1-13『紅の襲来』

 閉鎖空間が一瞬にして崩壊する。砕け散ったガラス片のような魔力塊はたちまち、乾いた砂のようにパラパラと飛散していき、ついには空気中に溶けていった。――いや、ただ溶けただけではなかった。何故なら、その場には指向性を持った強風が吹き荒れていたからだ。流れの向きは一方、ロキ・ディケイオに向けて。魔力が流れていく。秒を刻むごとに理性を失ったロキ・ディケイオがただの化け物へと変わっていく。


 刹那、殺意が磁性を得た。ロキの双眸がアンセルへと向く。彼女は、空間魔術を使用した反動により、筋肉がわずかに麻痺していた。たった一秒の空隙さえあれば簡単に逃げることはできるだろう。ただし、魔術師にとっての一秒は悠久に等しい。秒速を超えた思考、戦略――強くなればなるほどに、脳の作りは人知を超えなければならない。そして、アンセルは確かに人知を超えつつあるが、対するロキはもはや、ただの人外だった。人外をも超越すると、言っていい。


 魔術には魔術でしか対応できないように。怪物には怪物で対応するしかない。ならば、きっとアンセル・セロージュは適任なのかもしれない。ただし、怪物は怪物でも度を超えて、もはや神々と見紛うくらいの者どもを屠るには、ただの怪物じゃどうしようもない。


 アンセル・セロージュは。確かに怪物だった。が、ただの怪物でしかなかったのだ。

 何故なら、眼前で暴走するロキとは違い、彼女は人間を辞めるに至っていないのだから。


「――第二波、来ますっ! アンセル様!」


 ローザの悲鳴に彼女は聞く耳を持たなかった。持てなかった。

 金髪の隙間から冷や汗がどっと吹き出しこぼれていく。

 アンセル・セロージュという怪物を易々と超えてきた魔王。止めることなど、不可能に等しい。


「URRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRR――――ッ!!」


 再びの【帝檄一閃】。


 臨界点に達した魔力が一斉に紫電を帯びた光線となって、四方八方、空間を埋め尽くして、破壊を熾す。


 並大抵の魔術ではまず防げない一撃。残存する魔力量が足りないアンセルにはもはや逃げることしかできない。靴裏に魔方陣を展開。風魔術【疾速】を発動。台風直撃並みの風力が足元から地面に吹き付ける。一瞬の飛翔。空中で身を翻し、【帝檄一閃】から身を護る体制を作ろうとして、


「……アンセルさんっ、今度は背後からっ!」


 振り向けない。が、突如として強大な魔力反応。逃げられない。背後に魔方陣を展開。人間の脳の演算領域が破綻していく。魔力野がショート。魔方陣が消滅する。


「まずいっ、わたしが、今――」


 地表のローザがアンセルの背後にめがけて、魔術の焦点を定めた。闇魔術【深淵弾】――物体の及ぼす物理エネルギーを吸収する弾丸を数発撃ちこむ。一発、二発、三発。が、四発目でその軌道は大きくそれた。ローザの背中に衝撃が奔る。


「がはっ……!?」


 ――紫髪が大きく揺れ、乱れた。少女の身体は周囲の建物の壁を抉って、動かなくなる。彼女の背中には拳上の火傷の痕。ロキ・ディケイオが魔力を火炎に変換し、それを拳に纏ったのだ。


 同時に、アンセルの背後で【帝檄一閃】が射出。無防備だった彼女の身体は瞬く間に地面へと撃ち落される。そのまま地表を五メートルほど転がったが、壁のおかげでようやく動きを止めた。


 魔力で編んだ壁だ。が、アンセルとローザが行使した魔術ではない。


 使用者は、あくまでロキ・ディケイオだった。


 闇の、空間魔術【凾餌剖】。アンセルが確信したのは、その魔術が少なくとも、現状、公で解明された魔術でないことくらいだ。固有魔術ならありえるかもしれない。もしくは、解釈の幅を広げられた、既存の魔術か。


 魔力の向きは常に一定だ。

 加えて、構築された空間魔術のせいか、アンセルの身体には力が籠らなくなっていた。


「あ……、がっ、ど、……うにも、ならな」


 人間の動力は、もはや筋肉だけでは足りず、今の時代、魔力が動力の半分を占めていた。魔術が使えなかった旧人類に対して、新人類たる魔術師が劣る能力などたったそれだけ。しょせん、生身の人間如きに奇跡たる魔術は越えられない――という古の魔術師文化から根差した優越感。


 その優越感が、今となって仇になった。


「魔力が、オドが、底尽きていく……!」


 【凾餌剖】の能力は現状、『対象範囲内に存在するオドを持った存在のオドを吸収すること』のようだ。


 魔術を得た人間の動力源は半分以上がオド、すなわち、魔力である。ならば、オドを吸ってしまえばどうなるのか。――かつて、月面から帰還した飛行士で喩えてみると分かりやすい。軽い重力での生活に慣れてしまった人間が、いざ地球に戻ってみると、自力で立つことも困難になっているような――それと同じ現象が起きるのだ。オドありきの生活とは、オドを完全に奪われることで人間として最低限の生活すらも行えなくなることを暗に示している。


 学院内でも優等生であるアンセルは、――裏を返せば、一番に、魔術に身体を委ねきっている人間ともとれた。ゆえに、パワーの逆転が発生する。最強は最弱に。さながら大富豪で革命が発生したときのように。世界におけるパワーバランスが崩壊する。【凾餌剖】の適用範囲が広がれば広がるほど、魔術師は、みな敗北の一途をたどるだろう。


 壁から抜けたローザが、膝から崩れ落ちる。その目に宿したのは恐怖よりも、戸惑い。


「……は、これ、が、魔王様の、力……? そんな、……あの人がこんな力を使うわけが」


 使う訳がない。

 ――何故なら、彼は最後まで誰かを踏み躙らないのだから。


 アンセルの記憶に焼き付いた何人もの魔王の姿が浮かぶ。それと照らし合わせることで、目の前で暴れている怪物の異常性はより色濃く映された。


 怪物が腕を振り払う。微力の風に魔力が乗り移り、炎が空間へと伝播する。ローザの脳裏を死の一文字が埋め尽くす。黒々とした未来のスクリーンに投影されるのは過去の映像、走馬灯。すなわち、未来予想図が立てられないくらいに逼迫した状況。


「早く来てください……、アリア」


 ローザは、初めてその名を口にした。その名は魔王様――ロキにとって最重要な名。


 ――魔王妃の片割れにして、魔王の力の片割れを持っている少女の名。

【帝檄一閃】で弾けた瓦礫や爆轟が即座に晴れ渡る。ローザの鼻っ柱めがけて追撃の拳が迫っていた。


 避けるにも間に合わない。すぐさま、腕を重ねて受け身の姿勢を取る。きゅっと目を閉じて、身体を固めて。術式を紡ぐ舌が、滑った。


 犬歯が舌を思い切り噛み千切って、口腔から鮮血の色をした液状の魔力片が飛び散る。

 皮膚と皮膚が打ち付け合う乾いた音のみが、彼女の耳朶に響き渡り――、

 ロキの拳は、ローザに届かなかった。




「ごめん、ローザ。遅れちゃった」




 ――瞼の向こう側で、激しい追い風が吹いた。ローザの胸中に、一筋の光が差し込む。


 ゆっくりと目を閉じると、眼前には少女の背中があった。長身瘦躯のローザよりも一回り小さく、肩の上まで伸びた、鮮血よりも鮮やかな赤髪が焔を帯びて煌めている。魔王妃のくせに、趣味でメイド服を着ている変わった少女。今日だって、新調したロングスカートのメイド服で、倒れ伏したローザを庇うように仁王立ちしている。


 少女の名は、アリア・シェプステッド。魔王妃の片割れ。魔王の力の片割れ。


「遅いですよ、アリアっ!」


「はは。聖樹の上の連中から逃げていたら合流が遅れちゃった。でも――」


 アリアと呼ばれた赤髪の女の子が指したのは、


「次の、魔王様にちゃんと力、渡してくれたんだ。暴走さえしなければ、なかなかいい人材かもね」


「感心しているじゃないでしょうっ?」


「へーへ、分かってらっしゃいますよ。この子の暴走を食い止めればいいんでしょ。


 そのためには、アタシは預かってる力を引き渡さなきゃならないってワケだね」


「その通りですよ。――貴方が持ち出した、もう半分の『力』が、きっとロキ様を鎮めてくれるから」


「ふふ、知ってるよ。今の彼……ロキは魔力野が十分に機能していないうえで予想だにしないパニックに遭っちゃったせいで、暴走しているんだろうし。でも……それだけ?」


 むっ、とローザの頬が膨れた。真剣な目つきでメイド服の少女を見つめる。


「もちろん、アリア、貴方の力も……必要よ」


「大丈夫。それも、知ってる」


「だったら、今の茶番はっ」


「長い長い眠りから覚めたんだよ? 一〇〇年も沈黙させられたんだ。お互いに裸体は曝されるわ、解剖されるわ、言いこと無しだったんだからね。そんなくそったれな環境から解放されて、久々に親友と会ったらついつい話に花が咲いても、仕方ないでしょ?」


 事実だった。魔王妃の二人は、人魔大戦終戦後、聖樹帝国――厳密には、始祖神教に身柄を囚われた。


 ローザは申し訳なさげに首を横に振った。


「正論だけど……、ごめん、アリア。今はあまり構ってあげられないかも」


「分かってるよ、それも」


 逡巡はなかった。登場から一分にも満たない時間で、アリアは周囲の状況を完全に把握していた。


 ローザのこと、ロキのこと、シグルーンのこと、――そして、今まで場外だったアンセル・セロージュのことすらも。彼女は魔力の臭いに敏感だった。これは、ある種の特性だがアリア・シェプステッドは漂うオドの臭いを嗅ぐだけで、オドの発生源の情報を一から一〇まで探り当てることができた。一〇〇年の沈黙から目覚めたとて、その特性は健在のようだった。


 アリアの視界の端で、何かが動いた。彼女の目が、首が、そして胴体がそちらを向く。メイド服のロングスカートが魔力の風を帯びて、花開く。細く真っ白な――、言葉通り、一〇〇年陽に当たっていない足がわずかに垣間見えた。――蠢いた何かの正体を、もはやアリア・シェプステッドは網羅している。


「ねえ、アンセル・セロージュ帝国術儀式学院の生徒会長兼学院最強の魔術師さん。ちなみに使える魔術はありとあらゆる属性をある程度バランスよく。でも専門は四大精霊だよね? あ、魔術師的にバラされちゃうのはNGかな? でも分かっちゃったものは仕方ないよね。どうせ魔術師やってれば誰かしらにはバレちゃうわけだし? ちなみに身長は一六五センチメートル、体重は、ふふ――モデルできるんじゃない? 金髪はどうやら地毛のようだね。つまんな」


 何が、「つまんな」なのか。アンセルは呆然としていた。彼女の高度な脳ですら、現在発生している現象を言語化するのは難しい。難しいというか、現実が脳の処理速度を軽々と超えている。

 訳が、分からない。


「あ、貴方は……?」


「ただのしがない魔王妃の片割れでーす★ ポッと出てきてポッとラスボス狩るのが趣味。以後よろしく!」


 直後。アリアの身体が消えた。残影のみがアンセルの目に映っていた。

 赤髪の少女が月明りを遮る。その腕に持っていたのは、彼女の身長の二倍はある、大剣だ。

 火炎が剣へと殺到し、蓄積していく――。


「掻き消せ、屠龍の剣――【龍噛砲餓】」


 刹那。

 ――およそ、人間なら耐えきれないほどの焔の衝撃が聖樹帝国の一角を紅に染めた。

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