第20話
血管が破裂しそうなほど激しく血が巡る。脈打つ度にズキズキと頭が鈍く痛み、呼吸をする度に目の前が暗くなる。下手をしたら明日の仕事に支障をきたすレベル。しくじった。変な遠慮をせず有休を消費しておけばよかったと、無駄に有している社会人としての責任感を苦々しく思った。
しかしまぁそんな事は瑣末な問題である。
この時俺がもっとも関心を持っていた事柄。それは……
「シン君! お疲れ様! 残念だったね。後ちょっとだったんだけど……」
一番に労いの言葉を掛けに来たのは花代であった。さすがだ。できている。が、今は感謝の気持ちより優先すべき事がある。
「は、花を……」
息を吸い必死に懇願の言葉を出すも上手く口が動かない。末端の神経が麻痺している。
「え、なに?」
「花を……花! 生ける用の!」
もはや叫びであった。あらん限りの力を込めて、必死に伝達を試みる。
「あぁ、はいはい。もってきてるよ。ちゃんと」
そう言って出されたクーラーボックス。中身は花である。聞き届けられ一安心だが、本番はこれからだ。
朝、花代が来ると言った際俺は一つ頼み事をしたのだが、それは活け花用の花を持ってきてもらうというものだった。
わざわざ外で花を活ける必要などまったくなく、帰ってからでもよかったのだがせっかく試合に出るのだ。普段とは異なる緊張感が、創作にどれだけ影響があるのか興味があった。ちょっとランニングをしただけでかつてない芸術性の高い作品ができてしまうのである。となれば、死力を尽くした勝負の直後ならば凄まじい華道を築ける事必至。死闘の果てに脳が開かれ、確実に次のステージへと登れる事だろうと俺は予見したのだ。
やはりいい感じだ。これは素晴らしい作品になるぞ。
満身創痍ながらも気合と執念にて花を立てていくとかつてないイマジネーションが開花していく。一輪。
この時の俺には自我はなかったように思う。ただ花を活けるためだけの
「佐藤君」
掛けられる声。志村君である。心なしか穏やかな当たり。何かに感化されたのかもしれないが、知った事ではない。
「佐藤君。今回は僕の勝ちだ。だが、もし次一緒に走ったなら……」
「ちょっとうるさいから黙っていてくれ」
「……はぁ?」
「黙れと言ったんだ。邪魔だ。散れ」
気分を害したであろう志村君はぶつくさ言っていたがその内に聞こえなくなった。何処ぞへと消えたのだろうがどうでもよかった。俺は目の前の華を創り上げるだけに意識を注いでいた。
……いいぞ……素晴らしいぞ!
セレクトは赤いゼラニウムと薄桃色のクレマチス。白から真紅へ染まっていくグラデーションが実に艶やか。さながら五月晴れを体現したかのような色合い。見事の一言。が。
……何か足りない。
不足。収まり悪く、ハマるピースが見えない。
後一歩。ほんの少し。僅かな不自然を消せさえすれば完成するのだが、その心成しを埋める術が分からない。未完の大作である。このまま終わってしまうというのはあまりに口惜しい。どうしようかとクーラーボックスを覗くも望むものなし。悩み暮れる。
どうしたものか……
考え悩む。一分一秒が惜しい。俺は深に潜り打開の策を練る。強く注ぐ陽射しに、花弁はそう長くはもたない。
……あった。あったぞ! あったじゃないか!
閃き。雷撃のような衝撃が脳に走る。
「ちょ、見てて! 華を! 絶対崩しちゃ駄目だから!」
「え、うん……」
花代に華の守りを任せ、俺は先に走った憎悪しかないコースを再び進んだ。フラと足が崩れ覚束ない足取りだが、それでもなお道行くのはそこに求める物があるからである。
淡々と走る内に全身の痛みと苦しみが跳ね除く。自力を凌駕した執念のパワーは馬鹿にできないなと志村君を思い出したがそんなものすぐに吹き飛んでしまった。目当てのものがあったのである。
……あった!
1000m直前。一走目にて捉えた若々しく可憐に咲き誇る野花。
これだ。俺はこれを求めていたのだ!
急ぎ花を根から掘り出し道を戻る。途中志村君がいた気がするがかまっている場合ではなく急ぎ足。花代が守る華の元へと辿り着くと、花切りハサミで野花を整え花器に飾る。
するとどうだろう。名も知らぬ野花がゼラニウムとクレマチスが織り成す秩序に混ざり渾然一体。違和感のあった作品が世界と融合し奇跡の調和を奏でたのだ!
ハラショー! これぞ神秘! 俺はとうとうここまでに至った! 天地創造せし絶対主の領域に達したのだ! 池坊! 嵯峨天皇! 見よ! 俺は今! 貴殿らの極致へ!
絶頂! できあがった作品に感嘆感激! 俺はその時! 猛烈感動したのであった!
「あら。綺麗じゃない。写真を撮りましょう。写真を」
「あ、はい」
そうだ。写真だ。浮かれていてすっかり忘れていた。自惚れが過ぎたな。
花代の言葉に俺は正気に戻った。そう。せっかくできた作品をカメラに写さずなんとする。何が池坊だ嵯峨天皇だ。そんなわけあるか。
「はいカメラ。みんなと記念日撮影するから、手短にね」
「……はい」
釈然としないものがあったが俺はできあがった華をファインダーに収めた。目視確認。被写体バッチリ。ヒバデジタル。写したそばがすぐに確認できるとはいい時代になったものだ。科学の進歩は素晴らしい。
「終わりました」
「はい。じゃあシン君もいくよ。みんなで写真撮るんだから」
「あ、俺はいいや」
「はぁ? シン君も撮るんだよ?」
「……はい」
半ば脅迫めいた誘いに乗って、俺はできあがった作品を手に、その日走ったメンツとクソのような記念写真を撮影した。それは後日プリントアウトされ手元に置かれたのだがまったく写りが悪く、花代の方も「なにこれ」と一通り笑った後、飽きて引き出しの肥やしとなった。
ともかく、色々あったがこれにて地獄の駅伝大会は終了となったわけである。言いたい事は多々あるが、ひとまずは、お疲れ様といったところだろう。
日はまだ高く、未だ走り終えぬチームを見ながら花代が作ってくれた弁当を摘み、感慨深く余韻に浸る。走るのは嫌いだが、走り終わった後の開放感は格別である。まさにアンニュイ。軽度の堕落が許される、至福のひとときである。
……終わったな。
すっかり肩の力が抜けた俺は、手元にある華が風になびくのと同時に大きな欠伸が出てしまい、少し気恥ずかしかった。
久方ぶりに吹いた青春の風はもうやんでいる。あるのは、歳をとった男だけであった。
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