第19話
精魂尽き果てる直前。両眼にゴール地点を捉える。「ラストスパートしてください」と言わんばかりの直線が焦りと葛藤を生み、絶え間なく続く呼吸の困難と足腰膝の灼熱を改めて意識させた。
早く終わらせたいが……しかし……
苦悩と逡巡。疾走すべきか否かの決断。酸素が足らぬ頭では中々決心がつかない。
レースの最終局面に置かれたストレートは走る者を吸い込むような不気味な魔力をひめている。存外距離はあるのだが、見通しが良いせいで近く感じてしまうのだ。下手に仕掛けると自滅してしまう。
事トラックレースであればこうした事故は起きにくい。が、コースがロードになるだけで話がまるで違ってくる。何度も試走を重ね、要所要所をしっかりと把握したとしとも、最後の最後にただ真っ直ぐ進めるだけの道があれば人は容易に判断を誤るのだ。当然、経験や理で認識はできるのだが、頭では分かっていても、「いけるだろ」という謎の自信が生まれ没する者が後を絶たない。まさに魔境。幻惑の地帯。ラストのストレートは、そこまで走ってきた競技者をふるいにかける最後の審判なのである。
志村君は……
出し抜きたい欲求を抑えながら、俺はチラリと隣を走る志村君を覗く。するとどうだろう。顔の歪み顕著にて息荒らし。腕も位置が上がりしっかりと振れていない。極め付けは足運び。不規則なリズムと無様な回転が痛々しく、走れている事自体が不思議に思えるくらいであった。見るからに惨事。俺だったらもう止まっているだろう。
現役時代、故障らしい故障とは無縁であったが激しい痛みにより力が発揮できず遅れをとった経験は当然あった。それも一度や二度ではない。競技をする以上、どうしたってどこかしら身体は壊れ不調を患うものなのだが、志村君は、俺が感じてきた以上の激痛の中で走っているのだろう。何たって骨が変形しているのだ。シンスプリントや肉離れなどとは比較にもならない重篤な症状である。考えるだけで眉間に皺が寄る。
しかし逆に考えればそれまで。本来完走できる事自体が奇跡的であるような状態にも関わらず、志村君は二回も走り、しかもそれなりのペースを維持している。十分すぎる程の気合いと根性であるが、これ以上はもうない。あってたまるか。痛みは耐えられても身体と脳の構造的にストップがかかる。よくて目眩。悪ければ失神。いずれにせよ減速か停止は必至。スパートなど、とてもではないができるわけがない。奴はリタイア。ここで終わり。長く続いたくだらない争いもようやく終焉を迎えるだろう。
そう。普通ならば。
……嘘だろ。
風を切る音と共に隣が空いた。志村君が一歩抜け出したのだ。
目の前を走る奴は死にかけの虫が見せるような動きをしながら一人駆けていく。残り600m。仕掛けるにはまだ早い。
放っておくのが一番だが……
後ろに張り付き思案。どう考えたって無理なスピードアップ。持続は不可能。自滅する可能性が極めて高い。このままの位置をキープして、ラスト200mから全力を出せば十分まくれる兆しがある。普通ならば無理をして付き合う必要のない蛮勇。血迷い。乱心の類。ここは一重に、静観でもって華麗にスルーするのがベストアンサーなのだが……
そういうわけに……もいかない……!
追従!
志村君の加速に合わせて距離を詰める! 我ながら見事なやらかしを披露した! まさに匹夫の勇! 僅かに残ったエネルギーゲージがみるみる減っていくようなイメージ! 進んだ距離がそのままダメージに直結していく! 見えるビジョンは奈落の底! 死!
無理だこれ!
筋繊維が硬直し骨が軋み臓物が茹だつ。まるで拷問責苦。生きながらにして細胞が死んでいく。出るんじゃなかったと即後悔するも後には立たず。賽は投げられdead a lose 死ぬか負けるかどちらもか。競り合いが始まってしまったらもう後戻りは不可能である。
馬鹿な真似をした!
全身が悲鳴を上げる。これは長くはもたぬだろうと嫌な予感ばかりが浮かぶ。負けられないと挑んだ戦いの勝率を自ら下げるとはまったく愚かな事をしたものだ。機を伺えばスマートに終われた可能性もあったというのに何たる泥臭さ。愚直が過ぎる。
それでも奴に付き合い地獄を見ようと思ったのは僅かに残った矜持の為である。
勝負は勝負。どのような形であれ勝ちさえすれば官軍であり、どんな手を使ってでも負けなければそれでいい。競技とはそういうものだ。相手に弱点があるなら遠慮なく攻めるべきだし、ルールに穴や盲点があるならそこを突がなければならない。全て立派な戦術である。
が、スポーツは戦争ではない。勝利ばかりに目を取られていてはそれ以上の境地には辿り着けない。
頭でっかちに考え、数字や理論ばかりに囚われていては真の競技者とはいえない。時に無茶無謀に挑み、必要のない労を費やすのもまたスポーツ。そこから得られる達成感こそ骨頂。真髄である。
それは自己満足に過ぎないが、しかし競技者は多かれ少なかれ、その自己満足の為に戦っているのだ。時に非合理に、時に非効率的にも思えるような戦い方をするのは、いってしまえば楽しいからであり、単に勝つだけではつまらないと思っているからに他ならない。勝算を度外視した時に初めて見る事のできる世界に、その競技の本質があるのだ。
「お前は……」
命を削り、魂を燃やしながら走り俺は、初めて志村君に自分から声をかけた。
聞かなければならない事があった。問いたださねばならない事があった。それを知らねば俺は、この先の結末を決して受け入れられなかっただろうから……
「お前は何で走っとるんや……!」
その問いは志村君に対して抱いた恐怖の根元に触れるものだった。奴の陸上に対する妄執。信念。情熱。それらを集約したただ一つの真理が俺に謙虚さを与えた。
「……楽しいから……好きやからにに決まっとるやろ!」
なるほど。確かにそうだ。
なるほどさもありなん。答えは出た。
俺は志村君の言葉に納得し、全てを悟ったのだ。
これは負けても仕方ない。と。
ゴール地点。割れんばかり声援。
前には志村君がいた。
俺は僅かに遅れ、接戦を落とした。
僅差だった……僅差だったが……
鼻先一つの差であったが、それは大きく開いた差であった。
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