第14話

「それでは位置について。用意……」


 静寂。息を呑む一瞬。破裂しそうな心臓が苦しく、口から臓物が出てきそうになる。

 スタート直前の緊張感はどうしたって慣れない。それはどれだけ小さなレースでも全国規模の大会でも等しく同じである。相手を見くびる事はあっても試合のを見くびった事は一度もない。何処で誰と走ろうとも、戦いは戦いなのである。手など抜けようはずがないのだ。


 !


 満を持して炸裂する火薬。戦の狼煙が上がり、争いの火蓋が切って落とされた。

 刹那、踏み出す。位置取りは良好。開幕は抜かりなく万全。


 存外状況を観察する余裕があった。いち早く駆け抜けんとダッシュを決め込む者や落ち着いた様子でペースを作る者それぞれで、小規模かつ低レベルながらも各々が思惑を持ってレースに挑んでいく。

 そんな中で俺はというと一歩引いていた周囲に溶け込み、群体となってスイミーのように距離を進んでいた。他人の息遣いや気配が不快不愉快この上ない。現役時代、集団が嫌いだったのを思い出す。


 ……出るか。


 自身の走力に手ごたえを感じ飛び出す。人壁しか見えなかった視界が開け草花の優美が目に入る。このままコースを外れ近場を散歩できたらどれ程素敵か。時間の浪費を儚むばかりであったが、ともかく脱出に成功し一人で走れる状況となった。この方が気楽でいい。


 1000mを過ぎた。通過は3分20秒弱。

 想定よりもスピードが出ていた。実際かなり速い。4分ペースで完走できればいいだろうと思っていたが、日々の練習の成果とエンドルフィンの分泌により少々ペースを上げ過ぎてしまったようだ。

 長距離走において通過タイムが設定より早いというのは負債と同じだ。前半に時間的余裕を作れば後に来る勝負所で身が持たなくなる。3000mくらいならば勢いでいけなくもないがそれは現役陸上マンに限った話で、俺のような引退済みの人間が調子にのってガンガンいこうぜとハイテンションに進むめばたちどころにHP0しぼうとなってしまう。それに俺はこのまま走って終わりではない。あと1セット同じ距離が残っているのだ。となれば無理は禁物。ここは一旦後ろに下がり、余力を持って終わるのが吉である。そう冷静な判断を下そうとしたのだが、俺は見つけてしまったのだった。


 前方に見える鼻持ちならない白いユニフォーム。フォームを崩さず淡々と走る憎らしい姿。背中からでも伝わってくるひねたアイロニー。

 それは紛れもなく、あの志村君であった。


 どうしたものか。


 放っておいてもよかった。

 別に無理して争う必要もなし。勝つ気など最初からなかったのだから、一人先行させて気持ちよくたすきを繋げてさせてやっても別にかまわなかった。

 が、志村君を捉えた瞬間。心臓が躍び跳ね欲が出てしまった。あのいけ好かない皮肉屋のクソ野朗を後ろから刺し込みたくなったのだ。


 そう思ったが最後。行動は完了している。

 チェスト都大路(高校陸上長距離界隈でブチ殺せの意)。志村君殺すべし。慈悲はない。

 俺は加速していく勢いにまかせ一挙に宿敵の隣へ躍り出た。肩を並べ、吐く息吸う息を重ね合い、チラリと横を見れば、相手もまたこちらを見ている。声なくとも以心伝心。決闘開始デュエルスタート。いずれが迅いかを競う、極めて単純かつ原始的な争いが始まったのだった。


 余裕あるなこいつ。


 200m程並走したところで気が付く志村君の様相。息遣い速度ともに一定で、「軽く汗を流してます」といった面持ち。ペース的には3分20秒といったところ。さすが毎日馬鹿みたいに走っているだけの事はある。志村君はこのままのスピードを維持し、爽快にスパートをキメる算段だと察する。いわゆるセコスパをやるつもりなのだ。


 そうはさせるか……


 闘争心のメーターが振り切れる。よせばいいのに俺はピッチを上げて前へ出た。相手のペースを乱す思惑。案の定、志村君は追随してくる。戦いが始まった以上捨て置くわけにはいかないというランナーの本質を突いた作戦である。が、これは自らの体力と引き換えとなる諸刃の剣。素人にはオススメできない。


 残り1000m強。ここからが本番である。

 想定外のペースアップで俺のスタミナは切れかけていた。ガス欠一直線である。しかし無闇にスピードを落とすわけにはいかない。このまま当たり前のように志村君に抜かれたらとんだ赤っ恥。仕掛け損である。せめてラスト半分を切るくらいまで粘らねば切腹も免れない屈辱を被る事になるだろう。それはいかん。許せん。

 負けるにしても負け方というものがあるのだ。おいそれと先陣を譲ってやっては名が廃る。俺は僅かに残った意地に掛け志村君との競り合いを続けた。余力はほぼ0。このまま走りきれるわけはなく、既に負けを認めた状態。待つは相手の本気である。俺と同じく志村君のHPも幾らか削れた筈だ。然るに、魂を振り絞った疾走を志村君が見せればまだ面目が保たれるというもの。余裕綽々で襷を渡されるなどさせてなるものかと、息絶え絶えに必死で喰らい付く。そうして……!


 ……お。


 ようやく志村君が先駆けに打って出た。幾らか息が荒くなっているのを聞くに、本気になったのだろう。やっとだ。グングンと進んでいく白いユニフォームを見ながら俺は安堵し、ゆっくりと距離を置いていった。

 ちなみに2000mのスプリットは6分20秒だった。速すぎだ馬鹿。


 その後俺はみるみるとペースダウンし、いつしか元いた集団に呑み込まれてしまって、まるで消化試合をこなすように最後の直線に差し掛かった。周りは一歩でも先に行かんとダッシュ&ダッシュであったが、燃え尽きてしまった俺には申し訳程度にストライドを伸ばした「頑張りました」アピールをする事しかできなかった。南無三である。


「シンちゃん! ここやで! ここ!」


 うるさい主張に気付く。二区を走る小木の声だ。朦朧とする中で奴の声は障る。脳を直接殴るような悪声に身体の力が抜けていく。獅子身中の虫め。静かに待っていろという話しだ。


「はいはい。よろしく」


 

 苛々を募らせ襷を繋ぐ。誰彼に向けられた声援を背にゴールインし第一走終了。

 記録は10分30秒。後半に面白いくらいに失速してしまったが致し方なし。疲労困憊の俺はフラフラになりながらスタート前に脱いだウィンドブレーカーを回収し、待機場へと戻った(誰も出迎えに来なかった)。

 筋肉はボロボロ。息は絶え絶え。このあともう一度走らねばならぬと思うと泣きそうになったが、際どく理性が勝り涙腺を閉じたままにしておく事ができた。

 しかし、二走目にどうなるかは、分からなかった。

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