第12話
かくして市民駅伝大会本番の日を迎えた。
前日にミーティングがあったが別段語る事もないくだらぬ内容だった為あまり覚えていない。ただ「頑張ろう」といった感じで無駄に熱苦しいだけだった。
やる気になっていたのは奴らだけではない。当日、朝起きて寝室を出ると重箱が用意してあり、中には卵焼きやらエビフライやらが綺麗に並べて入れられていた。まるで運動会である。
「あらおはよう」
白々しく挨拶をする花代は赤飯をアゲに詰めていた。俺の好物である。
「どうしたの。こんなご馳走」
花代と同じように俺も白々しく聞く。答えは分かっているが、一種の様式美のようなものだ。
「決まってるじゃない。シン君のお昼ご飯よ。この前たまたま東さんの奥さんと会って、一緒に応援に行きましょうってなったのよ。車、出していただけるんですって」
東の嫁さんと出会ったというのは初耳であり、それ以前にいつどこで知り合ったのか謎であったが、敢えて聞く必要もないなとスルーして「そうかいありがとう」と礼を述べるだけに留めた。妙な事を聞くと朝から長話に付き合わされかねない。泣いた子を起こすような真似は控えるべきだ。それよりも、出不精の花代がわざわざ弁当までこさえて来てくれるのであれば、無理を承知でお願いを聞いてもらおうと、俺は恐る恐る口を開いた。
「ところで、今日来ていただけるなら一つ頼みたいのだけれど……」
「なに?」
「実は……」
……
「……別にいいけど、なんで?」
「まぁ、色々と……」
少々荷物が増える為少し躊躇われたが言ってみるものだ。持つべきものは善き妻である。俺は礼を述べ、「朝ご飯も作ったのよ」と出していただいたキュウリの塩昆布和えと卵焼きと味噌汁をありがたくいただいた。中々に美味であった。
身支度をして待つ事数十分。「ついたで」と小木からのメッセージを受信した俺は「行ってきます」と部屋を出た。マンション入り口前には例の高級セダンがアイドリングしていな。忌々しい。
「おはようシンちゃん! 体調はどうやよ! 区間賞とれそう!?」
朝から騒音を撒き散らすのはご近所付き合いが希薄だからだろうか。いや、違うな。単に馬鹿なだけだ。周りの迷惑ん省みず大声で騒ぎ立てる愚かぶりはさすがといったところ。せっかくの消音仕様の車がまるで意味をなしていない。
「朝からうるさい。早く出してくれ」
車を出してもらうというのに我ながら偉そうだなと思ったがマナー違反は口を大にして訴えていかなければならない。不心得者とて良心に訴えれば改心する。ならば俺の行いは間違っていないだろう。正義は俺にある。
しかし小木に一般常識は通じなかった。
「なんやよお前ぇ〜緊張しとるんかてぇ〜そんなんで走れるんかぁ〜?」
小木は声を下げるどころかより大きく喚いた。自らの行いを鑑みる事ができない田舎者の立ち振る舞いである。
「いいから! 近所迷惑だから早く出せ!」
つい釣られて怒鳴ってしまった。たちまちに着信通知。「うるさい」という花代からのメッセージである。この時ばかりは猛省し、俺は「とにかく」と勝手に車に乗り込んで出発を急かした。それでも小木はニヤケ面を晒し続け、試合会場に着くまで無用な腹立ちを感じ続けなければならなかった。
そんな道中に、こんな会話がなされた。
「そういえばまだ区間決まってないんやけど、どこがいい?」
「……あぁ、当日でいいって言ってたなそういえば」
区間など本来は試合事前に運営に提出するはずなのだが、実はこの駅伝。会場の周りをグルグルと6周するリレー形式で、区間どころか走る回数も自由なのであった。4人以上7人以下であれば誰がどのような順番で走ってもよく、極端な話、一人で走り切っても問題はない。市民大会とはいえ適当過ぎやしないかと呆れてしまったが、まぁそんなものなのだろう。
「さっさと終わらせたいから1区で」
そう述べると、小木は「了解了解」と、信号待ち中にスマートフォンを操作した。メモにでも走順をまとめていたのだろう。
ともかくとして、あとはもう走るだけである。3キロの地獄はおもったよりも長いのだが、腹をくくるしかない。
会場に到着すると既に東が場所を取っており、わざわざタープテントまで張ってくれていた。さすができる男である。週末は家族でバーベキューなどを開いているのだろう。羨ましい限りだ。
「東。すまんな。嫁が世話になるようで……」
「あぁ、構わんよ。うちの嫁さんも喜んどったし」
せっかくなので花代の送迎について礼を述べておいた。できれば頭など下げたくはないが東ならばまぁいいだろう。案の定返答は百点満点。これならば地を見る不愉快も軽減されるというものである。
「乗り合わせでついでに貝合わせなんて事にならなければいいよなぁ」
「……」
ジョージの悪質なジョークは聞かなかった事にした。反応するだけで品性が低下してしまう。
ちなみにそのジョージの嫁と息子は2人で隣県の動物園へ遊びに行ったそうだ。聞くところによると、子供の方はあの事件以来少し大人しくなったらしい。中年親父の暴挙は許し難い蛮行であったが、どうやら荒療治としての効能を発揮したようである。結果オーライとはいわないまでも、良い経験にはなっただろう。人生とは時に厳しく上手くいかぬものなのだ。人は苦しみや悲しみを経て成長するもので、嫌な事を乗り越えてこそ次の日ステージに進めるのである。若い頃の苦労は買ってでもしろとか可愛い子には旅させよとか、昔の人はよく言ったものではないか。
とはいえ、そんなものは子供の頃だけでいい。艱難辛苦など大人にとっては無駄な苦労。寿命を縮めるだけで全く意味のない無益な行いだ。本当に、実に、神以って……
「あれ? まっつんは?」
「そういやおらんな……」
東が気付き、小木がスマートフォンを見る。途端に、苦笑。
「どうしたん」
気になる皆々。例に漏れず、俺も小木を見据える。
「……まっつん、今日走るのやめるってよ」
「……はぁ?」
どよめく一同。当たり前だ。大会当日に参加拒否など信頼を根底から覆し崩壊させる所業。普通の人間ならばできるはずのない暴挙である。到底許されるものではない。
が、話し合うべきは奴の度し難い不義理についてではない。その時、最も重要であったのは……
「そうなると、誰かが2回走らんと……」
そう。果たして誰が、
「……1区の奴がアンカーやるしかないなぁ」
坂田である。久しぶりに喋ったと思えば余計な事を言う!
「小木ちゃん。1区は誰なん」
小木の視線が俺に向けれれると、他の奴らもこぞって俺を見据えた。
それはまさしく、悪夢であった。
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