第17話
坂田から東へ
レースは終盤を迎え歓声が嵐のように渦巻いていた。いよいよクライマックス。佳境である。
トップ連中はどこぞの実業団崩れやら地元の四流大学など本気と遊びの狭間にいるようなチームであり、「こんな大会遊びだよ遊び」と舐めた態度で走っているものだから気にくわない。どいつもこいつも俺が全盛期であれば歯牙ににもかけぬような小物ばかりだ。奴らからは命を削るような気迫が感じられない。本物のランナーであれば相手や規模など関係なく常に死力を尽くすもので、それこそ命がけで挑むもの。走り終わった直後笑みを見せるなど三流以下の浅短。自分は大した選手ではありませんと宣言しているに他ならないのである(小木などがいい例だ! タイムはよかったが……)。
まぁ、世界マラソンなどでゴール際に歯を見せる選手もいるが……そこはそれ。一流を越えた先に見えるものがあるのだろう。生涯を通し二流止まりだった俺には分からない世界もある。
……しかし、能書きを垂れたが陸上を辞めて10年が経つ俺が品評するというのはとんでもなくつまらない、品のない行為。そうした通俗的な害悪シンキングは厳に慎むべきであろう。
実際、俺は東が来るまでの間みっともなくそわそわとし、とてもじゃないが経験者とはいえないような情けない落ち着きのなさを披露していたのだった。どのような状況においても凪が如き平心を保てないのであれば競技者として劣弱。戦士とはいえない。
だが、言い訳がましいのだが、そうした精神の揺らぎが生じたのには理由があった。例の志村君が俺のすぐ隣に陣取ってぬけぬけとストレッチなどをしていたのである。気まずいといったらないだろう。おまけにこっちをひと睨みしただけで無視を通すのだからたまらなくきまりが悪い。きっと元来の性悪に加え、学生時代の暗黒陰気に当てられて根性がひん曲がってしまったのだろう。グッバイ人徳フォーエバー南無阿弥陀ご愁傷である。
「シンちゃん! 東来たで! スゲー
既に観戦モードとなった小木の惰声が整わぬ心気をより掻き乱す。
競ってきている?
どこのチームと?
もしかしたら……いやいや、そんなでき過ぎた事態が起こるはずが……
「来たでシンちゃん! 早よ! 準備早よ!」
一々うるさくまくし立てる小木のアホのおかげで逆に冷静となりコースを眺めると確かに東がそこまで来ていた(視力の低下が著しく100m近くまで接近されないとどこの誰だか分かったのだ)。そして鍔迫り合いのように接戦を繰り広げるはまさかまさかの……いや、やはりやはりの白ユニフォーム。相手はあの、ジョージの子供を
しのぎを削る二者! 互いに一歩も譲らぬデッドヒート! スピードこそないものの手に汗握る激戦! 果たして勝負の行方は……!
「佐藤! よろしく!」
僅差で東に軍配が上がる!
スパートでの勝利は実力の証明! 東は走力はあの中年を上回ったのだ!
「多田さんありがとうございます!」
しかしその差は吐息一つ。すぐ後ろで志村君が襷の受け取りを済ませた事がうかがえる。
迫る足音並ぶ肩。僅かなアドバンテージは刹那にて崩れた。開始早々バチバチの修羅場。引くに引けぬラストバトルの幕開けである!
……きっつい。
それは弱音もでるだろう。
弛んだ体はもういっぱいいっぱい。死に体である。
200mまではよかった。
しかしそこから一挙に押し寄せるダメージ。大臀筋や半腱様筋や前脛骨筋が悲鳴を上げ肺は機能を落としている。一足進む毎に不可避な苦痛が俺を襲うのだ。思わずして眉をしかめてしまう。
対して志村君は平然としていた。まるでペース走でもしているかのように涼しい顔をして淡々と進んでいくのだ。やはり毎日走っている分、あちらの方が上手かと苛立つ。付け焼き刃ではどうしたって分が悪い。
しかし。
しかしなのである。
ここで「はいはい負け負け負けました」と情けなく諦めるわけにはいかないのだ。腐っても元地方ランカー。県下五指と謳われた佐藤の名は伊達ではないと証明しなければ気が済まない。
「……!」
俺は息吹による集気法によって無理やり身体を整えた。全身ズタボロなのに変わりはないが、気持ち的には楽になる。
いける。まだいける。俺ならいける。勝てる。走れる。
先は負けたが今度は勝つぞという気概が生まれていた。どれだけへこたれようとも雪辱を晴らしたいと思うのは性であろう。走って負ければ悔しい。日に二度敗北の辛酸を舐めてなるものかと意地が湧く。食らい付き、呑み込んでやると無茶を敢行。いよいよ死ぬかもしれなかったが、この時既に俺の頭はおかしくなっていた。正気にては大業ならずと死狂いとなり、兎にも角にも勝利の二文字がチラついて仕様がなかったのだ。
……?
まさにその必死が俺に気付きを与えた。
隣で走る志村君の異変。
……妙だな。
最初は足音の不規則だった。通常、走っているとき人は一定のリズムを叩くのだが、どういうわけか志村君にはそれがない。タイミングや強弱がことごとく変調しているのだ。
……なるほど。膝か。
俺は即座に理解した。志村君は膝を庇って走っているのだと。奴の脚はもう限界が近かったのだと!
恐らく痛み止めくらいは飲んでいただろうが、志村君の性格上あまりに強力な作用を持つ鎮痛剤を使っているは考えにくい。せいぜい一時的に感覚が麻痺するくらいのものに違いなく、思い切った無理は効かない類であろう。これは経験談であるが、弱い薬は往々にして持続性がない。つまるとこ、志村君は服用した錠剤だか顆粒の薬効が切れたのだ。
これはガチでいけるかも分からんね。
芽生える勝機。抱いていた勝ち気に現実味が加味される。
手負い一人を相手に追い込みをかけるなど人道に反するようにも思えるが、スタートラインを超えた瞬間、怪我人だろうが病人だろうが等しく平等となるのが陸上競技である。それは志村君も承知していよう。恨むのであれば自己管理を怠った過去の自分であり俺ではない。
悪いが付け入らせてもらう。
勝負とは非情なものだ。勝ち負けには貴賎も優劣もない。現実として勝者と敗者が決まるだけである。であれば目指すは一つ。勝利の二文字。俺は改めてフォームを正し速度を徐々に、確かに上げていった。
決めてやる! 死ね! 志村君!
一足先行。出し抜く事に成功。あとはもう志村君が痛みに負けてへばっていくのを待つだけ。楽なものだ。勝利の美酒に酔いしれるのはこの俺……
の、はずだった。
100m
200m
300m
離れない。
志村君は影のようについてくる。息を切らせ、バタバタと情けない音を立てながらも、絶えず、絶えず……!
マジかよこいつ!
先を走るのは俺である。だが、焦りと恐れが大きくなっていく。後ろを見れば奴と目が合い、不敵な笑みを返される。
怖い……
怖い。
怖い!
心音が乱れる。
絶対有利な状況において俺は余裕を失っていた。それは、昔野犬に襲われて必死に逃げていた時と同じ心境であった。
レース中に決して味わった事のなかった、潜在的な危機意識を、俺は志村君に対して抱いたのだ。
こいつ……
吐く息が重なる。
追い付かれ、再び並んで走るはめになったのは、襷渡しから1200mを過ぎた頃だった。
勝負はまだ決しない。
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