1-10『拳と呪い』
地鳴りが足元から直に身体を震わせる。魔力に満ちた空気は魔術師であれば干渉可能で、いくらだって風向きは変えられる。上へ、下へ、或いは横薙ぎに。風が吹くたびに、地表を覆う砂や土や埃が舞って視界をくらませる。魔力を焔に変換して夜を灯す街灯の明かりは幻想的な夜光虫を思わせ、或いは僕らは惑わせた。
――僕ら、というか、主に僕を、だけど。
「さっさとくたばれよォ、三流魔術師ィ!」
「――!?」
殺気の刃が衣服の布を貫通して肉体を舐める。ぞわり、と嫌な寒気に襲われる。魔術ではない、ただの魔力が冷気を帯びて触角を刺激しているのだ。実態は持たない。
ゆえに前へ飛び込んだところで、害はない、はずだ。
はずなのに、一歩前に踏み出す代わりに、半歩後ずさりしている。
術を一切使わずに、僕をただ圧倒してくる。強い。強い以外の余計な修飾は過多だ。
白煙。喉が粘つく。視界がざらつく。実世界のみを映す両目は頼りにならない。唯一の命綱は、魔力を読み取る力。魔力の匂いを探り、その発信源を突き止める力。魔術を使えるものならば、誰しもが持っている天性。かつての僕が失った天然の能力。今この瞬間の僕が得た仮初めの能力。――扱うには、慣れが必要だった。空白を埋めるための鍛錬が別に必要だった。
未来に投影されているのは血か、死か、残酷か、はたまた勝利か、敗北か。
埃に満ちた空気を吐いた。喉の奥がざらついて不快感が募る。
無駄な激情に割く思考を極小にすべく、今はただ喉を洗い流したかった。
ぴん、と皮膚が張り付く。強張った背筋がビクビクと反射の反応を見せる。
「そこか!」
内股、中腰。両の足で踏ん張って、腰を一八〇度回転。関節が唸るように鳴った。ぎゅんっ、と切っ先が風と塵を裂いて鋭い音を立て。視界の端にグスタフ・ロムニエルの顔貌が、かすかに浮かぶ。残像かもしれない。
だが、絶望的推測を完全に断てるほど、僕に勝機が残されていない。
可能性の虱潰し。一本の剣でできることは限りなく少ない。
ゆえに一本の軌跡へと全てを込めねばならない。
無銘の剣が一本の横線を虚空に引く。その虚空には朱色が映えた。液体。学院指定制服へと返る。
鉄の臭いが鼻腔を腐らせた。人肉だ、人の筋繊維だ、哺乳類のありきたりな赤黒い血だ、あるいは鮮血だ。肉と肉の先には極太な骨が顕在。鋼鉄は確かに、その白骨に、狙いを、定めて。
肉が、鋼の先端に当たった。ほんのわずかだけど、確かに裂いた。腕の延長線上、柄が繊細に感触を掌へと伝播する。血だ、血だ血だ血だ。感情の一部が沸き立つ。生理的な欲求ではない。僕とは別のところで人格を持っている、もう一人の僕が。――ひょっとしたら、器に載せられた魔王とかいうやつが。
殺せ、という甘美な響きを刷り込もうとしている。
――っ! 奪われて堪るかよ!
すぐに魔術を作動させる。何者かに奪われそうになった心を理性の磔で締め上げる。
特攻にラグが生じる。一瞬すらも生殺与奪の隙となる。
突如として魔力の流れが引いた。鳥肌が弱まる。
「魔術にはそれなりの術で対抗するしかない。魔術師ならば、魔術で。魔術が使えない無能なら、魔術以外のとっておきで。魔術を使わないことで勝ちを見出せるなら」
僕は。せっかく得た力を、捨てる。剣を、地面に着き捨てて、
「魔術なんて、使わなくてもいい」
ブーツが砂を噛んで、大地を踏みしめた。強化のない、ただの猪突。しかし、魔力の出所は掴んでいた。
人体への負担を極限まで減らしつつ、たった一つの最善策だけを行使する。
すなわち、僕は武器の一つも持たず、魔力に埋もれていたグスタフ・ロムニエルの胸元へと潜り込んだ。
「余計な力はそぎ落とす。さもないと、力で力を押し返されるから」
「……ン、だよォ!?」
「僕の、戦い方だ。ただの、受け売りだけどな」
刹那。その無人空間から、魔力という魔力が一切、書き換えられた。
白衣の男、グスタフ・ロムニエルを匿っていた濃密な魔力の空気は一瞬にして、彼の身体を刻む刃となるっ!
「がァァッッ!?!? な、ン……!?」
「――なあ、研究者被れ。お前の知らない世界が、怖いか? 顕現した未確認事象が、恐ろしいか?」
「馬鹿に、しやがッ……、がァッッ!?!?」
大気中の魔力のうち、グスタフが操作しようとしたものすべてはこの瞬間、僕の所有物になった。
加えて、
「体内の魔力でさえ、僕のもの。――魔術師じゃなくても使えるんだよな、これ。
僕はこれを『感染呪術』って呼んでいるんだけどさ」
魔術が使えない時代に修得した技術。剣術、学術、最後に呪術だ。たった三つの術。
社会的には強者になれなくとも、目的がただひたすら戦うことならば最大限に効果を発する。
「すなわち、呪いだよ。無能が強者に抗うには、ひたすらに恨み恨んで恨みつくして恨み殺してやる熱情を一点にのみ集中させるだけでいい。
――覚えておけよ、一流魔術師」
グスタフの魔力を吸い上げつつ、暴走させる。皮膚の内側張り裂けそうなくらいに膨張した血管が浮き出ている。決して、魔力を豊富に用いているわけではない。というか、初等の魔術の数千分の一の量しか使わなくていい。呪術とは、ある意味で人体と人体を結ぶことだ。結び、そして、きつく縛る。相手が逃れられないくらいに、強く。あとは、情動の赴くままに身体の芯から引き裂いていけばいい。
――魔力野が壊れた僕に扱えた、最強最悪の攻撃手段。
結ばれた人間は一つになる。手を繋ぐように、剣で胸を刺すように。ただ、無数に広がった『結ぶ』という行為の一つさえ完成させ、かつ術のかかった相手の魔力野さえ無事であれば、たとえ魔術が使えなくとも呪うことができる。あくまで用いるのは相手の脳、相手の魔力野に過ぎず、敵に魔術を使う能力がなければ効果はない、一切だ。
ゆえに、呪術は魔術の存在により完全性を失ってしまった。けれど、不意打ちにはちょうど良い。いかんせん、この世界は魔術が第一、自分の頭で魔力を操作してより強くより美しい術式を編むことこそが至高だからだ。魔術以外は排斥しろ、という過激派の議員が帝国議員選挙で得票数一位をとるくらいだから相当だ。
ゆえに、魔術以外の超常現象が実世界のパワーバランスを容易く崩す。皮肉な話だ。
「よくも、よくもよくもよくもォォッ!」
金切り声のような悲鳴が鼓膜を震わす。頭に響く声に思わず目を細め、突き刺したままだった剣を引き抜いた。両腕で下段。中腰で、すくい上げる姿勢。腕を弛緩させる。僅かにブーツの真横を掠めていく切っ先。一呼吸が、永劫の如くひたすらに引き延ばされる。極限状態まで集中力を引き上げた結果、周囲の速度が遅くなる。いや、むしろ止まってすら見えるようになる。
たん、と本革ブーツの靴裏が煉瓦の地表を叩く。ただそれだけの微量なノイズすら、耳元で囁かれたかのように、鮮明な響きを持つ。脳を震わせる。感覚が過敏になる。舌の上がざらついていて、僅かに口腔内に横たわった塩分を数億倍の濃度に凝縮させて、知覚させている。腕が、上腕二頭筋が、上腕筋が、上腕三頭筋が、前腕筋群が、緻密に引き締まる。腹直筋が凹み、回転する。
『身体が動いている』
『隅々まで感覚が冴えわたっている』
『地に貼りついた両足の爪が靴底を突き破り、煉瓦を抉りぬくような、錯覚』
――斜め下から、剣を振りぬく。
「うるるるぉぉっ!!」
喉の奥底から、獅子吼が冴えわたる。グスタフの咢を真下から刳り貫く軌跡で、到達する。ガゴンッ!? と鈍い音が金属越しに伝った。命中は確かだった。
ただ、人体への命中ではない。人骨にしては、硬すぎる。
「……魔術には、魔術。拳には拳。金属には金属。貴様の剣に似合うのは、ウルツァイト窒化ホウ素――ダイアモンドよりもさらに硬い拳だァ」
僕の握っていた、柄が急に軽くなった。
視界から切っ先が揺れ動く。ぼろ、ぼろ、と。音もなく、剣が金属片へと変わり果てる。
グスタフの拳に握られていたのは小型の武器だ。
拳を握った五指を保護する、金色に太めの針が三本差し込まれた厳ついボディ。
「……メリケンサック、ってことかよ。研究者の割にやることは脳筋なんだな。身体もモヤシってわけじゃなし。むしろ肉だ。肉の塊。焼いて食ったら美味そうだ。嘘、雑食だからマズそうだ」
軽口を叩いてみることで案外すぐに平静を取り戻せたが、鋭さと一定の重量を失った鋼の破片では、赤煉瓦の地表に深い傷一つすら付けられない。
「さっきの悲鳴はフリかな、研究者さん」
着実に、シグがグスタフの背後をとっていた。
学院第二位の幼馴染を有効活用するために、道化の存在は必要不可欠だった。
彼女の道化役なんて、苦い役回りだけど――僕が適任だ。
「――ロキ君。怯んじゃ駄目だよ。君、優しいからさ、人の命は奪えないじゃん。奪う気で戦えないじゃん」
「あんだよ、シグ。この期に及んで僕の愚痴か?」
「半分は愚痴、もう半分は叱咤激励。もう、ボクがいなくたってどうにでもなるんでしょ?」
「シグがいないと困ることもたくさんあるんだけどな」
「それは……そこそこ嬉しいけど」
ゆるり、と彼女の頬は緩む。緊張の二文字に欠けたやつだ。
シグの背後からローザが覗く。グスタフに目を向ける彼女の足は小刻みに震えている。ろくに戦える身ではない。背丈の低いシグが両手を大きく広げて、背後の魔王妃を庇う。その姿はさながら主人を庇う忠犬の如く。
「――来るよ、ロキ君」
「不意打ちは任せたよ」
「不意打ちなんて姑息な手、ボクにできるわけないじゃないか」
「じゃあ何が」
「後ろから盛大に音を立てて猫騙し」
「お前のそれは猫を殺すよ」
風向きが変わる。耳元に疾風が渦巻く。背後に倒れるようにして、後退。追撃が顔面へと迫る。グスタフの拳だ。厳密にはウルツァイト窒化ホウ素のメリケンサック。
打撃部分には古代語の文字列が刻まれている。難解な語彙かつ、所々が剥げていて解読不可能だ。
グスタフが解き放つパンチが時速五〇キロ。視認ができる。もはや静止画と変わらない。ゆえに、避けられる。余裕で避けられるところをわざわざ間一髪で避けているフリすらもできる。自ずと魔術で強化されているのか、そもそものフィジカルがもたらした強さなのか。
「効かないな、全く。当たらないな、全く」
「その様子じゃァ、オレの拳の軌道は完全に把握されているらしいなァ! ハッ、ハハハハ!」
何が可笑しい、というのは使い古された野暮な台詞に過ぎない。何かがあるから可笑しいのだ。
ぞわり、と肩口に黒い影が迫っていた。急遽、体勢を崩して横へ跳梁。受け身の姿勢を取って煉瓦に飛び込む。迫っていた謎の気配を振り切ったつもりで、残身を取る。が、既に着ていた学院指定制服の右肩部分が裂けていた。拳の速度が二段階以上加速した。ほんの一瞬だけ、がら空きの瞬間が生み出され、的確に撃ちぬかれた。打撃の衝撃波は無残に皮膚を裂いて、ロキに裂傷を下す。
骨にまで響く鋭い痛み。グっ、と奥歯を噛み締めて堪える。
骨の数本が折れるくらい、どうってことない。
「――アァァ、……!」
「魔王様っ!? 今すぐに怪我を直さないと――」
「やめろ! ローザ、来たら駄目だ! グスタフに捕まる!!」
シグは僕の反応から何かを察し、ローザの腕を引っ張って離さなかった。
無意識化の行動、シグルーン・ファレンハイトの戦闘センス溢れる勘の一端が垣間見える。
シグもほとんど無敵とはいえ、守りながらの戦いには慣れていないはずだった。
センスはあれど、実践の回数は少ない。場数が想定しうる展開の数が限られていた。
「シグ、後ろに下がっていてくれ。僕が前に出る。後衛から遠隔攻撃と防御壁の展開だけ意識してくれ」
「……ロキ君。任せたよ。君の方がボクよりも実戦には長けているんだろうし」
あっさりとシグは引き下がる。
魔術師になれなかった頃の実戦の遍歴なんて、今更意味があるのだろうか。
剣は砕けてしまった。実世界の有限な鋼で生み出されたただの両手剣だ。魔術が使えなかった僕の、戦力。
でも、魔術があるならば剣なんて、魔力がある限り無尽蔵に生み出せる。
鈍っていた魔力操作の感覚は繰り返し術を編み出すことで、鋭さを取り戻している最中だった。
「【無慚】――僕は、剣を精製する」
空間の魔力を瘴気に変換。
瘴気は凝縮され、無数の剣が虚空に顕れる。
ただ一点、グスタフだけに狙いを定めて、放出する――――直前。
「やめなさい」
たったその一言。ただそれだけで、一気に術式が霧散していく。
強固に結びついていた組成がほどけるように失われる。
「……会長」
立ち塞がったのは、学院生徒会長、アンセル・セロージュだった。
「貴方は大事な大事な庶務なんだから、あまり無理をなさってはいけませんわ。このままじゃ、出血多量で倒れかねませんし」
「でも、僕はまだ、戦えま」
「戦えるか、戦えないかじゃないのよ。たとえ、魔術が使えるようになっても、ね」
既に情報を仕入れていたらしい。いったいどこから聞き耳を立てているんだ。
力が抜けて膝から崩れ落ちる。オドを使い過ぎてしまったのだろうか。
「勘違いしないでほしいのだけれど、わたくしは大事な大事な後輩ちゃんたちを助けに来ただけよ?
素直に受け取っておきなさい――ロキ・ディケイオ庶務」
グスタフと僕の間に学院第一位が割り込む構図。
銀髪を噛み乱した五賢司祭第四席は苛立ちを露骨に見せながら、煉瓦を蹴上げた。
ダンッ! と弾丸が弾かれる音とともに瓦礫の破片がアンセルめがけて殺到する。
ただし、――届くことは許されない。目前にして不可視の障壁により阻まれ、カラカラと力なく床を叩いた。
「クソアマが。邪魔、すンのか?」
「口が悪いお方は心底嫌いですが、質問には答えてあげましょう。――邪魔しますよ。理由は単純。後輩が可愛いから。そして、ロキさんはわたくしの貴重な実験材料でもありますから」
魔術を得てしまっては実験材料として不適切だろうが。
「魔力野が壊れた状態から再起した被験者なんてなかなかいないわよ。存分に楽しませてもらうわ」
「後輩をマウス代わりに使わないでください、会長」
「ゴチャゴチャうるせェ。戦うかくたばるか早く決めやがれよォ……っ!」
足元のレンガを叩き割って、仁王立ちしたグスタフが、突如舞い降りた学院最強を睥睨する。
「オレの行く手を阻むヤツは、皆地獄行きだァッ!」
荒々しい拳骨に対し、
「地獄を軽く宣う輩には、本物の地獄を見せてあげますわ」
アンセルの凛とした声が鼓膜を綺麗に震わす。
次の瞬間、取り巻く世界の気温が急降下した。
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