1-01『幼馴染は通い妻』

 ロキ・ディケイオ、すなわち僕の朝は早い。

 なんといったって『学院』の講義開始が午前八時半だからだ。


 四月、春。春季休業が終わり、通常講義が始まってまだ一週間にも満たないが、授業は学生の怠惰事情に構うことなく開講される。


 しかし、朝が弱いタチなのでベッドから起き上がるまでで一時間は費やす。

 加えて、朝食や着替えも遅い。


 ……と、このように順繰りに逆算していくと授業開始の三時間前、五時半に起きなければ遅刻は確定だった。就寝時間は計算していない。

 どうせ夜が更けるまで研究に精を出ているから。


 最悪三〇分仮眠が取れれば御の字みたいなところがあった。

 朝食を作る工程が省かれるのが唯一の幸いだと思う。


 何故って? ……それは、作ってもらう幼馴染がいるからに他ならない。

 バァン! とノックもなく寝室の扉が開かれた。


「おはようロキ君!! ほら、さっさと起きて!」


「んぁ……、おはよう、シグ」


「よし起きたっ! 目玉焼きとトーストできてるから食べてね!!」


 はきはきとした声で呼ばれて、一気に現実へと引き戻される。

 ぼんやりとしていた焦点を合わせると僕の幼馴染がエプロン姿でベッドの前に仁王立ちしていた。


 シグこと、シグルーン・ファレンハイトは僕の二〇年来、つまり赤ん坊のころからの幼馴染だ。実家の爵位は公爵。僕の家系は男爵にあたり、ファレンハイト家との地位の差は歴然としている。


 どうして幼馴染として成立しているのか、というとそれはきっと、鍛冶師である母のお陰だろう。たまたまファレンハイトの現当主が母と昔馴染みで、鍛冶場の常連だったのが一番の理由だ。


 彼女は今、制服の上からエプロンをかけているわけだが……、そのエプロンは普段見ない柄だった。

 かつシグのご機嫌具合から察するに、


「エプロン、新調したんだ」


「へへ、大正解」

 にっかりと、彼女は微笑んでぴょんぴょんと飛び跳ねる。薄緑の短髪がそよいだ。

 エプロンの奥から、制服が見え隠れする。彼女が穿いているのはスカートではなく、男性用のズボンだった。


 すなわち、シグルーン・ファレンハイトは男装令嬢だった。そういうキャラになりきっているのである。

 別に痛い人っていうわけではない。公爵であるファレンハイト家にもいろいろ込み入った事情があるのだ。


 ただ、体躯に恵まれていないせいで男装しても男の子っぽくは見えないのが最大の欠陥だった。

 巷ではボーイッシュな身なりと称される我が幼馴染の格好はしかし、なんとも男らしさに欠けている。

 だからといって女性らしさも際立っていないのが難点だ。ちんまり、すとーん。

 強いて言うなら少年と少女を足して二で割ったような……若さ、いや、幼さがにじみ出ている。

 男装用の制服だって、シグ専用の特注品だ。


「ねえねえロキ君、今なんかよからぬこと考えたでしょ」


「いや、何も」


 幼馴染の察しがいいところだけは唯一苦手な節があった。

 シグはお玉を右手に持ち、上へと掲げていた。

 出汁の効いたスープの匂いが部屋の外から鼻腔をくすぐる。


 腹の虫が空腹を満たせ、と喧しく唸っていた。


 寝床から抜け出すと、幼馴染の彼女はにっこりと笑った。

 一部の男子学生から定評のある天使スマイルなるものを拝む。

 果たして、彼女の無垢な表情に何人の純粋な男児が心を狂わされたのだろうか。


 見当もつかないし、したくない。そういうキャラを狙っているわけではなく、純粋に無意識に振りまくものだから、たちが悪いことこの上ない。思春期男子は繊細なのだ。


 ……いや、愛想がいいのは美点なんだけどさ、むしろいい方が得をするくらいなんだけどさ。


 夕食の買い出しをする際にこの幼馴染を前面に出していけば、気のいいオッサンオバサンからオマケを付けてもらえることが多いから間接的に僕も得をしている。美しい笑顔というものは利益なんだろうな。そして、美しい笑顔を持っている幼馴染がいる僕もまた、数少ない幸せ者の一人に数えていいだろう。

 だが、何年も幼馴染をやっているとその輝きに耐性が付く。朝の目覚めに天使スマイルをばちこーんされても、ときめきで完全覚醒! という訳にはいかないのだ。世知辛い世の中である。

 贅沢な悩みだって? 自覚はあった。


「……この匂いはコンソメスープ?」


「正解っ! 鼻がいいロキ君には、ボクからのご褒美をあげよう! 具沢山で盛ってあげる」


「野生のお母さんだ……」


「野生でもお母さんでもないよ? もしかしてロキ君、まだ寝ぼけてる?」


「いや、僕はいつだって正気を保ってる。ああ、保っているとも」


「大事なことだから二回言った!? まあ、大丈夫そうならいいや!」


 ぱたぱたと軽やかな足音を立てて、シグは部屋を後にした。ふんふーんと満足げな鼻歌が廊下から聞こえてくる。さながら鳥のさえずりのようだった。


 ……これ、もはや幼馴染を通り越してタダの通い妻では?


 内心ふと勘づいたが、気恥ずかしいから口には出さない。

「ってか、ゆっくりしている暇はないよ! ロキ君も急いで! 遅刻しちゃうよー!!」


 廊下からひょこっと顔を出して、むーとシグが頬を膨らます。


「うんうん、善処する」


 返事をするとシグは、「にへへ」とふやけた笑みをこぼし、顔をひっこめた。


 廊下でスキップの足音が鳴る。


 嵐が去った後の静けさが僕の部屋を満たしていた。


 シグの天使スマイルに対する耐久値がゼロの方々は思わず、彼女の背中を追ってふらふらと食卓へ向かうのだが、生憎幼馴染ともなると耐久値が限界突破していた。


 睡眠欲と幼馴染のお願いを天秤にかけたら三大欲求が圧勝してしまう。


 喧しいのが去ったら途端に一気に静かになった。

 ――眠くなるのも道理のはずだ。


「二度寝し」


「二度寝しないっっ!! このやろ、実力行使してやる!」


 ……結局、両腕を引っ張られて朝食の席に連れていかれた挙句、朝食を片っ端から詰め込まれた。

 うぐ、お腹が痛い。腹の虫涙目である。


 僕の幼馴染はちんちくりんの割にどうにも胃袋だけは異常に発達しているらしく、一般成人男性(僕のことだ)の食べる量の三倍や四倍は余裕で平らげる。


 特に朝ご飯の量が尋常じゃない。ドカ盛りを平気で口に放り込みながら、同じ量を僕の胃に投下しようとするものだから堪ったものじゃない。朝に弱い人間の扱いが雑過ぎる。というわけで、今日も今日とて、口いっぱいにパンとスープと目玉焼きを放り込まれて、くらくらしながら牛乳で何もかも飲み下した。


 いい加減目が覚めた、というか目を覚まさざるを得なくなったというか。時計に目を向ければ出発時間が刻一刻と迫っている。すぐに着替えと洗顔をする。


 狭い洗面台に二人で横並びし、僕が髭を剃る横で、シグはぐしぐしと歯を磨いたり、化粧をしたり髪を整えたりする。作業速度が倍以上だ。男装とはいえ、やはり名家の令嬢だ。美容には人一倍気を遣っているらしい。 


 男っぽい肌の扱い方をしていたら、きっと彼女の美しさは損なわれてしまう。

 男っぽい身なりにふと垣間見える彼女の女の子らしい一面を、僕は割と好きだったりする。

 荷物を纏める。講義資料、筆記用具、あとは、


「……ああ、忘れるところだった」


 自室の机上に置いてあったペンダントを首から提げて、学院で指定された藍色のマントを羽織る。


 身だしなみの確認をし、最後に胸のペンダントを開いて、そこにはめ込まれた写真に小さく「行ってきます」と唱える。毎日の通過儀礼のようなものだ。大好きだったあの人を忘れないための。


 部屋から飛び出ると既にシグは玄関前で待っていた。

 革製の鞄を抱えてその場で駆け足している。

 散歩を待ち侘びる犬のようだった。尻尾があればきっとぱたぱたと左右に振ってるだろう。


「あっ、ロキ君っ、こっち来て!」

「ん? どうしたシグ――」


 手招きするシグのもとに歩み寄ると胸ぐらを掴まれた。


 びく、と僕の身体は一瞬で硬直する。ただの女の子から掴まれたくらいだったら、身体が強張るほどではないだろうけど、シグルーン・ファレンハイトの場合は別だ。第一、握ってくる力も男一人の身体を引く力も強めである。そのうえやや強引というか、力の加減を分かっていないというか。


「……ん?」


「ネクタイ。曲がってたから直してるんだよ」


 悲しそうに上目遣いで見つめられたのでぐうの音も出なかった。

 新婚生活が始まったばかりの夫婦か。


 改めて、玄関を抜けると、外の世界から暖色の光が差してきた。

 入学のシーズンにぴったりの明るい花々が街のいたるところで咲き誇っていた。


 しかし、花々よりも――眼前で伸びる一本の樹へと目が映ってしまう。


 雲一つない青空を見上げて、雲間を縫うように生えた木々の葉を遠目に眺めた。

 遠くにいても、目を奪われる。その壮大な造形に人間ならば誰しもが憧憬を抱くらしい。

 天上を覆う葉は枝に接がれ、枝はさらに太い枝に接がれ……分岐した枝葉の根幹に巨大な幹がそびえたっている。その幹は、雲間を超えて、点をつんざくように屹立していた。


「聖樹、相変わらず大きくてきれいだよね……」


「そりゃ、この国の名前に使われるくらいだからなぁ」


「へへ。でも、聖樹帝国ってちょっと安直な名づけかなって思うな」


「同感だ。きっと名付け親は頭のお堅いご年配の閣僚さんだったんだろうな」


 感嘆の声を漏らすシグ。僕らの世界を覆いつくす一本の巨木。春ともなれば新緑と七色の花々が春雨よろしくしとしとと降ってくるのが見ものだ。


「……ぁ、花」


 ひらひらと空から緩く落ちてきた花びらの一切れが、シグの鼻の先に着地したところだった。

 思わず、「おぉ……」と声を漏らすが、生憎ゆっくりしている暇はなかった。

 腕時計はこの瞬間も時を刻み続けている。


 ぶらりと垂れさがっていた彼女の細腕を握って、引っ張り歩き出す。

 後ろで一瞬、「うわっ」と不意打ちに驚く声が上がったが、すぐに「……えへへ」とはにかむ声に変わった。


 チョロい。悪漢に誑かされないかが心配なくらい、彼女の心は無防備に見えた。

 シグを引き連れながら、僕は空を見上げた。


 ――聖樹、か。


 、あの馬鹿でかい樹にも慣れてしまうものだな――などと、後ろ向きな感慨に浸る。



 ※※※



 この世界には、『魔術』と呼ばれる力が存在する。


 大気中に舞う『マナ』を、体内に取り込むことで『オド』へと変換。脳内の『魔力野』と呼ばれる器官で演算し、体外へ成果物としての力を放出する力のことを指す。


 そして、聖樹とは魔術の構成要素、マナが大量放出されている巨木の名称だ。

 魔術師の面々から聖地のような扱いを受けている。

 なんとも聖樹の近辺の方が高度の魔術を生み出しやすいとか。


 また、ただ聖樹は『マナ』を放出するだけではない。聖樹は、内部に重要な資源を蓄えているのだ。


 あの幹の内部は――聖樹迷宮が形成されていて、迷路内には膨大な魔力で生み出された『魔獣』が跋扈しているらしい。その『魔獣』を屠ると得られる『魔石』という宝石が、街のエネルギー源として重宝されているのだ。もはや聖樹帝国の経済は迷宮に関わる産業で回っているといっても過言ではない。


(……なんにせよ、僕からしたら蚊帳の外の話だけど)


 背後のシグへと顔を向けると、にへらとかふにゃりとか、そんな擬音が似合いそうな緩い笑顔を返してくる。

 普段はこんな風にふわふわしてそうな奴だが、シグの魔術師としての技能は天才的だった。

 それこそ、妬ましさを超えて、もはや乾いた笑いしか返せないくらいに。


 しばらく人の波が激しい街路を進むと、正面に荘厳な門が現れた。門の先には、広大な敷地面積を持つ学院が広がっている。


 僕とシグの通う学び舎。術儀式帝国学院。通称、『学院』。

 最強魔術師の卵がごろごろ転がっている、世界でも有数な魔術師育成機関。

 今日も今日とて、シグと隣り合わせで講義の席に座る。

 僕ら二人の所属学部は『魔術人文学部・魔術史学科』――座学重視だ。

 地道に勉強していれば除籍は免れられる。


「んじゃ、ロキ君。ノートよろしく~」


「いや寝るなっ」


 にもかかわらず、僕の幼馴染は初手で、机に突っ伏した。彼女は、座学を極端に苦手としていた。机に向かって勉学に励むことへの抵抗感が昔から凄まじく、机に向かって地道な努力をした僕とは正反対の性格だった。


「別にいいでしょ……? ノートをとらなくても、実技ができれば単位は回収できるんだし」


「……だったら勝手にしろ。その代わり、ノートは見せないからな」


 助け舟を渡さない、固い決意をした。

 落とす単位は落とせばいい。どうせ、シグのことだから実技の追試で赤点を免れるのだろうけど。


 ……憎い。内心に浮かんだ負の感情をなるべく表に出さないように、唇を吊り上げる。


「ちょっとは自分で努力しような。実技で点数稼げてるとはいえ」


「ボクが実技で稼ぐ代わりに、ロキ君が座学で稼げば成績は釣り合うでしょ?」


 どんな理屈だよ。人とテストの点数を共有できるなんてシステム、少なくとも僕は聞いたことがない。


「屁理屈並べて考査前に泣きついてきても口きいてやらないぞー……、っと」


 返答がない。代わりに寝息が聞こえてきた。

 忠告も無視して眠ってしまったらしい。


 こちらの努力も知らないで、よくもまあぬけぬけとぬくぬくと安眠できるものだ。

 実技科目は毎回、上手く策を講じて回避をしているが、それも次第に心苦しくなってくる。


 ……やめよう、この話。

 思考を振り切ったところで、授業のチャイムが鳴る。


 ノートを開くと、基礎的な魔術の理論が纏められてあった。自習しておいたおかげで理解は早かった。

『魔術とは、この世界にはたらくありとあらゆる法則を無視して発現する。一口に魔術といっても、いくつか分類があり、攻撃魔術、防御魔術、回復魔術、空間魔術、神聖魔術。固有魔術等々が存在する――……』


 単純なノート作りだが、大抵の学院生は律儀に紙のノートに纏めたりはしない。魔術があれば脳の記憶領域に直接描きこむことだって不可能ではないからだ。


 僕だって、ノートづくりなんて面倒臭い手作業、やめてしまいたいよ。できないからやっているだけだ。


「魔術には属性があって、それらは現在進行形で増え続けている。ただ、どの属性を扱うにしても、古くから人々は『オド』を蓄えることについては欠かさなかった。食文化の変遷には『オド』の扱い方が深くかかわっていて――……、また、五大精霊のように、個別で餌が必要な、使い魔のようなものも存在する――……、そう、魔術というのは、人類の生み出した大発明。古の技術ではなし得なかった、奇跡! なのですよ!」


 奇跡、って。大げさな。魔術はそこまで大層な代物ではない。見かけ上は、物理的な力に左右されていないけど、そんなのあくまで見かけである。見かけのはずだ。


 だって、魔術は奇跡と呼ばれているにもかかわらず、死者蘇生ができないから。


 どんなに見かけ上は、法則を無視した手品を披露できても、人一人の命を復活させることができないのなら、僕は魔術を本物の奇跡とは呼ばない。呼べない。



 ――突如脳裏で再生される、とっくの昔に失われた■の笑顔。

 無力だった僕は、■■を助けようとしたが何もできず、それどころかさらに弱くなってしまった。

 ■■の暴走。敵の■■。■が捩じ切られるように痛く、■はすべてを■■■■る――。



「……やめよう、辛くなるだけだ」


 ところどころぼやけてしまった記憶を振り切って、ざらっとノートに目を通したところで授業開始のチャイムが校内に響き渡った。


 いつも通り、シグの寝息から意識を逸らして授業に集中することにした。

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