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夜。無論だがここ日本では日は沈み、光を失った空は暗闇へと包まれ、雲の陰間を縫うようにして月の姿を伺うことができる。白い。とにかく白い。しかし目を凝らせば灰色のクレーターが見える。遥か彼方。月の海。
「おーッ」
「何、仕事の邪魔しないでゾイ」
「まあそういうなってレイ。見てみろ、これもオレとお前の仕事の内さ。凄いぞ」
深零は繁華街の一角、この周辺で最も高さがある複合マンションの屋上にその身を置いていた。風が吹き抜ける音がする。背後の通用口は全て封鎖済みだ。ここには二人しかいない。ヘリか何かでも飛んでない限りこの街で最も高い場所にいる人間と言う事になるだろう。相も変わらずムシムシしていて最悪。
仕方がない、絞りに絞った結果このビルの屋上を含めて数か所しかポイント候補が見つからなかったのだ。昼間、行動を共にしていた凛もそれなりに変人だが、それ以上の変人を伴って今こうしてひたすらその時を待ち続けている。
やたらと男っぽい口調だが声は完全に女のそれ。一人称はオレ、だ。体は女。だが中身は女と男が混ざったような何とも言えない人格で構成されている。幽霊のような白い肌と透き通るような灰色のかかった白い短い髪。蒼い瞳。その外見は異端児と称するしかないのだが、深零はこの人間を信用している。
彼女の本名を深零は知らない。ただゾイと呼んでいて、ゾイは深零をレイと呼んだ。それさえ出来れば十分だ。それ以上の関係性は二人には不要だった。
深零は微動だにせず構えていたSRSを片手に持つと、三脚に固定されたファインダーを覗きながらニヤつくゾーイの元へ寄り「貸せ」と一言だけ言い放つ。体を避けたゾイのスペースへと自らの体を入れるとファインダーを覗いた。街の明かりが暗視装置を不要にしている。
「なんだこれ…」
「めっちゃ最高なカラダしてる」
「だから何よ」
「あの辺り高いじゃんか、あんなトコに女一人で住んでるなんて」
「ゾイ、あなた性差別主義者なの?」
「いやそうじゃないさ」
数百メートルは離れているマンションの一角、カーテンを閉め忘れたのか気にしない大らかな性格か、はたまた露出狂か、一面ガラス張りの窓越しに着替える女の姿が見える。何ともご立派な下着で大層な事だ。高層マンションの数十階、恐らく覗かれるとかいう思考も働かないのだろうが、そんな事よりも深零はこんなくだらない事一つの為に射撃体勢を崩し、わざわざ呼び寄せられた事実に対して腹が立って仕方がなかった。
「こんな事の為に呼ばないで。アンタの嗜好に付き合ってるほど暇じゃない」
「レイ。お前、オレの目が必要なんだろう?」
「そうだけど、こんな大層なオモチャ使って遠距離覗きする異常性癖者じゃない事は確かよ」
「ツれないな。フン、そんなコト言ってると友達と人権団体に嫌われるぜ」
「既にカンストしてる。これ以上はないから安心しなさい。それに私、環境保護団体と動物保護団体と人権保護団体とその他諸々、あと新興宗教、もうとにかく全部嫌い」
「古くからある宗教はいいのか」
「まだマシ。まぁ今ある宗教を認めさせたいなら私を数百年後にでもタイムスリップさせればいい、簡単でしょ?」
「レイのそーいうトコ嫌いじゃないねえ、簡単かはともかくとして、だ」
いいから仕事に戻れ、と指図すると笑ってゾイは位置を変えて再びスポットを続ける。
「それにしてもレイ、なんでSRSなんか使うんだ?ノーマルのボルトアクションでいいだろう」
「軽いから。体力ないの」
「冗談キツイぜ。野戦ならともかくこんな状況でも三脚使わずに撃とうとする、ピクリとも体勢を動かさないその口から飛び出しても説得力ってモンに欠けるよ」
「小さいってのは正義、少なくとも私にとっては」
「いや大きい方がいいものもあるさ、例えば…」
「あぁあぁもう分かった。分かった。黙ってろ、動きがあった時だけ報告しろ」
「了解ですよ大尉殿」
「私に階級はない」
「なあレイ、何度も言うようだが今度オレらのパーティー来ないか」
「ヤク中になりながらナメクジの交尾なんて私はムリって何回言ったら分かるのよ…」
何でこうも私の周りにはこういう血が合わない人間ばかり集まってくるのかと深零は溜息をつく。ただその狙撃体勢だけは決して変える事はない。このSRS-A2は狙撃銃としては屈指の小ささと軽さを両立しており、銃口に取り付けたサウンドサプレッサーを考慮しても圧倒的に取り回しが行いやすい。一見なら体育座りにも見える片腕をクッションとした構えは全身への負荷が半端ではない。その中で軽さとコンパクトさが大いに生きてくる。
街の喧騒を見下ろす。まるで俯瞰だな。ゲームでこういった類はよくある。この高さともなると風がそれなりに吹いているがとにかくじめったい。正直に言うと全身汗だくだった。自分でも臭うのがはっきり分かる。控えめに言って臭い。動物の臭いだ。所詮はどんなに着飾った所で猿の進化系に過ぎないと痛感する。SSR版のモンキー。オタクの志保がSSRだのSRだの常日頃言っている。サイトでもよくあるじゃないか、どう見ても変わらないのだが最新版と銘打って売られている品々。恐らくこの世の中には2メートルか3メートル離れた場所で今は真面目にレンズを覗く彼女のような変態と言う名の異常性癖者の中にこういった類に興奮を覚えるクソ野郎もいるのだろうが少なくとも深零はそうではなかった。ただただ自己嫌悪に陥りそうな感覚に耐えながらスコープを覗く。ポリマーに汗が染みていく。いや正しく言えば染みるのではない、湿るのだ。手汗で。そして若干滑る。左腕に乗せるアルミニウムのハンドガードがヒヤリとした感触をインナー越しに伝える。このボディラインを強調するような体にフィットするスーツのお陰で多少は快適だ。配備直後はパッと見ただけでは全身タイツにしか見えない代物だったがこれはその改良型。外見に関しては相当なテコ入れが入っており、市販されているコンプレッションインナーの超高性能版だと思えばいい。流石に深零でも初期型を使おうとは思わなかったが、モデルチェンジを行ってから深零は普段からこれを愛用している。申請すれば幾らでも支給されるから使い捨て感覚。だが、今となっては黙りこくっている相方はスキニージーンズにシャツと言う何ともラフ、かつ似つかず快適性も最悪の服装だ。だが深零自身も昼間と全く変わらない通学用の制服のままこうして銃を構えている訳で何ともイレギュラーな事は間違いなかった。この状況を第三者に認識された時点で敗北を喫するのだが。
「予定時刻を回るぞゾイ、まだ?」
「動きなし」
「いつの時代も情報部ってのは役立たずだよ不正確な情報ばかり寄こす」
「それが連中の仕事だから」
「クソ、こんな所まで装備担いで階段登って来たんだ、情報通りじゃなかったらぶち殺してやる」
「ブッソーな事は言うなよレイ、まあその内に来るさ」
「能天気で羨ましいよ」
先程にゾイが長距離覗きを行っていた建物とは違う、高額な一帯の中でも一際異彩を放つ超高級マンションの真南の一部屋。その最上階のバルコニーで十何人かの男女が何とも豪勢にジャグジーだの何だのでパーティーをしている様子を深零は直に一時間を通り越し二時間を回ろうかと言うレベルでひたすらスコープ越しに視界に捉えている。
「ゼロイン、してあるのか」
「しなくても十分。私が撃てば当たるから絶対」
「大層な自信だねえ、あーダメだ、オレもう帰りたい、ってか腹が減ってきた」
「スポッターがそんな事言っててどうするの、ほらエナジーバーでもかじって。作戦続行」
細長い市販のチョコバーを放り投げる。犬のように飛びついたゾイは一瞬で封を開けるとかじり始めた。ただただ甘い、最近流行りのプロテイン系の市販品だが空っぽの胃が彼女と深零の精神にダメ―ジを与えぬようにするには十分だ。
「流石にここまで現れないのは久方ぶり」
深零も飲み物を口にやる。通学カバンに入っていた、今朝コンビニで買ったプライベートブランドのジャスミンティー。数十円安い割には味に大差がない。SRSを始めとする品々は、テニス部の部員がいかにも使いそうなラケットが完全に何個も入る大きなリュックに偽装して携行してきた。はたから見れば夜遊びしたテニス部の部活帰りの女子高生としか見えないはずだ。
「ごめん、ちょっと体勢崩すよ」
「謝らなくていい、こんな二時間も全く体勢を変えずに石像のようにポジションを構えるお前がどうかしてる」
深零はそっと地面に銃を置くと簡易的にストレッチをする。全身の固まった筋肉が一気に解れていく感触だ。精神は肉体を超える、それは間違いないが、絶対に越える必要がなければ双方に多大なダメージを与えるそれを行う必要は皆無だ。一分どころか半分の三十秒もかからずに万全の状態へとリセットできる。
左腕に巻き付けたフロッグマンウォッチが過ぎ去る刻を正確に伝えている。そのゴツさと言えばおおよそデザインだけを気にする女子高生が身に着けるような代物でない事は確かだ。ライトスイッチを押すと「PM21:45 13」の表示がくっきりと浮かび上がる。あと約五分で配置についてから二時間を回る。
再び銃を手に取り構える。大の男ほどの体格は持ち合わせていない深零にとって取り回しの良さと軽さは正義に直結する。スコープを載せただけの超軽量仕様。バイポットも付けず、無論だが弾道コンピューターなんてもってのほか。
338ラプアマグナムが五発。十分だった。一発もあれば仕事は終わる。25倍越しのスコープで覗く。息を整える。感覚が周囲と溶け合わさり、一体になっていく。全身が研ぎ澄まされる。数秒後には深零は再び完全に世界と同化した。感覚は最早トリガーだけにある。セーフティー解除。弾薬装填済み。発砲可能。
流石に空腹を感じて来た。昼間、凛に貰ったパンしか食べていない。先程ゾイに投げたチョコバーを自分でかじればよかったかも、と深零は思った。一つしか購入していなかった事を後悔する。
口に含んだジャスミンの香りがする。
「急に紅くなったら困る」
「何かあったか」
「いや、なんでもない。気にしないでいつものコトよ」
月は変わらず、ただただ白かった。
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