1-11『濃霧の先にあったものは』

 呼気が白を白で塗りたくってまっさらに、ただ凍えていた。

 塵は、水蒸気は何もかも夜の街灯に照らされて、飛散する金銀財宝の如く煌びやかに世界を映す。


 ――グスタフ・ロムニエルの胸には斜めに太刀筋が刻まれていた。


 剣は一切見当たらない。鋼鉄なんてそう簡単に急造できるものじゃないし、そもそも物質としてこの空間に最初から真剣があったとしても、余程の熟達者じゃない限り、それを使いこなすことはできない。何故ならそこには質量という問題が横たわっているからだ。


 ならば、質量を隠しておけばいい

 アンセル・セロージュの剣は――、そこら一帯を満たす空気全体だ。


「【凍土創造生命鎮魂戟】――氷属性の、空間魔術。かつ、攻撃用魔術」


 凍土空間を創り出したうえで、空間内の水蒸気をハックする――それがこの魔術の効果。アンセルの味方は、発生し、延々と拡大を続ける空間に存在するありとあらゆる『水』だ。


 もちろん、凍土を構成する永久に溶けない氷でさえ、彼女の手で自由に操れる。


「グスタフさん、でしたっけ?」


 追うように、グスタフの胸にもう一本の太刀筋が生える。一瞬だけ鮮血が飛び散ったものの、すぐに冷気が集結し傷跡を凍結させていた。


「貴方、嘘ついてますよね?」


「――ハッ、何を」


 グスタフのメリケンサックがボロボロに崩れる。【凍土創造生命鎮魂戟】は、半径一〇メーテル範囲内において、『水』という『水』はなんであれアンセルの所有物と化す。


「いくら硬質なものでも、極限まで凍らせてしまえば脆くなってしまうもの。――たとえば、術の効力内にいる人間の血液だって」


 グスタフの四肢がひび割れた。


「嘘は……言ってねェ」


「詭弁ですよ、それは。貴方が狙っているのはそこにいる魔王妃さん、だけじゃないんでしょう?」


 普段の陽気な会長からは想像できない殺気がにじみ出ている。白衣姿の男は「ハッ」と鼻で笑うと、凍てつき始めたその口を開けた。


「オレが狙っているのは……ロキ・ディケイオ。魔王妃から力を受け取った、魔王の器だ」


「僕を……?」


 途端に背筋が粟立つ。


「魔族は始祖神教的に排斥しなきゃならねェ――ましてや、魔族の王が現れてしまったンならどうすりゃイイのか、分かるよなァ?」


 ニタリ。狂気的な愉悦が顔面に貼り付けられ、続く言葉はもう、なかった。

 代わりに、水が弾けた。凍結していたグスタフの身体から湯気があがっている。


「まさか、体温を急上昇させてわたくしの術を回避、したんですの……!?」


 しかし一瞬だ。体内の細胞が死滅しないギリギリの秒数を刻んで、瞬間的に高熱を発生させたのだ。


 魔力の動きが一点、僕の首を横凪する軌道で殺到。

 すぐさま背中を逸らして回避。直上、虚空を真っ直ぐな風切り音だけが素通りする。

 膝を曲げてすぐさま地面を蹴る。膝を曲げて、すぐさまに地面を蹴る。

 後方に宙返り。反転した視界はすぐそばにグスタフの踏み込んだ足を捉えていた。

 踏み出す。拳だ。剣は既に粉砕されている。

 呪術か、魔術か。解は明快。

 宙返り越しに右腕を前に伸ばす。

 瞬間を切り取って細分化。一秒をぶつ切りに。コマ送りの映像。

 グスタフの真っすぐな腕めがけて、


「仕返しだ、――【毒蜂楔】」


 手元に闇色の楔が発生。それらを手元で打ち付ける。

 ――横から三発。楔は手中から失われ、代わりに離れたグスタフの脇腹を静かに穿っていた。


「づぁ! 闇魔術か、姑息な手をォッ! ――でも、」


 喜悦でグスタフの顔貌が歪む。


「目に見える世界だってじっと凝らしてみてみろよォ、見落としていないかァ?」


「……っ!?!?」 


 すぐさま、楔が否定された。刺さったはずの術式が内側から音を立てて崩れ去る。

 それを見送るより前に風の殺到を観測。

 危険の感知が遅れ、逆さになった無防備の顎に拳が撃ち込まれる。

 失神しそうになったが、ギリギリで持ちこたえて受け身を取った。


「ロキくんッ、後ろに下がりなさいっ! 魔王妃さん、ロキくんの手当てを――!」


「駄目です、会長!」大地を蹴って、疾駆。魔力由来ではない臭いを嗅覚で掠め取った。重心を低めつつ。「会長とローザ、そしてシグ! できるだけ、グスタフと距離を置いて!」


 駆け抜けながら、両手を前に伸ばす。手中から魔力塊を射出。

 魔術として組成しないことで、音速を超える。


「グスタフ、お前の好きにはさせない!」


 魔力塊はグスタフに直撃するが、彼の身体から発される熱によって弾かれる。


「つべこべうるせェ。まだ半覚醒のオマエになら、オレは勝てるンだよ」


 衝突。徒手空拳が重なる、肉が肉を弾く。獣の双眸がにらみ合う。

 ゼロ距離の眼前へと魔方陣を紡ぐ。総数、三。――射出。

 爆轟とともに、僕の身体は背後へと飛ばされた。……手ごたえは何もない。

 爆心地の周縁が会長の空間魔術により即座に凍結させられる。煙すらも残さず、氷の中に埋めてしまった。

 戦線から離脱した僕と入れ違うように、アンセルが凍った爆心地へと向かっていく。


「どうして……グスタフの気配すらも、失われて」


「危ない、会長! できるだけ離れてくださ――」


 直後。爆心地を何重にも覆っていた、会長の空間魔術が爆発した。忠告は間に合わない。肺へと一気に新鮮な空気を取り込んで、会長の下へと駆け抜ける。


「会長っ!」


「ロキくん……、身体から、力が抜けて……!」


 硝子が弾けるような音が鼓膜を打つ。永久凍土の幻想は、融けている最中だった。

 代わりに、世界へと雪崩れ込んできたのは霧だ。


「この霧は、【永久凍土生命鎮魂戟】が破られたときに相手の戦意を撹拌させるための緊急手段です。あまり長くは保ちませんが」


「会長の魔力だけで覆われた空間からだったら、異分子をつまみ出すことができる」


「そういうこと、です」


 冷えた魔力が視界を白で埋め尽くす。その中で異物が放つ臭気に思わず口を塞いでしまう。


「なん、なの。この、臭い……、爆発の瞬間から臭っていたんだけれ、ど」


 燻った藍色の紫煙じみた臭い。魔力の濃ゆい色が肌に触れそうな位置にまで迫っていた。

 僕は、それをはっきりと掴んで――、もの悲しさと、苦しみが体内に流れ込むのを感じた。なんだか、目の奥が熱くなって。僕は。何故か、ヴェルキア・ディケイオを思い出していた。どうしてヴェルを? 無意識だ。


 カッと胸が熱くなる。激情が体内から湧き出る魔力を煮沸する。

 ああ、魔力とは、魔術とは、難儀だ。

 僕はその、悲しみに満ちたの尾を掴んだ。

 掴んだ掌からにじみ出るのは悪意でコーティングされ、ズレてしまった悲哀。


 おどろおどろしいくらいの、愛、愛愛、愛愛愛愛愛、愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛、愛、愛愛、愛愛愛愛、愛、愛愛愛愛愛愛、愛愛愛愛愛愛愛、愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛愛――。ゾクゾクする。気持ちが悪いのに、それを受け止めてしまいそうな。共感してしまいそうな自分がいる。


「――ぁ!」


 思わず、掴んだ尾を離す。人一人の感情なのに、いや、だからこそ、かもしれない。この魔力は紛れもなく、グスタフ・ロムニエルのものだ。でも、あの狂犬じみた男の内心が、こんなにもただ純粋な血液が巡っているとは。重すぎる。何だ? 魔術ではない。感情の奔流。


 敵を逃してしまった。魔力さえ、見ることができなければ、あの不気味で純粋な愛が憑依することなどなかったかもしれない。皮膚には鳥肌が立っている。尾を掴んだ右手から、恐れがびりびりと伝わってくる。でも、心のどこかがそれを欲している。


「精神汚染の類ですね。魔術系統は不明ですが……」


「会長が分析できないって相当ですよ。もしくは固有魔術――術者オリジナルの術式か」


「きっと、その線は薄い、で、しょう……!?」


 会長の膝が力なく崩れる。グスタフが去っても消えないこの異臭は、きっと魔力由来ではない。


「ロキくん……、身体が、痺れて、うまく動かないの、呼吸もちょっと、難し」


「会長。そのままじっとしていてください。毒が回りますので」


 すぐさま闇魔術【鴉羽搏】の発動。竜巻を巻き起こして異臭を放つ空気を同心円状に散らす。

 そして制服のポケットから、畳んだ薬袋を取り出した。

 中から、豆粒のようなものが転がって、僕の掌へと収まる。


「会長、これを」


「……こ、れは?」


「丸薬です。解毒の効能があります。通常はこの丸薬じゃ、効果ありませんから」


「ああ……ありがとう、ロキくん」


 僕の渡した丸薬を呑み込んだアンセルの手足からは徐々に震えがなくなり、急激に快方へと戻っていった。

 彼女はゆっくりと立ち上がると、目を閉じた。

 魔力の流れを追っているのだろう。そして、何らかの尻尾を掴んだのか、眉がぴく、と動いた。


「上、ね」


 彼女が指さした先には、天蓋を覆う大樹が屹立していた。


「上って……聖樹の、ですか?」


「ええ。始祖神教の、本拠地。一般人は立ち寄れない、聖域」


「逃げたっていう、ことですか?」


「ええ。今日のところはひとまず、撤収と致しましょう」


 はい、そういうことで――と了承しかけて、異変に気付く。空気はいまだにひりついていた。


「会長。何か、おかしくないですか?」


 天蓋を見上げて構える。魔方陣を手元に展開。――まだ、うっすらと魔力の膜が見える。


「空間魔術……? 周辺から魔力の反応はなくなっていたはずなのに! グスタフは消えたはずじゃ」


 声帯が声を生み出さなくなった。背後から、悪寒が奔る。

 緑色の魔力が僕めがけて殺気を集中させている。

 振り向く。鬼神の目に無感動が宿っていた。


 ――肉を引き裂く音が耳朶に響いた。訳が、分からなかった。


「え、あ――?」


「ま、魔王様ッ!?」


 ローザは僕から離れたところ――先程までシグが剣を構えていた位置で表情を壊した。彼女の焦った声が近づいてくるものの、比例するように意識が遠ざかっていく。

 腹を冷たい何かが刺し貫いていた。細剣だ。


 ――緑髪が夜風に吹かれて、舞い上がる。


「ありがとう、アンセル先輩。ロキ君の注意を逸らしてくれて」


 会長の顔に初めて、余裕がなくなった。普段隙を見せない彼女が完全に予想外の位置から打撃を受けたのだ。


「な、なんでですか!? シグルーンさん!? 貴方はロキくんの!」


「ロキ君の、何なんですか? 幼馴染? 確かに幼馴染ですね。でも――、ボクはロキ君の幼馴染であるより前に、始祖神教の敬虔な信者なんですよ。――五賢司祭の方々からの命令に背くことは許されない」


 僕もまた。想定外の角度からの攻撃に、絶句していた。

 今まで一度も見たことがない、幼馴染の冷酷無比な無表情を目撃して。


「……………………………………………………………シ、グ、?」


「ばいばい、ロキ君。ボクをあまり、恨まないでくれよ」


 鋼鉄が引き抜かれる。傷口からは容赦なく血が吹き荒れ、地面の一帯に血だまりを広げていく。身体がよろける。街の景色から空の比重が大きくなっていく。

 幾星霜にも連なった星が、夜を裂く月が。遠ざかっていく。

 なのに、夜の冷たさは増していく。

 徐々に時間の中、滞っていく時間、網膜に焼き付いた映像が流れていく。

 走馬灯だ。死が近づいている。

 意識が急激に遠のいていく。何もかも、世界から裏切られた気がして。


 ――お前は、一人だ。


 どこかから、声が響いた。突き飛ばすようで、しかし、蠱惑的な声だった。

 僕は、ずっと一人だったのだ。妹を殺されて、独り故郷から旅立ち、幼馴染には裏切られて。

 笑った。喉が渇いていた。脳に直接、荘厳な低い声が届く。轟く。


 ――――絶対なる王は、孤独だ。


 身体の内側から、とめどなく汗が溢れていく。地面が近づいている。何故か、魔王の力を手に入れてしまった。けど、このざまだ。ロキ・ディケイオを選定してしまった時点で悪手だったんだよ。


 舌打ちしたかったけど、もはやその力すらもない。半目開きの瞳に降り注ぐ、ローザの涙が酷く胸を傷つけた。助けて、やるはずだったのに。何も、できない。


 ――――――お前は、王になる資格を持っている。何もかもを、裏切れ。裏切られたモノ、全てを、裏切れ。失ったもの、全てを乗り越えよ、糧にしろ。


「お前は、誰だよ」


 分かったような口を利きやがって。何様のつもりだ?

 逆上以外の何物でもなかった。返ってきたのは静謐のみ。視界が熱く歪んでいく。

 だが。すぐに正常な思考が異常をきたした。思考が、白濁する。


 白、白白、白白白――――!


 気持ちが悪いのに、曇っていけばいくほど気持ちよくなっていく。破壊衝動が、脳を冒していく。

 戦えと。戦意の赴くままに踏み躙れと。悪魔の声が囁いた。どんな媚薬よりも甘い、憎しみの消費という麻薬が思考を解かして、本能をむき出しにしていく。


『斃せ』


 たった一言の命令が、次の瞬間、全神経を奮い立たせた。

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