたら、本当にあん時の赤ん坊なのかもしれないね)

婆は、娘のことを思った。忙しくて、娘のこんな姿は記憶になかった。仕事と男のことで、毎日がいっぱいだったから。

「私にもねバァバがいたらしいんだけど、病気で死んじゃったんだってよ」

満腹になると、キリムはご機嫌になって、良く話した。

「へ、へーぇ」

「ママがいつも言ってたんだ、あんたはバアバそっくりだって。わがままで気が強くて、そんで・・・」

「そんで?」

「男のことしか考えてない」

婆は、首を振った。

「男のことなんか別に考えちゃいないよ。いろんな男に好きだって言われて、ちょっと話くらい聞いてやらなきゃ、かわいそうじゃないか」

「・・・ん?」

キリムと目が合った。

「・・・ってことだろうよ、アンタのバアバは」

「そうよ。アタシもそう。勝手に男が寄ってきちゃってさ。高いもの買ったり、笑ったり、喜んだりして、最後は泣いて、死ぬ死ぬとか言って、馬鹿みたい。ホントに死んじゃえばいいのに」

あはははは、と婆は久しぶりに笑った。

「でもアンタ、ガキのくせに、嫌じゃないのかい。こんなババアばかりの人魚島」

キリムのウニだらけになった唇を、婆は無意識に指で拭ってやった。柔らかくて温かな唇だった。婆は指を海の水ですすいだ。

「人間に戻ったってつまんない」

キリムは婆の傍らに寝ころがって言った。

キリムの真っ白な乳房は、この世に生まれたばかりの神聖な命のふくらみだった。

婆は腰につけた業務用バッグから帆立貝を二枚出して、それを真珠のネックレスをストラップにして、ブラジャーにしてやった

「こんなのいらないよ」

キリムは何でもかんでもとりあえず、いい、とか、嫌だ、とか言う性質みたいだった。

婆はふんと鼻で笑った。

婆の娘と、それから、その父親がそうだった。

キリムは、いい、と言いながらもうれしそうに背中まである真珠のストラップや貝に触れながら言った。

「脚がある限り、アタシ、また開いちゃうからさ。脚なんかないほうがいいんだよ。全然いい男もいやしないし、疲れたんだ」

キリムは胎児みたいに丸くなって、目を閉じた。

「脚なんか開かなきゃ良いだろ、ヤダって言えば、男は何もしないさ」

婆はもうそんなこと、覚えてもいなかったが、もっともらしく言った。

「かわいそうじゃん、やりたいって言うのに」

婆はキリムの丸々としたお尻をぺちっと叩いた。

「何がかわいそうなもんかい。男なんて断られりゃ、またすぐに代わりを探すさ」

「いたいなぁ、もう・・・。アタシだってあんなこと、ダイッキライなんだよ」

「当たり前だい、ガキのくせに」

「だからもう、脚はいらない。一生、あんなこと、やりたくないから」

「はーあ」

婆はため息をついた。

「あんたの母さんは、怒ったかい」

婆はキリムの様子を伺いながら聞いた。

「泣いてたよ。あんたはバアバの血が流れているとか」。

婆は一瞬目を閉じてから、また見開いて、

「みんなアタシのせいかい」

と怒鳴った。

「あん?」

キリムは片目を開いて婆を見た。

「・・・とにかく、アンタ、最短の一年でここを追い出すよ。だめだ、こんなところにいたら」

「ふざけんな、帰りたくない」

「高校行って、大学行って、母さんみたいに真面目な公務員に・・・」

「やーだよ」

キリムは海に飛び込んで、それは美しく下半身を動かして泳いで見せた。

カモメたちが集まってきて、キリムに歓声を上げた。

「人魚姫のキリム」

「キリム姫」

何が起きたかと、浜辺の人間たちが家から出てくるほどのカモメの声。

キリムは調子に乗って、帆立貝のブラジャーを外した。真珠が飛び散り、光を受けた。光の粒はハープみたいな音をたてて、海に落ちた。

キリムは帆立貝を片手に持って、カスタネットみたいに打ち鳴らしている。

カチカチカチカチ

カチカチカチカチ

『満月が

君をさらってしまうから・・・』

婆は、キリムのそよ風のような歌声に、あっと、声を漏らした。

『雲よ、湧きいで

雨よ、降りなん』

 「満月が・・・」

 婆はキリムと一緒に、懐かしい記憶の奥にあるメロディを口ずさんだ。

「あんたの母さんも古いね。こんな歌しか教えてくんなかったかい」

婆の目から、涙があふれて、キリムの白い乳房が、青い海から生まれたり、隠れたりするのがかすんで見えた。

カモメたちも、浜辺の男たちも、大喜びだった。

みんなが、キリムの名を呼んだ。

「まったく、馬鹿な子だよ。すぐに調子に乗る。独りになると、どっと疲れちまうくせに」

婆は、すっかりしぼんだ自分の乳房を見下ろして、ごしごしと手の甲で涙を拭いた。

「どうしたらいいんだい。子育てもろくにしてないアタシが、今から孫育てかい」

婆の照れたような顔に、キリムが立てる水しぶきがかかった。塩辛くて、少し甘かった。

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