第15話
次の出番まで後4走。それまでにリカバリーしておかなければ間違いなく死んでしまう。俺は屍人のように待機場のブルーシートに横たわり汗が引くのを待った(他の者は応援で出払っており先まで留守番をしていた東は嫁が来たと行って駐車場まで迎えにいった)。陽が遮断された晩春の風は程好い塩梅。皆と等しく俺をかついだ東の愚劣には腹を立てたが、やはりテントを用意したのはグッジョブである。そのまま眠ってしまいそうなくらいに力が抜けていく……
小鳥のさえずりに心音が重なり、泥に沈むような微睡みを感じていく最中。このまま順番が回ってくるまで寝てしまってもいいなと夢現な時であった。
「おや。ペースを上げておいてタレた佐藤君じゃないか」
嫌な声が聞こえ目を覚ますと、俺を見下ろす志村君がそこにいた。
わざわざ嫌味を言うために他人のチームの待機場まで来たのだろうか。ご苦労な事だ。こいつはきっと友達がいない。
「何か用ですか」
「いや、ダウン中にへばっている君を見つけてね。今どんな気分なのか聞いてみたくなったのさ」
嘘だな。絶対俺に文句を言いに来たに違いない。つくづくカスみたいな人格である。絶対友達がいない。
「どうでもいいんですがどっかへ行ってくれませんか。俺は疲れているんです」
驕り固まった人間と話す舌などない為お帰り願いたくぞんざいに扱う。仮にお茶漬けがあれば香の物と一緒に膳で出してやっていたところだ。
「随分じゃないか。しかし謝罪でもあっていいと思うんだけどな。雑魚なのに張り合ってしまってすみませんって、言葉にしてもらいたいんだけど」
食い下がってくる志村君。なんという性格の悪さだろうかと閉口。こうした手合いがいるというだけで世界平和が実現不可能だと実感できる。何ともはや救い難い。
「はいはい。すみませんすみません。もう二度と走らないので許してください」
困り果てた俺はどうしようもなくなり形ばかりの謝意を述べて場を収めようとした。勿論ではあるが不本意の極みであり本来ならば絶対に頭など下げたくはないのだが致し方のない場面。陰険な陰気野郎とは距離をおきたい。
だがそのあからさまな態度が気に障ったようで、志村君はわざわざ身を屈めてメンチを切り腐ったのであった。
「喧嘩売ってる?」
迫力のない啖呵が俺を襲った。凄みを出そうとして半笑いとなっているのが逆にダサく、ヤンキー漫画の真似をしている中学生のようで笑いを堪えるのに必死になる。人を殴った事もないような拳に、殴られた事もないような甘っちょろい面で凄むのが何とも珍妙であり、なんとしてでも舐められまいと食って掛かってくるのがおかしくてたまらなかった。
「いや、だから謝ってるじゃないですか。分からない人だなぁもう。足りないんすか? ならいくらでも謝ってやりますよ。サーセンサーセン! ドーモサーセンシタ! はい! 満足しましたか!?」
ここまでくるともう面白くって仕方なく、俺はついからかってみたくなって仕様がなくなってしまって、わざと相手が怒るようなふざけた問答をしてみる。すると予想通り、志村君の顔は引きつり、眉間に皺を寄せて今にも掴みかかってきそうな形相を見せた。
殴るなら殴れ。
ぐっと吐き出したい言葉を飲み込む。内心愉快で仕方がなかったがあえてこれ以上挑発するような言葉は避けた方がいいだろうと理知が働いたのだ。我ながら小賢しいとは思うが、大の大人がそう容易く売り言葉に買い言葉を実行してはいけない。子供時分とは違うのだ。喧嘩をするにしても考えて事を運ばねばならない。そうでなければ即座に公僕やら裁判官にお世話になってしまう。奸計は慎重かつ大胆に。それが社会人のルールである。
「君、本当に……!」
戦慄く腕から暴力の香りがした。さてはこいつ殴る気だなと少し見直す。いや、殴られるのも覚悟の上で減らず口を叩いたのだが、このままグダグダとつまらない文句を吐き出して退散するかと思ったていた為意外。存外気骨がある。
まぁ手を出されたら然るべき処置をさせていただくわけだが。それはそれ。これはこれだ。
前回お仲間がやらかした際は見逃したが二度目はない。如何に田舎とはいえ白昼堂々と危害を加えれば文句なしでギルティである。周囲も理解してくれるだろう。パンチ一発で前科一般だ。可哀想だが仕方がない。俺は腹を据えて痛みに耐える準備をした。歯の一本くらいは捨てる覚悟があった。
しかしそうはならなかった。
「シン君! 来たよ!」
花代と東と東の嫁がやって来たのである。
「あぁ……」
テンションが張っている花代とは対照的に東と東の嫁は志村君を見て嫌な顔をし、志村君もバツが悪そうに俺から離れて立ち上がった。もはや殴る殴らないという雰囲気でもない。この場はお流れ。ノーコンテストで終了である。志村君は本当に運が良い。傷害罪というつまらぬ汚名を被る必要がなくなったのだから。
「東さんに聞いたんだけど、まだ走るんだよね?」
事情を知らぬ花代はいつになく機嫌が良さそうであった。普段インドア派だからたまに外に出ると楽しいのだろう。どうせすぐ飽きるのだろうが。
「あぁ……あと40分くらい後かな……」
「ならよかった。せっかく来たんだから見ないとね。シン君の走るとこ」
照れた様子で身をくねらせる花代を見て俺も顔が熱くなった。公衆の面前で嫁と話すのは思いの外身を硬くさせ汗を拭き出させる。まだまだ若いなとポジティブに捉えられるが、童貞気分が抜けていないともいう。
しかし良い体験であった。甘酸っぱい恋の果実に口付けをしているようだ。失われた青春の残り火が勢いを増し、経験する事のなかったラブ&ドラマチックを見事に演出しているのだ。素晴らしいではないか。
「おい。今、何て言った?」
その素晴らしい時間を邪魔をする奴がどこのどいつかというと志村君である。こいつは本当に空気が読めない社会不適合者だ。哀れなものである。
「何がですか?」
「まだ走るって、君、一区で終わりじゃないのかい!?」
「はぁ……6区も走りますけど……」
「……」
まくしたててきたと思ったら今度は考え込むようにして黙りこくってしまった。情緒の起伏がおかしい。俺はいよいよ志村君が精神の均衡を失っているのではないかと思い始める。
「分かった。僕もアンカーを走る」
「はぁ?」
何が分かったのかさっぱり分からなかったし、今考えてもさっぱり分からない。やはり志村君はどこかおかしいのだ。しかし色々と面倒なのでこれ以上志村君の心境についての考察はしないでおく。
「それじゃあ、僕も準備してくる。佐藤君。逃げるなよ」
そう言って志村君は走って消えていった。
俺は花代と東と東の嫁に目配せをしてから、わざとらしく「さっぱり」というジェスチャーをしてため息を吐き、消え去った眠気を惜しんだ。
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