第18話

 1500m

 残り半分の距離となるとスピードも頭打ちとなり、なだらかにペースが落ちていく。中盤に

おいて多くの選手が入門する事になる長距離の鬼門。ここが一番辛い場面。いわば大一番。この局面で粘れるかどうかにより勝負の行方が決するといっても過言ではないターニングポイントである。


 しんどい……


 その勝負所で弱気が訪れた。

 はっきりいって体力は限界。意地でどうにかなるレベルを超えつつある。できることなら歩きたい。いや止まりたい。早々にこのふざけた状況から脱し、帰ってシャワーを浴びてビールを飲みたいと、戦いを放棄したい気持ちが胸の内を占めていったのだった。


 馬鹿な決断をした。

 つまらない我欲に囚われて首を絞めてしまった。

 志村君など気にせずタラタラとマイペースに走り終えて今日一日を無難に終えればよかった。


 無限に湧き出る根塊。ネガティブが余計に身体を鈍くさせる。


 もう駄目だ。お終いだ。


 熱せられていた闘志は急転直下で氷点下。諦観の念。身体は苦痛に対してあまりにも正直である。


 もう無理や……走れん……


 情けない言葉を頭の中で呟き抑ぐ。後退を望む情念。心身ともに、負けを受け入れようとしてきた。


 瞬間。隣から声が聞こえた。


「なん……や……」


 風にかき消され上手く聞き取れなかったがそれは間違いなく志村君から発せられたものであった。


「……あぁ?」


正直話しなどしたくなく、また喋るのに使う余剰な酸素もなかったのだが、突然の語りかけについ返事をしてしまった。その直後。志村君が鬼の形相で此方を睨んだ。




「なんで君がまだ走っとるんや!」



 今度はしっかりと聞こえた。


 なぜ走っているか? それは以前、対面時に「頼まれたから」と答えたはずである。忘れているのだろうか。はたまた嫌味を言いたいが為にあえてもう一度聞いてきたのだろうかと訝しむも、どちらにしたって迷惑な話であるから、俺は返答を控えた。

 だが、どうやら志村君は忘れていたわけでも嫌味を言いたかったわけでもないらしかった。


「君は高校で終わった人間やろ! 大学で鳴かず飛ばずで! せっかく出た西日本インカレも予選で負けてヘラヘラしとったし! なんでや! 今走っとるならなんであの時もっと頑張らんかったんや! 君は何をしとるんや! 佐藤!」


 息を漏らしながら上がる激しい叫び。それは慟哭のように悲痛で痛々しく、強い怨嗟が込められており、俺は、なんだそうした意味合いかと納得する。

 どうやら志村君は俺に失望し憤怒しているようだったが、しかし。その理由がイマイチ分からない。そもそも奴が西日本インカレを観戦しに来ていたのも意味不明で怖い。開催されたのは徳島だったのだが、岐阜からわざわざ観戦しにやって来ていたというのか。酔狂が過ぎる。

 


「うっさい……なんでもええやろ……」


 思う事多々あり色々言いたい事もあったが三途の川の岸辺が見えていた俺にお喋りしている余裕はなかった。なけなしの気力と覇気を振り絞りようやっと突っぱねる。


 が。


「よくないわ! 俺が君にどんだけ嫉妬しとったか知らんやろ! それを何簡単に諦めとるんや! もっと頑張れたやろ! 中学高校と君に負け続けた俺の陸上人生は何やったんや! 君に勝ちたいと思い続けたのは何やったんや! 故障してまで君を目指したのは何のためにやったんや! 何もかんも捨てたと思ったらしゃあしゃあと戻ってきて何なんや! 何がしたいんや君は!」


 志村君は走りながら長々と関係ないと大声を張り打つけてきた。その間実に100m。何だ案外余力があるじゃないかと呆れる。


 しかし、それ以上に俺は奴の言葉に揺さぶられた。


 何がしたいんや君は。


 もっともな疑問だ。実際自分でも何がしたいのか分からないのだから、赤の他人が理解できようはずがない。それは何も今に始まった事ではなく、陸上を本格的に始めた高校の頃から、俺は何がしたいのか分からないのだった。走りたくもないのに走り、目標もなく続ける不毛。得たものは何もない。

 志村君の言う通りよくも分からずずっと陸上を続けていた。10年もの間ずっと半端な覚悟でいたのだ。


 そんな人間がその道でものになるはずなく、いつか破綻するとは常々自覚はしていたのだが、とうとう駄目になってしまったのが奴の言う西日本インカレの時であった。大学4年の夏。俺は1500mに出場し、予選で落ちた。


 順位は順調だった。集団から一つ抜け出し暫定1位。タイムも上々。そのまま抜かる事なく走り切れば確実に準々決勝に残れるはずだった。

 しかし中盤。追い上げなければならない場面。俺の中で、致命的なものが切れてしまった。戦いに必要な意思が、すっかりと萎えてしまっていたのだ。


 走りたくない。


 

 残り200m。肘から下が痺れ足が痙攣しそうな程固ってしまった時に過った陸上への嫌悪と忌避。幾度となく口にした言葉であったが、レース中にそう思った事はそれまで一度もなかった。ゴールまでそう距離がない中で、血が冷めていく感覚が俺に競う事を拒ませたのだ。


 駄目だな。


 諦めた途端、後続に追いつかれ、呑まれた。

 結果は4位。予選敗退。俺の陸上人生は、そこで終わった。秋には駅伝もあったが、部活には参加しなくなっていた。就活があると言い訳していたが、やる事といえば酒を飲んで音楽などを聞くくらいであり、堕落を体現したような荒んだ生活を送るだけだった。

 結局走る事を辞めた俺には何もなく、在学中に職も見付けられず卒業式にも出なかった。敗残兵のように実家に戻り安月給の営業にしか就けなかったのも止む無しといったところだろう(結果が出せないのだからほぼ固定給である)。


 そして嫌々とはいえ、今一度走っているのだ。支離滅裂も甚だしい。折れてはいけない所で折れ、曲げてはいけない所を曲げてしまったのだ。笑われたとて、蔑まれたとて、それは致し方のない事だろう。


 だが、だからといって浴びた批難に反せず甘んじて惰弱者の立場となっているかといえばそうでもない。


「知るかボケ! 自分の都合を他人に押し付けるなカス! だいたい故障したのはお前の管理能力不足だろうが! 俺に責任を押し付けんな!」



 言い返す。当然。俺が志村君に負い目を感じる必要は一抹もなし。堂々と胸を張り喧嘩ができる。

 しかし意外に声が出るものである。アドレナリンが分泌されたせいか一瞬身体が軽くなり、まだ行けるなと希望を持った。失せた活力が再び湧き上がり、俺に走れと命じる。



「ふざけんな! じゃあ最初から陸上なんかやらんければよかったんやないんか!」


「今更そんな事言っても遅いんじゃ! いちいち鬱陶しい! 死ね!」


「そっちが死ね!」


 口汚く煽りながらも俺たちは進んでいく。

 たまに追い抜いたり追い抜かれたりして白い目で見られたりしたが気にしている場合ではなかった。残りの距離は僅か。俺は何としても志村君に勝ちたく遮二無二走り、一刻も早くゴールせんと躍起になっていた。

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