1-05『接吻、焼失、リ・バース』

 迷宮での探索は思いのほかスムーズに進んだ。

 魔力が見えるようになるだけで、危機回避が楽々だった。

 僕があまりにも滞りなく進んでいくものだから、隣で護衛をしていたシグから、


「ロキ君、魔術が使えないのにでしゃばりすぎ。君を守るのはボクなんだから」


 と叱責されてしまった。

 だが、一〇階層にはあっけなくも辿り着いてしまった。

 冒険者がようやく乗り切れた現状の最難関を、魔術が使えない人間と学院の第二位だけで。

 ――シグもまた、薄気味悪さを感じていたのだろう。ぎこちない笑みを浮かべて、


「……ねえ、ロキ君。今日って一度も、『魔獣』と出くわしていないよね?」

「……そういえばそうだな。普段の迷宮がどういう作りになっているのかは知らないけど」

「上に行けば行くほど、襲ってくる魔獣は強くなるし、出てくる頻度も高くなる、はずなんだけど」


 事件現場の探索をしているときですら、迷宮内部では何も起きなかった。

 そのため、現場検証を終え、生徒会室に戻ったのは予定よりも六時間早い、正午だった。

 この異常を前にしても、アンセルは依然、ポーカーフェイスを貫いていた。


「ふふ。治療は進んでいるように見えるわね」

「いやいやどこがですか」


 内心どぎまぎしていた。会長の慧眼は外れることを知らないが、昨晩のことまで知られていたら恐ろしい。

 部屋を監視されていることを疑ってしまうだろう。


「そういえば、シグルーンさんは?」

「アイツは用事があるとかで先に帰りましたよ。別に調査報告は僕さえいればいいので」


 シグルーンは調査が終わるとすぐに去っていった。そもそも休日の無賃労働なのだ。あまり長居する理由もないのだろう。


「確かにそうね。彼女、事務仕事は苦手だろうし」


 そう言って、会長はあっけらかんとした顔で調査報告書の横に書類の山を持ってくる。「やれ」ということらしい。にっこりと微笑まれてしまった。「後でやります」とだけ返したらそれ以上は何も言わなかった。


 代わりにじーっと見つめられる。なんだか、不自然だった。

 さて――会長はどこまで知っているのか。あるいは、あの紫髪の幼女とグルなのか。

 だとしたら、


「あの……会長。一つ、いいですか?」

「なんでしょう?」


 去り際にイチかバチかで問うてみる。


「人間が、別種族の……それも、人間と敵対の関係にあった魔族の王になることって可能なんですかね」

「……さあ、肯定も否定もできないわ。そもそもどうして、既に隷属化にある種族の王の話を?」

「いえ、ちょっとした思い付きです。失礼します」


 さすがに会長が関与しているわけないか。

 言及をされたところで、気の利いた言い訳はできないので僕は生徒会室を後にした。

 何より、昨晩のことを正直に話したところで信用してもらうには判断材料が少なすぎる。

 夜が明けて、まだ僕の脳内はふわふわと蕩けていた。

 夢を見ているようだった。でも、夢ではない。


「――魔力は、見えるんだよな」


 あたりには白を希釈したような透明に近い色の魔力が流れていた。聖樹から放たれているマナなんだろう。一夜明けたからか、今度は色だけでなく、匂いなんかも嗅ぎ取れるようになっていた。たとえば、生徒会室に漂うアンセルの魔力は金色で、甘い香水のような匂いがした。対して、シグはというと緑色で石鹸の匂いというか。……これって魔力関係なしで匂うものでは? 


 ともかく。魔力の匂いを嗅いだだけで誰なのかが判別できるようになっていた、というわけだ。

 魔術が使えることはまだ試していない。

 現場検証を終えた後でやるつもりだったが、かなり時間に余裕が出た。

 初歩の初歩から確認することにしよう。


 ※※※


 貸家に戻ると、既に抜けた天井には板が張られていた。シグルーンが手配してくれたものだ。

 さすが公爵令嬢。使うべき時に惜しまず金を使う。おまけにベッドも新調されていた。

 彼女の半同棲環境は半日で元に戻ったわけだ。


 まあ、そんなことはぶっちゃけどうでもいい。日常っていうのは案外すぐに修復できるようなものらしい。

 自室の扉を閉じて、鍵をかける。シグであれ、途中で誰かに入ってこられても困る。

 誰の気配もないことを確認して、本棚の一番上で眠っていた魔術の教書を取り出した。

 その最初、基礎の基礎が記されているページを読む――。

 一通り読み終えたら、その通りに魔術を放っていくことにした。


 どれもこれも初歩的なものだ。慣れてもいないのに、難易度の高いものに挑戦してしまっては、一〇年前と同じ目に遭いかねない。


 魔術を失ってからもボロボロになるまで読みふけった教書だった。

 ぺらぺらと捲っていくだけで、簡単に内容が入ってくる。

 魔術発動方法は手順にしてみるとあまり難しくない。


 まず、体内にマナを取り込んでオドに変換する。これは呼吸でも取り入れられるが、他の動植物が溜め込んだものを摂取することもでき、後者の方が効率よくオドを溜められる。なので、魔術師の食べる量は特別多い。強ければ強いほど、健啖家なのだ。


 次にオドを操作する。脳内の魔力野と呼ばれる箇所で粒子だったオドを集合させるイメージをする。そのイメージに従って、魔力は規則的に整列する。このイメージを強固にするためにそれぞれの術式には名前がついて、発動直前にその名前を口にする場合が多い。


 ――たったこれだけの二手順を踏むだけで、誰でも簡単に魔術を放てるという仕組みだ。


 確かにこれならば科学が廃ることも頷ける。もちろん、科学が廃れた理由は聖樹帝国自体にもあるんだけど。


 通読が終わっても、時間はそれほど経っていなかった。時刻は午後二時を回る直前だっ――――――――。




 部屋から、唐突に明かりがなくなった。あまりにも呆気ない場面転換だ。小説を読んでいたら、間違えて二ページ分先を読んでしまったかのような。




「……うぉ、?」


 何故か、僕の身体は後ろに倒れようとしていた。すぐに受け身を取ろうとするが、足元もおぼつかない。振り向こうとしたところで、床はもうすぐそこまで、迫って――、


 ――ぽすん、と。固い地面とは程遠いところで、後頭部は跳ねた。


「九死に一生を得ましたね、――魔王様」


 気が付けば、倒れた先に生温かいクッションが敷かれていた。

 女性の太腿、という柔らかすぎるクッションが。


「危ない所でしたね。魔王様、あのまま魔術を発動していたら、再び暴走していたでしょう」

「暴、走……?」

「貴方に分け与えた力が完全に覚醒していない、ということです。昨日は邪魔者が入ってしまいましたので、魔力が視認できる段階で手を止めてしまいました」


 美姫の温もりに満ちた声が頭上から耳朶を舐める。長細い手指が僕の後頭部を庇うように差し出されていた。


 見下ろす顔には既視感があった。昨晩の幼女である。でも、幼さは抜けていた。童顔じゃなくなったとか背丈が増したとか、胸が成長したとか、発言がたどたどしくなくなったとか、――外見的に、少女の年齢が一気に跳ね上がった。

 ……え、どういうことだ? 

 女性に年齢を聞くのは最たる愚行ゆえに避けたいところだが、現実に理解を追いつかせるために、


「あれ、年齢……」

「女の人に歳を聞くのはよくないですよ、魔王様。


 それに、わたしの年齢は変わっていないです。元より二三五歳なのですから」


「桁数違わない?」

「いや、間違っていました」

「だよね」

「三二五歳でした」

「増えるのかよ」

「魔族だったら、一〇〇〇歳生きるのは普通ですよ。

 昨晩は魔力量が足りなくなっていたから消費量を減らすべく小さくなっただけ。魔族ならよくあります」


 いや、魔族事情なんて知ったこっちゃないけど。

 そもそも、


「君は結局何者何だよ。本当に魔族なのか?」

「そう、わたしは正真正銘の魔族です。魔族は魔族でも淫魔の血を引き継いでいます。


 ――役職的には、魔王妃。二人いるお妃の片割れでございます」

 はらり、と。少女はわざとらしく衣類の布地をはだけさせた。

 グラマラスな肢体が露わになる。蕾を膨らませて、花開いた花弁のように彼女は咲き誇った。

 レースの薄い生地で編まれた黒と紫のドレス。月の冴え冴えする光に透かされて、ドレスからはみ出た太腿やら細腕やらが浮き出る。首筋とその下に広がっている鎖骨のくぼみが特別、煽情的だ。

 昨晩呑み込んだ唾液の甘味を味蕾が思い出す。途端に唾が溜まる。それを飲み下してカラカラにする。


 ――眼前の少女を押し倒したい衝動に駆られる。無性に舐め回したくなる。男性が女性を求めるという本能的な欲求が急激に沸き起こっている。理性で鎮火にかかるが、その手の欲求が留まることを知らず、知らず知らずのうちに熱い吐息が洩れていた。


「なあ、そこの魔王妃さん。僕の身体に何か仕掛けたか?」

「仕掛けたつもりはありませんが……、淫魔の血を引くものですから、異性を【魅了】してしまうのですよ。いうなれば、特殊体質でしょうか」

「……いつから僕を魅了していたんだよ、淫魔さん」

「昨晩、唾液を盛ったときでしょうね。体液を移すのが、一番魅了の効率が良くなるそうなので」


 紫髪の少女が耳元で囁いてくる。彼女は僕の頭をゆっくりと床に預けると、真上から押し倒してきた。そのまま、身体を密着させる。少女はその精緻な小顔を僕の胸に押し付けてぐりぐりしてくる。


「……いい加減、離れて欲しいな魔族さん」

「わたしの名前は魔族さんとか、魔王妃さんじゃありません。ましてや、淫魔さんなんて。女の子に掛ける言葉じゃないでしょう?」

「でも、名乗ってないし」

「名乗っていないのはお互い様でしょうが」

「君は僕の名前を口にしていたようだけど。というか、どうして僕の名前を知っていたんだよ」

「あの、魔王様……往生際が悪いお子様は嫌いですよ?」

「うるさいっ、僕は魔王なんかじゃない! ただのロキ・ディケイオだっ!」

「名乗られたので名乗り返しましょう。

 ――わたしの名前はローザ・ベルフェロンドです」

「だったらローザっ! 今すぐ魅了を解くか身体から離れるかしてくれっ!」

「人にものを頼む態度ではありませんし、頼まれたとしても止めませんよ」


 視界に影が差して、すぐに迫った。昨夜ぶりの接吻。

 今度は、ただ甘いだけじゃなかった。右肩の紋章が再燃する。


「ぷはっ! なん、だよこれ……ッ、滅茶苦茶熱いッ!」


 思考が熱と痛みで埋め尽くされる。

 痛覚がボロボロに焼ききれそうだ。

 ――まるで、ヴェルに初めて口づけをされたときと同じだ。

 キスが甘かった。だが、その後身体が悲鳴を上げるのだ。

 けれど明確に違うのは、身体から力が奪われていく感覚がないということ。

 逆に力が漲っていくのだ。

 肩口から痣を覗く。

 魔方陣の模様は赤黒く光を放ち、その周囲の皮膚は焼けて、爛れて――新たな皮膚がすぐに生え変わる。

 より硬質な鎧へと、生まれ変わる。

 まるで人間じゃない何かへと自分の身体が生まれ変わってしまうような予感がした。


(なんなんだよ、これは……っ!)


 困惑が思考を埋め尽くす。

 ただ、すぐに激痛が理性を蝕む。

 痛みを抑えるべく、左手で痣に触れる。

 が、触れた瞬間に皮膚は溶けてしまった。


「……ッ!? なんで燃え広がるんだよ!? ただの火傷じゃないのか!?」


 更なる痛みで理性が崩壊しそうになる。

 声帯をぶっ壊してしまうくらいの悲鳴が轟いた。人間を、失いかけている。

 火傷のような痛みが左手を伝って腕全体へと伝播する。

 たちまち袖の方から学院の制服が燃え去っていき、人間の上半身が露わになっていく。

 左腕が、そして、右腕が生え変わっていく。

 指から掌、掌から手首へと広がった火傷は徐々に胸を焦がし、上へあるいは下へと拡散していく。

 皮膚は、人間の中でも一番大きな器官とされている。

 それらがすべて秒刻みで焼け爛れ、すぐに硬質な、人間のものではない皮膚へと置き換えるのだ。

 堪ったものじゃない。神経は狂ったように救難信号を出す。

 しかし、痛みを和らげようと腕を近づければ生え変わった皮膚でさえ再び焼け焦げてしまう。

 そうして、さらに硬質な皮膚へと生え変わる。


 何度も、

 何度も、何度も、何度も、

 何度も、何度も何度も、何度も何度も何度も、何度も何度も何度も何度も何度も、何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何何何何、何何、度度度、度も――――――――、


「はぁっ……はぁっ……、痛く、ない……!?」


 同じことを繰り返していくうちに痛覚が麻痺をしたのか、痛みがなくなっていた。

 腕に触れると、人間の肌にしてはいやに硬質になっていた。

 腕を叩けば、鉄を叩いたような音が返ってくる。

 痛みが消えて、僕は恐る恐る右肩の痣に触れてみた。

 もう焼け爛れることはなかった。

 触覚が鈍くなった訳ではない。『右肩に触れた』という感触はあるから。

 では痛覚が麻痺をしたのか。試しに指に爪を突き立ててみる。

 ギャリギャリと、そこそこ乱暴に引っ掻いてみたら爪痕がぶわっと浮き上がってくる。蚯蚓腫れだ。


「ちゃんと痛覚もはたらいているな。じゃあ、僕の皮膚はいったい……」

「ねえ、魔王様。さっきから何をやってるんですか? 自傷行為は何も生みませんよ」


 紫髪の少女が訝しげな顔をしたものだから、少々ムッとしてしまった。僕は何も悪くないだろうが。


「……僕の身体に何をした?」


 投げた問いに対し少女は何の迷いもなく、屈託のない笑みを浮かべた。

 不覚にも心臓が跳ねあがるような、蠱惑的な微笑だった。


「魔王の器に相応しいロキ・ディケイオ様に、魔王の力を引き渡しに来ました」

「人語を介して、より詳らかな説明を求めたいんだけど」

「あなたの右肩に刻まれた『痣』が魔王の器として相応しい証なんです」

「でも、この傷は――」


 ヴェルを失ったときにできたもので、魔族とか魔王とか一切関係がないはずで――、


「この傷は、なんですか?」

「……いや、なんでもないよ。それよりもさ、僕に分かる言葉で説明してくれないか? 納得までいかなくとも理解くらいはさせてくれ」


 話題を逸らす。赤の他人にヴェルとの過去を告げる気はなかった。


「へえ……、いいでしょう、色々教えてあげます」


 倒れて身動きの取れない僕の耳元で、ぼっそりと彼女は付け足す。


「――身体で」

「……冗談でもやめてくれ」


 興味がないと言ったら嘘になるけど。

 床から起き上がり、馬乗りになっていたローザと対面する。

 間近で見れば見るほど、その小顔の見目麗しさに目を奪われそうになる。

 極めつけは規格外の胸だった。普段シグのものに慣れているから非常に、目に毒だ。

 もしかしたらアンセルよりも大きいかもしれない。


「胸ばっかり見てないで私の話も聞いてくださいね」

「やかましいわっ」


 魅了のせいだろうが。内心で突っ込んだ。


「ロキ様が選ばれた理由はただ一つ。紋章が刻まれているから。それ以上もそれ以下もありませんが、強いていうならば魔術を使うどころか、魔力すら見えないという体質ゆえでしょうか」

「どうして、そのことを……」

「卵が先か、鶏が先かっていう問題ですよ。紋章が貴方を選んだ理由が、貴方の体質故だったのか。その逆か、というだけの些細な問題です」


 釈然としないまでも理解は追いつきそうだった。


「でも、まだロキさんに託された魔王様の力は半分ほどです。不完全なのです」

「じゃあ、もう半分の力はいつ、僕の下にやってくるんだよ」

「はっきりとはしていませんが、一週間以内で決着はつきますよ」


 一週間って。それなりにはっきりしているのでは?

 ろくに片付いていない部屋で話し続けるのも集中力に欠けるので、自室からリビングへと移動した。

 食卓に珈琲を淹れたカップを置いた。テーブルをはさんで向かい合う。


「……僕の身体に何をした。どうして魔力が見えるんだよ」

「えっちな細工を施した、……なんてね。冗談ですよ、血走った目で睨まないでください」


 苛立っているのだろうか。いや、きっと現実を呑み込めていないだけだ。

 この世界で魔術は奇跡として成り立たないと信じて疑わなかった。

 ならば、どうして僕は魔術を見ることができるのだろう。きっと、奇跡が目の前に現れたからだ。

 そう考えるのが妥当だと思えるくらいに、僕は半ば自分の欠陥に諦念を抱いていたようだった。


「ロキ様の魔力野は既に使い物にならなかったから、代わりの器官を植え付けたんです。

 ――魔力野さえ治ってしまえば魔力は視認できますし、魔術を使うことができるでしょう?」

「……でも、そんな簡単な話じゃないはず。現代魔術医療で僕の魔力野は治らない。それくらいに酷くぶっ壊れたらしいし。そもそも魔力野を欠損した患者の前例がないから、手の施しようがないって」

「あらあら、ちゃんと人の話聞いていましたか? わたしはロキさんを直したんじゃないですよ。魔力野の代替品を与えたに過ぎないんです。この世界中でたった一人、ロキさんだけにしか適合しない『代替品』を」

「その代替品が適合する証っていうのが、右肩の痣ってことなんだね」


 ローザは大きく頷いた。


「本来の名は『魔王の刻印』。魔王の器になるものにだけ刻まれる王の印」

「魔王の刻印、か。刻まれた者は魔王にならなきゃいけないのか?」

「その通り。でも――、一〇〇年の間に世界は大きく変わってしまったようです」



 ――我々は、もう統べる王がいようとも、立ち直れないかもしれません。

 痛切な、魔王妃の嘆きが二人だけの空間を濡らしていた。

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