1-12『破壊』

 シグルーン・ファレンハイトは敬虔な始祖神教徒だ。

 月に一〇回は礼拝に赴く。これは一般的な教徒の二倍にあたる。

 この習慣は既に物心のついたころから行われていた。

 神様のために命を一つ潰すのもかまわないとまで思っていた。


 その狂信的なまでの敬虔さゆえに歴代のファレンハイト家当主は、聖樹迷宮を管理するギルドのトップ、ギルドマスターを務めていた。この国の産業の一角を担う迷宮産業の最高責任者だ。すなわち、上流階級の中でもさらに上位にファレンハイト家は位置しているのだ。先祖から続く始祖神教への情熱的な崇拝がもたらした益として、始祖神教との庶民の間ではある意味神格化、というか英雄化がされていた。


 聖樹帝国は表向きこそ民主主義国家の体をなしているが、その実は宗教と政治が癒着している。より敬虔な教徒こそが、成り上がっていく。上流の貴族なんかは特に狂信者じみた人間も数多く存在する。裏を返せば、一般の庶民でも人並み外れた狂信を見せることで成り上がるチャンスがあるということでもある。


 ともあれ、蛙の子は蛙、狂信者の子は狂信者になる運命だった。


 シグルーンが、始祖神教の幹部陣による会合に呼ばれたのは一年前、学院入学直前のことだった。母親であるドールグ・ファレンハイトに後押しされて、荘厳とした会場へと赴いた。わけあって彼女に父親はいない。


 彼女は天にも昇るような心地だった。日々の信仰が実を結んだのだから。将来の先行きが一気に明るくなっていく。出世街道に乗ったのだ、と信じていた。


 が。彼女に下された指令は、――ロキ・ディケイオの監視。

 わざわざ、無能の監視をしろ、と命令されたのだ。


 唖然としたことは言うまでもない。その理由は、ただ無能を見張っていろ、と言われたからではなかった。


 ――監視対象が、彼女にとって、唯一の幼馴染だったからだ。


 魔術の一つも使えない彼を監視すること自体がそもそもおかしな話だった。彼の魔力野は遠い昔に破壊されていて、魔術の一つも使えないとされていた。そんな彼を魔術師としての才覚があるシグルーンに監視を任せるのがそもそもおかしい。もっと、別の下請け魔術師の方が適任だと確信していた。別に、彼女じゃなくてもできるけど、別に彼女にやらせてもいい、そんな、任務。


 しかし、彼女は一つ勘違いを正された。

 始祖神教の幹部たる、五賢司祭の第一席曰く、ロキ・ディケイオは決して無能ではない。

 彼はとある力の核を持っているらしい。


 ――まさか、魔王の力の核とは当時、考えてもみなかったけど、少なくとも始祖神教の幹部からの指令ならば、教徒として遵守は必至。さもなくば、家名の地位もそこに堕ちる。母親への顔向けもできなくなるだろう。何より、縋る神に見放されれば、人生も終わったようなものだ。墜落の道を歩む未来は拭わねばならなかった。


 逡巡はない。シグルーンはその命令を遵守するために、ひたすらロキを監視した。


 彼の貸家で半同棲しているのもそのためである。いつ何時も彼の隣にいなければならない。それを自然に行える形は、一緒に住むほかなかった。けれど、完全なる同棲ではボロが出てしまいかねないし、何より彼がひとりの時間を邪魔されたら不機嫌になるのは、幼馴染として重々理解していた。彼女にとってのロキ・ディケイオは監視対象である以前に幼馴染で、何より、男性としての好意の対象でもあった。監視さえなければ、――余計な力さえ持っていなければ告白の一つくらいしていただろう。


 シグルーン・ファレンハイトの初恋は、ずっと続いていて――好意は日に日に大きくなるばかりだった。感情は彼女にとって重荷でしかなかった。


 座学はからきしだったシグルーンはいつだったか、単純接触効果という言葉をロキから聞き出したことがあった。彼女の恋はまさしくそれのせいである。半同棲とは、ほぼ毎日彼と生活を共にすることであり、そもそも存在していた恋の病を手遅れにするには充分すぎた。


 できるなら、シグルーン自身も、ずっとこの生活が続いてほしいと願っていた。


 たとえば。ロキ・ディケイオがこのまま無力であり続けるお話とか。

 たとえば。無力な彼を匿って家事をするシグルーン・ファレンハイトのお話とか。

 たとえば。流れで家族になって、一生彼に安寧の日々を過ごしてもらうお話とか。


 見悶えするような妄想を抱いて、そうする度に傷ついた。



 ――そんな、傷だらけの想像も今日で終わりだ。



 感情を映さない瞳で、シグルーン・ファレンハイトは、ロキ・ディケイオを貫いた。始祖神教第四席が動いた。それを合図として、機会をうかがって殺せ、という指令が下されている。


 ――どうせ敵わない恋なんだから、好きな人の命くらい、ボクが奪ってもいいだろう?

 ああ。何もかも、終わりだ。彼女の口元に亀裂が入った。三日月状の悲しげな綻び――。


 ※※※



 ――シグルーン・ファレンハイトは、口から血を吐いてその場で倒れた。


 何が起きたのか、彼女には理解できなかった。見えなかった、の方が確かか。何かが、一瞬のうちに彼女の腹を刺し穿ち、間合いから引き離れた。ただ、それだけ。


 そ、れだけ? じゃあ、誰が?


「URRRRRRR」


 頭上で獣の唸る声みたいなものが聞こえる。やせ細った人の影が月明りを遮った。肥えの主の名を、彼女は知っている。知っているでは済まないくらいに熟知している。だって、……だって。


「ロ、キ君? どうし、て」


 思考の混濁を整理しようとしたら頭蓋に衝撃が奔る。ハッ、と我に返り手足でもがいてみせるも、数ミリメーテルも動くことは叶わない。靴の底が彼女の頭を踏みつけていた。本革のロングブーツの底が、だ。薄い緑色の短髪が煉瓦になすりつけられ、埃を帯びて淀んでいく。皮膚が引きちぎれそうな痛みに苛まれる。擦り傷から僅かに赤茶けた血が滲んで、煉瓦の上を破瓜の夜のシーツのように汚していく。


 誰の足か、なんて目に見えている。けれど、信じたくなかったから、確かめなければ納得できなかったから、目線を頭上へと向けた。

 事実はあまりにも不可思議で、容赦なく残酷だ。死よりも強烈に、精神へと死臭をもたらす。


 ――シグルーン・ファレンハイトは、人の形をした化け物を目撃した。赤黒く燃え盛る双眸が獲物を捕らえた魔獣よろしく、彼女を捉え、細められる。眉を顰める顔に浮かんでいるのは、涙。


「URRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUU!!」


 空を見上げて、――怪物になったロキ・ディケイオが響かせたのは慟哭だ。右肩に浮かぶ赤黒い刻印を起点として、濃密な魔力が放出される。体内のオドを放出しているのだろうか。それにしては、量が多すぎるし、勢いがまるで瀑布だ。あまりにも濃すぎて、人間の摂取できる許容量をすぐに超えてしまうだろう。さもなれば、呼吸をしただけで体内の器官は裂傷する。魔術を解き放ち、消費し続けなればじきに、呼吸すらも不可能になる。魔力とはそういうものだ。奇跡であると同時に、対価も支払わねばならない。当然の等価交換であろう。


 ひとまず、逃げ出さなければ次は八方塞がりだ。――無学なシグルーンでもそれくらいは理解できた。このまま動けなければ逃げられなくなる確信が彼女にはあった。先手を取らなければ、今度こそ。冷や汗が身体中の皮膚を潤して何もかもが最悪な気分だ。胃の中が搔き乱されて気持ちが悪い。圧倒的な恐怖の前にもはや、彼女の思考は『逃走』のみを考えていた。


 ゆえに、ロキが足を上げた瞬間、始祖神に救われたような心地にだった。敬虔な教徒ゆえの偶然の美化。救われた、という安心感。ただ、彼女のそれは、ただのぬか喜びに過ぎないが。


 本能的にシグルーンの身体は飛びのこうとした。けれど、もはや本能ではない。一瞬でも安心する時間ができてしまった。ほぼほぼ本能的な退却であろうと、僅かでも他者に救いを求めてしまった時点で彼女の敗北は確定していた。


 まあ、そもそもの話。


「動かな」


 ――逃げ道を与えられたところで、逃げ足が使い物にならなかったら逃げられないのは当然で。


 シグルーンの声は、続かなかった。次の瞬間、彼女の顔面が真正面から蹴上げられる。鼻っ柱は当たり前のようにへし折れ、うら若き美しき少女であろうと手加減なしの猛威が放たれた。無防備な少女の身体が、硬く冷たい夜の大地に二転三転して、煉瓦に伏せる。立ち上がろうという挙動すらも起こさずに、動かなくなった。


 空転から、意識の消滅までは一秒にも満たない一刹那だ。けれど、彼女にとってその数刻こそが、永劫の地獄のように感じられて、たったそれだけで少女と少年を結んでいた糸は、ぷっつりと切れてしまった。怪物と、ただの少女。互いの名がした涙が、落ちて、肌を滑って、地上で交わる。すれ違いの起こった二つの心は、もう、決して交わらない。


 絆が、解れる直前に彼女の瞳が見据えたのは。


 ――網膜に焼き付けたものは。

 獰猛な怪物と化した、大好きだった幼馴染の姿だった。


 ※ ※ ※


 ――OORRRRRRRRRRRRRUUUUUU!!


 誰もいない聖樹帝国の闇に、人の声をした人の声であってはならない雄叫びが聞こえた。いうならば、それは悪魔の狂喜のように、アンセル・セロージュの耳には届いていた。


 学院一位の実力と見識をもってしても彼女には、後輩に起こった変貌の理由が全く分からなかった。


 純正の薬を呑み込んだおかげか、彼女の手足には再び力が入るようになっていた。


「逃げ、ないと……」


 学院最強の足はこの期に及んで、竦んでいた。口走った言葉に自らハッ、と驚いている。


 最強の座をほしいままにしている人間の吐き出す台詞にしては拍子抜けしている。術儀式帝国学院で断トツトップの成績を誇る少女ですら、眼前の後輩、ロキ・ディケイオの暴走は止められそうになかった。その理由はいくつもある。いくつもあるけど、言語化できる恐怖なんて一握りだ。暴走しているロキの放つ目線は、弱肉強食の世界で生き抜いてきた野生生物すらも恐れおののかせる。目線とオーラの暴力。加えて、莫大な魔力の噴出。


「オド、じゃない……? あの量は、まるで」


 聖樹と同じようなものじゃないか。自分から魔力を生成し、許容量を超えたものを世界のあらゆる位相にまき散らすような。無際限の魔力を放つ、魔力源を己の身体に宿しているみたいな。


「人間じゃない、もう、彼は……人間じゃない。常時魔力を生成している、ということは摂取限界なんて軽々と超えているはず。それで肉体を保っている、ということは……」


 少なくとも、怪物化したロキ・ディケイオは吐血を起こしていないし、魔力の過剰摂取で起こりうる症状が見られていない。彼の皮膚は爛れることこそなかったものの、徐々に浅黒くなっていた。


「魔王様の、身体が魔力に侵食されて、魔族化が、進んでる……!? いや、そんな、まさか……!」


 ローザは困惑しつつも、一つの結論に至ろうとしていた。


「……ねえ、魔王妃さん。魔族化っていうのは何?」


「例えば、人間のような、魔族以外の種族が何らかの変異で体内組成が魔力だけになる、という現象のことです。でもあくまで伝承であって、本当に発生するものだったなんて」


 ロキは確かに胸を貫かれた。心臓を真っ直ぐに、鋼鉄で刺し穿たれた、はずだった。

 はずだったのに、倒れない。死なないどころか、暴走している。


 右肩の痣だったものが薄暗い赤光を解き放つ。シグルーン・ファレンハイトを真正面から徒手空拳だけで粉砕した彼の目が次に映したのは、アンセルだった。


「OORRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRUUUUUUU!!」


「――ッ!」


 敵も味方も区別すらできないのだろう。ロキ・ディケイオだった怪物は、未だに弱っているアンセルに背中を向けて跳梁。時間を繋ぎ合わせるようにして、時空を凌駕。瞬きの暇すら与えず、彼女の間合いに潜り込み、くるり、と身体を捻り、旋風と化す。遠心力で振り回された手刀がアンセルの顔面に向けて容赦なく降り注ぐ。


 ブォンッッッッ! 風が唸る。咄嗟に防御の魔術を両腕で構築。顔の手前で交差させて、鉄砲玉のような一撃を受け止める。衝撃波が二人の空隙を縫い留めて、――爆轟が発生。


 煙火が空間一帯を焼き尽くす。

 衝撃を和らげるためにアンセルは後方へと爪先でステップしてから受け身を取った。

 靴の裏が煉瓦で摩擦して焦げ臭い臭いが鼻の頭を掠めていった。


「URRRRRRR」


「あ、アンセルさん! 貴方はちょっと離れていてください! いくらなんでも今のままじゃくたばってしまいますからっ!」


「でも、わたくしが戦わないと、貴方しか頼れないでしょう……?」


 どうして、自分の名前を知っているのか。と聞かないくらいには、アンセルは聡明だった。

 学院第一位の矜持があった。

 ただ、それだけではなく、自身の後輩を傷つけられたことによる憤りの感情も芽生えていた。


「ロキくんの、お客さん、ということにしておいてあげましょう。――どうやら、人間ではなさそうですが、ロキくんが選んだなら、わたくしが何か口を挟む権利はありません」


 ローザには、心なしか、アンセルの表情に陰りがあるように見えた。理由など知らないけど。


「――だけど、わたくしにだって意地はありますし。それに、この現状ならまだまだ戦える余地はあります。奇しくも、怪物化したロキくんのおかげで、ね」


 毒が抜けきっていない現状。確かに、このまま戦っていれば通常ならば、ぶっ倒れる。

 けれど、この状況はある意味僥倖だった。何故なら、魔力が空間を満たしているから。


「【癒癒・命力】【癒癒・命力】【癒癒・命力】【癒癒・命力】【癒癒・命力】【癒癒・命力】【癒癒・命力】【癒癒・命力】【癒癒・命力】【癒癒・命力】――」


 初歩的な回復魔術の重ね掛けで摂取量をオーバーした魔力を消費し、その分体力を回復させていく。初歩的なものを使うのは、彼女が回復魔術に長けていないからだ。というか、回復魔術自体、適性がある人間自体が少ない。学院内を探しても、上等な回復魔術師は一人か二人くらいしか存在しないだろう。そもそも初歩的な【癒癒・命力】だけが使える人間を含めても、回復魔術が使える人間は片手で数えられるほどに収まってしまう。それくらいに希少価値はあった。


 回復魔術師の才覚がなくとも発動が可能なのは、アンセル・セロージュの万能性ゆえだった。


「……大丈夫ですか? あまり無理なさらぬよう」


「紫髪の魔王妃さん? わたくしをあんまり舐めないでくれません?」


「――紫髪、じゃなくてローザ・ベルフェロンドです。貴方は?」


「アンセル・セロージュよ。そちらは、もう準備できていまして?」


「言われなくとも」


 最後の応酬が交わされ、ロキ・ディケイオが動き出した。


 たった一歩、前に歩んだだけ。でもその挙動はすぐに空気の中へとかき消される。神速の及ぶ先は、魔王妃、ローザ・ベルフェロンド。強化の一つもなければ、動体視力が追い付いていない。防御の魔術を唱えているものの、術が発動するより前にロキは到達するだろう――アンセルは予測した。予測したうえで、策を講じるまで秒も要らない。話は簡単だった。


「わたくしからロキ・ディケイオに宣言しましょう――【刻一亀】【刻一亀】【刻一亀】【刻一亀】【刻一亀】【刻一亀】【刻一亀】【刻一亀】【刻一亀】【刻一亀】【刻一亀】――!!」


 光魔術の初歩。効果――宣言された対象の半径五メーテル内における時間の進み方を通常の半分にする。ただし、半減させただけでも十分な速さだ。ならば、半分の半分は? 半分の半分の半分は? より遅くなっていく。ロキを始点にした半径五メーテル内の時空の進みがほぼ無に。


「使っている術が初歩の初歩だからあまり拘束できないけど、……攻撃を与える隙はできましたわよ」


「一気に、移動が遅くなりましたわね! わたくしでも目で追えますわ!」


 無論、光魔術のアンセル・セロージュの専門外だ。だが、同じ術も重ね掛けをすれば、より高威力になっていく。魔術の解釈が人それぞれだからこそ為せる、アンセル・セロージュ固有の戦い方。専門を『考えない』ことで、極端なバランサーになってしまった万能≒器用貧乏の戦術。


 ロキの向かう方向から離れたローザは、すぐさま両手を胸の前に伸ばし、重ねる。魔方陣の展開、色は濃い紫。闇魔術。魔族に適正傾向があるとされる属性。同じく、闇魔術の使い手であるロキ・ディケイオには不得手だった。闇魔術に闇魔術で対抗しても与えられるダメージは半減だ。魔術理学の分野の話だ。『闇と光の関係』―-それらは互いに互いを弱点とみなし、同族には逆に強い抗生を持っている。


 通常の闇魔術だと、ロキに致命傷は与えられない。ならば、どうすればいい? 既にローザの脳内ではイメージが確立されていた。


 飛びのいたローザはすぐさま空間魔術を展開。

 災禍の被害を秘匿しなければ、彼女は始祖神教に捕まってしまうからだ。

 それだけじゃない。ロキが周辺に甚大な破壊をもたらしたとしたら――、


 ヅヅッ――、と脳内にノイズまみれの記憶がよぎる。あまり深く考えてしまったらドツボに嵌るから、さらっと流す。大事なことは、彼女自身が、ロキと出会う直前まで始祖神教に囚われていた、ということだ。暗い、暗い牢獄の奥で手足を縛られて、意識と無意識の空隙を何度も行き来させられた。日々無為に消耗していく魔力のせいで所有する魔力量が減り、身体が縮んでしまった。


 どうして、囚われの身になったのか――理由は分かっていた。彼女が、一〇〇年前に人間軍によって敗北させられた魔族の王妃だったからだ。魔王の首が掻っ切られて、魔力の粒になって空気に溶けた記憶がよぎる。


 ――わたくしは、一度人間軍の追っ手を振り切って、魔王様の、崩れかけた肉体を食べた。もう一人の魔王妃――アリア・シェプステッドとともに。


 飢えていたから、とか、魔王様の身体を人間に奪われたくなかったから、とかそんな単純な理由での捕食行為ではない。理由は明確にある。


 魔族の身体は、その魔族固有の、すなわち身体を構成する魔力が完全に集まったとき、魔力の粒を縫い留めることで蘇生することができる。


 ローザたち、残された魔王妃は二人で魔王の身体を捕食することでリスクの分散を図った。どちらかが倒れても、もう片方が魔王様の断片を集めて、蘇生させればいい。魔族の王が再び、魔界大陸に降り立てば、少数であれ、魔族は再決起するはず――、というのが魔王妃二人の下した決断だった。では、魔王の首はどこにあったのか? どこに埋まっていたのか。


 言わずもがなの結論だった。ロキ・ディケイオの痣こそが魔王の首の部分だったのだ。魔王の魔力の臭いを探って一〇〇年近くになってからの快挙、もはやローザにとって奇跡に近い事象。


 無理をしてでも、魔王様を復活させねばならない、という復活への執念で彼女はロキ・ディケイオとの邂逅を果たした。もう少しで、完全なる魔王の復活を望めるところまできた。


「せっかく、魔王様を見つけた、のに――、ここで終わるわけにはいかない」


 諦められるわけがない。もはや、眼前の少年以上に適切な人間は存在しないのだから。

 魔王の首ながら、何故、人間であるロキ・ディケイオに寄生されていたのか。

 そこまでローザにも分からない。ロキに力が宿ったことは奇跡をも信じさせるほどの幸いだった。


 ただの魔術が使える人間に宿ったとしたら、魔王の力を産み付けられた時点で壊死しているだろうから。


 魔術師の性質みたいなものだ。体内にある固有のオドを、対象に注入することで、対象の体内にあるオドの量の保有限界を超過させてしまう。そうともなれば、魔力はたちまち毒となり、内臓を傷つけて回る。


 奇跡が巡ってきたのだ。野望の一歩手前、諦める選択肢はローザの中に存在しない。


「食らいなさい、ロキ・ディケイオ。目覚めて、魔王様――【狼牢淵】」


 解き放ったのは認識阻害の闇魔術。

 ロキの顔面に漆黒の面が覆いかぶさる。面の内側には虚無の幻覚が広がっているだろう。


「わたくしの魔術が切れるまであと五秒ッ!」「【連鎖縛嬢】」二重三重の鎖による捕縛。ロキの身体は完全に拘束され、ローザの手中だ。「四、」「【処女血棺】」捕縛の次は封印。針の筵と化した棺がロキの身体を包み込む。鉄の針の先に肉を断つ手ごたえがあった。が、すぐに泡を吹き出して癒着していく。ローザは歯噛みした。あと、三秒。「【冥冥帰巣】【冥冥帰巣】、【冥冥帰巣】――ッ」魔方陣が巨大な棺に向けて、一直線を形成。強化魔術の類だ。陣を潜り抜けることで体内魔力が活性化、全能力が上方修正される。残り二秒、【冥冥帰巣】の復唱が連なり、ロキの眠る棺へと魔方陣のティラミスが形成されていく。残り、一秒。彼女の足は煉瓦を蹴って、【冥冥帰巣】の魔方陣を一つ、くぐった。一つ潜った時点で、次の二つ、三つの魔方陣を跨いでいる。ローザの内側から何もかもが張り裂けそうになるくらいに力が膨張する。彼女は決して闇魔術で攻撃するわけじゃない。単なる脳筋の頭で武骨に拳を溜めて――、


「ゼロッ!」「放てッ! ――【轟・轟砲】」


 ロキが時空の束縛から解き放たれ、すぐにローザへと向き直った。そこには、術式を叫びながら、血眼になって拳を振りぬいた、ローザ・ベルフェロンドの姿が見えて、弾ける。【轟・轟砲】――これもれっきとした闇魔術だ。魔術は魔術でも、ローザしか使うことができない、彼女だけの固有魔術。その効果は超・単純。拳を振りぬいた先の直線上に一〇〇キロメーテルにも及ぶ強大な衝撃波を解き放つ、というものだ。長さの単位にピン来ないかもしれないが、具体的な数値で示すと円形の地形を持った聖樹帝国の、円周半分に相当する。加減をしなければ、衝撃の及ぶ範囲の位が一つ増えないこともない。


 一発、ロキの腹へ。一撃を皮切りに次弾、次弾、次弾、次弾次弾次弾次弾次弾次弾次弾次弾次弾次弾次弾次弾次弾次弾次弾次弾次弾次弾弾弾弾弾弾弾弾弾弾弾弾――ッ! 両腕から放たれる拳の速度は殴るたびに加速していく。猛撃に狂いはなく、集中的に、精密にロキの腹を狙う。


 舞い上がる、魔力交じりの鮮血が、ローザの肌を掠めた。ラスト一発、


「正気に戻って、ロキ! ――【轟・轟砲】ッッ!」


 鳩尾へのアッパーカット。音速を超えた打突が衝撃波を直接ロキに叩き込む。


「URRRRRRRRRRRRRRRRAAAAAAAAAAAAAA――ッ!!」


 怪物の断末魔が冴えわたった。ローザの頬が微かに緩み、――次の瞬間、


「――避けて、ローザさん!」

「――えっ?」


 アンセル・セロージュが声をあげる。

 天蓋にひびが入った。ローザの【轟・轟砲】は完全に無効化したはずだ。

 ならば、その傷跡は誰によるものか。


「A、AA、」


 魔力の波が一気に、ある一方向へと押し寄せる。ローザの、魔力で構成された皮膚が徐々にそがれていく。


 マズい、圧倒的に、何かがマズい。

 魔力の量がローザの至近距離で臨界点に達した。

 空間すらを焼き切って、そこには視認できる極大な魔力のエネルギー弾が浮遊していて、


「…………ぁ、」


 アンセルが、ローザが、悲鳴を上げるまでもなく。

 魔力の渦が熱を帯びた鉄塊の如く、前後左右ありとあらゆる方向へと解き放たれる。


「――【帝檄一閃】」


 酷く冷めて掠れた声がローザの耳元に到達するよりも前に、容赦のない破壊が世界を包み込んだ。

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