1-14『気が済まないなら、我が道を征け』

 ――燃えている、何もかもが、灰になっていく。


 圧倒的な熱量が、顔面を、四肢を、辛うじて魔力の糸で繋ぎ留められた、人間にして人外の肉体を焼き尽くしていく。或いは、僕自身を奪い尽くそうとした何らかのネガティブな人格も。


 燃える、燃える、燃える。


 光が、一筋差した。それは視界を覆いつくすような広く淡い光ではなく、瞳孔から一直線で飛び込み、網膜を重点的に焼き尽くす極大の光線だ。


 心の影った部分が明るみに晒される。

 この暴力行為は、僕の本能ではない。

 内なる情動に名もなき、僕の人格とは違う別の何かが働きかけただけだ。


 ……ただ、それだけであってほしかった。言い訳のように聞こえてしまうけど。


 眩しい。瞼の裏側に果てしなく真っ白な光が差していた。

 僕はそれに触れるために、手を伸ばした。伸ばしたら、光が遮られた。

 唇に温もりが当たる。優しさが口の中を侵してくる。

 欠けていた力の半分がパズルの穴を埋めて、ようやく欠けるものがなくなった。

 なのに、何故だろう。心のどこかで何かがぼろっ、と音を立てて崩れていく。


 訳の分からない喪失に、溢れ出る涙を止めることが出来ない。

 泣き止んだ時には泣いた理由すら、憶えていないのかもしれないけど。


 ※※※


 カーテンから漏れだす陽光を僕の五指が遮っていた。指と指の隙間に鮮やかな紅の髪がかかっていた。髪は僕の頬にまで垂れ下がっていて、僅かに揺れるだけで肌を絶妙な距離から撫でてくる。


 こそばゆさに耐えきれず、重い瞼をゆっくりと開けた。見知った天井。借りている部屋の自室。

 いつの間にかベッドに潜ったのだろうか。随分と長い間眠っていたような、気がする。


「目が覚めたようだね、魔王様」


 視界が開けてくる。ベッドの横で少女が僕の顔を覗いていた。

 艶のある赤髪に白い肌。ローザの凛々しめな美しさとは対照的な美がそこにあった。

 何より極めつけは、彼女の纏う衣装。黒地に白のラインが施されたメイド服。実家は貴族である者の、メイドを雇っていなかった。なので、傍らの少女の見た目は新鮮に映った。

 記憶にない、少なくとも、初めて見る女の子のはずだった。が、


「え、と。君は……アリア?」


「その通りだよ、魔王様。アタシは、アリア・シェプステッド。見ての通り魔族よ」


 目を瞑らなくても彼女が魔力の集合体であることははっきりと見て取れた。魔力の色は、鮮紅。


「君が、もしかしてもう一人の魔王妃?」


「その通り。話が早いね」アリアは傍で立ち上がると、ベッドの端に腰を下ろした。「やっぱり、力のもう半分を引き渡したからなのかな?」


「もう、半分」


「ローザから話は聞いているでしょ? 二人で魔王様の肉を食ったの。魔王様本来の記憶が宿ったのは、力が完全に受け渡されたから、かなあ」


「そうじゃなくて……いつ、だよ」


 思い当たる節がない。グスタフが逃亡して、その後、誰かに……誰かに刺されて、その後、どうしたんだっけ。気が付いたときにはもうベッドの上だった。


 記憶の中に空白の時間が滞留している。なんというか、気持ち悪い。


「憶えているわけないよ。だってさ――アンタ、暴走していたし」


「僕が、暴走……」


「そう。力の半分しか備わっていなかったことによる不安定さに、アンタの心の不安定さが混ざって……ローザや、生徒会長さん、それに幼馴染の裏切り者さんがみんな、傷ついたんだ」


 最後に関しては自業自得なんだけどね、とアリアは付け加える。

 幼馴染の裏切り者。

 部屋にはまだ、半同棲していた彼女の、緑色の魔力が微かに残っていた。

 体を起こそうにも、虚脱感が勝ってしまい、天井を向いたまま、動くことすらままならない。


「……シグは。アイツはどこだよ」


「彼女はもう、ここにはいないよ。それにもう、戻ってこない」


「どうして言い切れるんだよ……昨日まで、何事もなく平穏に、幸せに過ごしていたっていうのに」


「その幸せは残念ながら虚構だったようね」


 いとも簡単に切り捨てられる。しかし、事実としてすんなりと受け入れてしまう自分も心のどこかにいた。もはや自分すらも信じ切れなかった。


「嘘だと言ってくれ。せめて、嘘であってくれよ……っ! 今まで二〇年、生まれてから長い時間一緒にいた。妹がいたときも、妹がいなくなってからもアイツだけはずっと傍にいてくれた。そして、これからもずっと一緒にいるって、……信じていた、のに」


「信じていたのに? 押しつけだよ、そんなの。幸せそうに見えたアンタ達の幸せは表層的だった、ワケ」


 怒りをぶつけたくても、本当のことだった。対抗するにもできず、ただ歯噛みをする。唇の肉が引き裂かれ、じわり、と鉄味が滲む。視界はぼやけて仕方がない。拭っても、拭っても元に戻る兆しはない。


 対して、アリアは。


「……仕方ないよね。裏切られたんだもんね、……辛いよね」


 抱擁した。白地のエプロンが顔を覆う。


 ロキ・ディケイオは、魔王の力を得ただけの、ただの人間だ。ゆえに、失ったものの大きさに嘆くのだ。


 失ってから嘆くことしか、できないのだ。


 アリアの胸に埋まってからどれくらい経過しただろう。涙はもう、枯れていた。


「ありがとう、アリア」


「ったく、魔王様の器が時化た面してんじゃないの」


 やれやれ、と吐き捨てたものの、彼女の瞳は慈母のような深い優しさが宿っていた。

 どうやら、先代の魔王はかなり幸せ者だったらしい。


「アリア。……僕が暴走している間に、何があったのか教えてくれないか?」


「きっと、アンタは傷つくよ。自分の犯した罪に引きずられて、また泣き喚きかねないけど」


「聞かなきゃ、前を見なきゃ何も始まらないから」


 身体を起こした僕は、泣き腫らした両目を拭ってアリアと視線を合わせた。

 数秒の沈黙。破ったのは、小さく噴き出したアリアだった。


「さすがね、ロキ・ディケイオ。アンタはやっぱり、魔王様になる資格を持っているよ」


 ※※※


「ここからはわたしが状況を説明します」


 節々が痛む身体を引きずるようにしてリビングへと移動した。

 既にローザが椅子に座って、僕らを待っていた。


「ロキ様。貴方は、シグルーン・ファレンハイトに腹を貫かれました」


「ああ、そこはギリギリ憶えてる。思い出したくはないけどな」


「そのとき――貴方の心臓は一度、止まっています」


「…………、」


 絶句する。続ける台詞を失ってしまった。

 恐る恐る左胸へと右手を近づけ、触れる。皮膚は相変わらず熱を帯びている。

 だが、


「ロキ・ディケイオはもう、この世にいない。


 あるのは、魔王様の魔力で辛うじて蘇生した人形のようなものなんです」

 心臓は止まっていた。脈動を諦めていた。


「え、あ、……で、でも見ての通り、生きているじゃないか。手も動かせるし、歩ける。体熱もある、のに」


「それは魔力が拍動の役割を代わりに行っているからよ。魔王様の力があるからこそ、なの」


「ってことはよ」「僕はもう人間じゃないのか」


「人間は心臓が止まったら、死んでしまいますからね。実質、人間を辞めていることになるでしょう」


「だったら」呼吸が浅い。「僕は、魔族になったのか……?」


「どちらかといえば、身体の作りは魔族に近づいたのかもしれません。『半人半魔』の状態、というべきでしょうか。魔力で身体は動いているものの、器官は人間だから」


 まるで、奇跡だった。望んでもいない、奇跡。


「貴方自身は人間として、死んでしまった。簡単に納得はできないでしょうけど、頭に入れておいてください」


 ここで話を止めたところで何も徳しない。

 人間としては死んでも、ロキ・ディケイオはまだ生きている。そうして無理矢理事実を呑み込むことにした。


「じゃあ、シグは。シグはどこにいるんだよ。アイツはいったい、何をしたかったんだ?」


「命令されていたんですよ、五賢司祭の第四席を名乗った男から――ロキ・ディケイオを殺せって」


「いや、違うよローザ」ローザが会話を遮った。「厳密に彼女が任されたことは、『ロキ・ディケイオの監視』。それも一年前からずっとだ」


 荒唐無稽な冗談かと疑った。が、アリアは依然真剣な目つきだ。


「どうしてそんなこと、分かるんだよ。誰かから聞いた、というわけでもなさそうだし」


「アタシの特性みたいなものよ。魔力の匂いを嗅ぐだけで、匂いの所有者の情報を何もかも吸い上げてしまうっていうね――まあ、そんなところ。あの金髪生徒会長、アンセル・セロージュの超・上位互換って感じ」


 会長の名前、役職までも空で唱えている。


「。ちなみに彼女は『学院』――術儀式帝国学院で一番成績がいい学生で、帝国の市街地一帯に薄い空間魔術を貼っているおかげで、範囲内で起こっている事件とかネタを簡単に仕入れることが出来るの。今も多分、この部屋、覗かれているよ。呼べば来てくれるはず。というか、聞こえているのにも関わらず来なかったら、会長さんについてあることないことを魔王様に言いふらしちゃいますからねー★ 性癖とか性感帯とか、毎日ベッドの上であんなことやこんなことに耽っていることとか」


 聞こえていたら盛大にセクハラだ。聞こえていたらの話だけど。


「……ブラフか?」


「いーや、暫くしたら彼女、ここまで来るよ。魔王妃の名に懸けて誓う。


 ……ということで、アンセルがこの場に駆け付けたら、これからする話は信じて欲しいんだ」


「嘘を吐く可能性は、」


「来てくれた会長さんが証明してくれるよ、相互的に監視できるわけだし」


 それ以上、深く追求することはしなかった。平行線を行くだけだし。


「ファレンハイト家は始祖神教の敬虔な教徒らしいけどさ」


 事実だ。政教癒着状態の国政では、目に見える信仰心こそが成り上がるための道具だった。金を、人員を、資源を始祖神に献上することで爵位は上がっていく。ディケイオ家のような無神論者は国家への献上こそ怠らないものの、信仰する神がいないのでなかなか位は上がらない。腐った国家だ。


「ある時教徒の中でもお偉いさんの方々から、指令が下ったらしいんだよね――『ロキ・ディケイオを監視しろ』って。シグルーン自身はその理由を知らない。けど、始祖神教の上層部は魔王様の秘めたる力を見抜いていたんだよ、少なくとも一年前には。見かけでは魔力すら見えない少年だっていうのにね」


「どうしてシグは僕を刺したんだ?」


「そこまでははっきりと分からない。けど、一つだけはっきりと匂うのはね。


 ――彼女は、自分の意思を削いで、アンタを殺したってことよ。

 本意ではない、殺人。宗教を狂信している家系で育ったが故に、判断がズレたのよ」

 こちらが殺されてしまっては、その想いが真実だったとしても、すぐに信用することはできなかった。

 心臓はもう、脈を打たないのだから。


「シグは、どこに」


「聖樹に向かったよ。教皇様から授かった命令を達成できなかったから、もうボクは助からないってね。

 あと、ロキ君に合わせる顔はないって」


「自分勝手が過ぎるだろうが、馬鹿……っ」


 幼馴染の身勝手さが今はたた沸々と湧いてくる憤怒の起爆剤だった。

 勢いよく椅子から立ち上がり、壁に掛けられていた制服のローブを纏う。


「魔王様――これから、どうしますか? わたしたちはまた始祖神教に追われることでしょうし、貴方も早いうちに逃げないと囚われて、酷い仕打ちを受けます。シグルーン様に襲われたように」


「……だから、なんだよ」ああ、やかましい。逃げるなんてできるかよ。「僕は、シグに会いに行く」


 玄関に向かって大股で歩もうとしたら、背後から左腕を握られた。アリアの細い五指が僕を掴んで離さない。


「正気なのっ!? これじゃあまるで殺されに行っているようなものじゃない!」


「もう殺されているだろうが」


 惜しい命なんてない。拍動しなくても生き永らえるのだから。


「僕は、魔王様なんだろう? 魔族を統べる王、なんだろう? 最強なんだろう? 


 ――たかがインチキ宗教一個に負けるわけがない」


「はっ……は、果たして、それはどうかしらね?」


 ガチャリ、と音を立てて、玄関の押し戸が開かれる。

 ロールを巻いた金髪を上下に揺らし、アンセルが膝を抱えて喘いでいた。


「ロキくん。そこの赤髪から何も聞いてないでしょうね?」


「……ええ。始祖神に誓います、無神論者だけど」


「ね? ちゃんと来てくれたでしょ?」


「特性に対する信頼度は上がったかも、な……」


 アリアが僕の耳元で囁きつつ、悪魔っ娘の艶笑を浮かべた。ぐぬぬ、と顔を真っ赤にしながら会長が唸る。


 基本余裕ありげなアンセルが顔を赤くして狼狽えているものだから驚きだ。


「相手は始祖神教。国一個を敵に回すようなもの、なんですよ。


 ロキくん。後々、絶対に苦労します、修羅の道です」


「でも来てくれたからにはもう、何もかも策を練り終わっているんでしょう?」


「……っ! 庶務くんの癖に生意気すぎますわねっ」


 図星のようだった。ただ、色々とバラされたくなかったから駆けてきたわけではない辺りに、会長の用意周到さがうかがえる。


「だって。――わたくしは、最も信頼できる後輩の苦しそうな顔を間近で見つめるのが好きなんですから」


「酷く悪趣味ですよ。後輩に嫌われていない現状を噛み締めて生きて欲しいものです」


 会長にはもはや呆れていた。一方、胸中では感情が沸き立っていた。


「っていうことで、この通り。あとには引けないらしい。だったら、前に進むしかないよな」


「いくらなんでも強引すぎますって! 魔王様は一度、自分の置かれている状況を振り返ってくださいっ」


「強引も何も、王っていうのは民を導くものだろう。踏み倒されていない獣道を、先陣切って進んでやろうぜ。

 ――僕は、僕の正義を貫くために、先を行くよ」


 制服を正し、アンセルの横を通り越して、外へと抜ける。

 夜の暗幕で締め切られた天蓋は聖樹の長細い枝が蔽いつくしている。


「まあ、僕には王の何たるかなんて分からない。ただの民草だったし、まだ民草を続けるよ。――魔族とかもよく分からない。心臓が止まったとはいえ、僕はロキ・ディケイオだ。魔術師も、聖樹帝国も、始祖神教も、迷宮も、人魔大戦も――、一番近くにいたはずの、幼馴染のことも、何にも分かっていなかった」


 我が征く道を、覇道とせよ。


 ――本能の深層で鎖に繋ぎ止められた、何かが、僕の船出を後押しした。


 なんだかよく分からない全能感が一挙手一投足を突き動かす。


「シグルーン・ファレンハイトを奪還する。アイツを一発、ぶん殴らなきゃ気が済まないっ!

 だから、会長。行かせてください――聖樹の頂上へと」


「ふふ。たっぷり、苦しそうな顔、見せてくださいね」


「できれば、苦しまないで何もかも片付けたいですけどね」

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