第11話

 メンバーが再度集結したのはそれから2日後の事だった。志村君らの無法者チームとの衝突を避ける為に場所は競技場ではなく一往復2kmのロードコースがある公園である。そのスタート地点のグラウンドにて、東にジョージにまっつんに坂田。皆、小木の声に応じ再び相見えたのだ。


 正直な話しこいつら馬鹿かと思った。

 今更おめおめと雁首そろえて「色々あったけどやっぱり頑張ろう」などと申すか。阿呆の一言に尽きる。そんなに走りたいのかお前ら。絶対嘘だろ。頭おかしいのか。本当におめでたい奴らだ。腹立たしい。シーツのシミになったパパの精子がママの割れ目に入ってできたのがお前だと罵ってやりたいくらいだった。

 だが空気は読まねばならなかった。あんな悶着があったのにも関わらず皆忙しい中やってきたのだ。俺一人が文句を言って場を白けさせるのはよくない。それにこの集まり。発端は俺が走っていた事を目撃されたからである。この場で「駅伝なんざやっていられるか」と叫ぼうものならたちどころに悪逆非道なる冷血人間の悪評が広まり花代共々ムラハチ確定だ。田舎の同調圧力は紙幣の次に強力なパワーを持っている。その矛先を我が家庭に向けられるわけにはいかなかった。

 希望は絶たれたのだ。もはやおとなしく競走馬のように走るしか道はなくなったのである。


「佐藤。小木ちゃんから聞いたぞ。しっかり走っどったんやなぁ」


「いや……」


「頑張るよなぁ。夜の方も凄いんやろ? 羨ましいなぁ……」


「……」


 東とジョージが親しげに肩を組んできた。子供じゃないのだからやめてほしかったのだが、ありがた迷惑な事に本人達は俺をマブダチ認定してくれているらしく止むに止まれず共に笑い合うなどという醜態を晒したのだった。思い返すと怖気が走り肌が粟立つ。まったく馬鹿な義理を立てねばならぬものだ。


 肝心の練習はそこそこの追い込みがなされた。基本はチーム別の4000mから6000mのペースランニング。その後に100mの流しを5本ないし8本。終わったものからクールダウンを15分行い、最後に腕立て腹筋背筋を30回3セットを経て終了となる。

 はっきりいってこのメニューは堪えた。本当に止めたかった。正直途中離脱を考えた事は一度や二度ではない。なんなら1m毎に立ち止まってやりたいくらいであった。しかし、その度に逃げてたまるかという面倒この上ない負けん気と花代の影がチラつき身体と魂を突き動かすのだ。退路が断たれた以上、残るは死ぬか戦うかである。果てる覚悟のない俺は遮二無二戦い続ける他なかった。生涯嫁に半端者と冷視されるなどまっぴらだと、絶え絶えの息を呑み込み苦難を乗り越え俺は打ち勝った。勝ち続けた。毎日毎日仕事終わりに嫌というほど走り心身を痛めながらも決してへこたれたりはしなかった。もし神がいるのであれば祝福してくれていい。水をワインに変えたわけでも死者を蘇らせたわけでもないがともかく俺はやり遂げた。やり切ったのだ。なんとう悲壮。なんという感動。なんというドラマ。この壮絶な日々がカメラで撮られていたとしたら是非ともロッキーのテーマを編集で入れてもらいたい。俺はまさに戦う人間。ファイターであった。

 しかしながら他の人間は呑気なもので、東は「運動ってのはいいもんだな」と爽やかな汗を流し、ジョージは「走るとあっちの方も調子がいいんだ」と下衆付き、まっつんはへらへらして、坂田は坂田であり、それを束ねる小木のテンションの上がりに上がり、総じてクソであった。見ているとそれだけで不愉快になるのは単に目障り耳障りなだけかもしれないし、もしかしたら羨望かもしれない。どちらにせよ俺は、皆が笑顔で陸上に興じる姿に理解不能な腹立たしさを覚えていた。

 いったい俺はなぜ楽しくないのか。奴らと同じように走り、同じように汗を流しているというのに、どうしてこうも心の持ちようが違ってくるのか。

 あいつらは長い距離を走る事にどうして喜びを得る事ができるのか。たった3キロを走る為に毎日毎日それ以上の距離を走らねばならず、走ったところで何か得られるわけじゃない。ただヘトヘトになって、帰って寝てしまうだけだ。それを盲目的にやれと言われて走りやがって、いったい何が目的だというのだ。頭に実がはいっていないのではないか。

 俺は言葉には出さなかったが不満を……違う。恐れを抱いていた。得体の知れない不可思議な生物と同じ空間にいるような、根源的に恐怖を感じていたのだ。奴らを人間として見る事ができず、虫や獣のように別種の生物として認識していた。これは今もそうなのだが、陸上が楽しいなどという狂気に染まった輩の心境を、俺は測れない。






「シンちゃん。今日ちょっと付き合えよ」


 試合まで残り2日となった頃、練習終わりに小木が酒の席に誘ってきた。金もないし面倒くさいしで断りたかったが、残念ながら同じ釜の飯を食った竹馬の知人。仕方なく「分かった」と述べ、一旦帰宅して赤提灯の暖簾をくぐった。

 設定した予算は英世3枚。ビール3杯にアテ2品。シメのカレーで丁度いい塩梅。飲み過ぎず食べ過ぎず、適度に嗜み小木の話を聞いてやろうという算段。ハメを外さぬよう心を強く持ち、俺は予約した席に腰を落として早速1杯目のビールを頼んだ。お通しは確かひじきときんぴらだったと思う。味付けは恐らく可もなく不可もなくといったところだろう。記憶が薄いという事は、つまりそういう事だ。


 宵の口を暇を持て余し店を眺める。変わり映えのない場末の居酒屋の風景など見ていてそう楽しいものでもない。一人で飲むには些か退屈な趣で時間の経過を長く感じた。そもそも一人で飲むのが久しぶりだった為に居座りの仕方を忘れていたのだと思う。間が持たず酒が進むと腹が減り、堪らずに焼き鳥の盛り合わせとマグロの漬けを注文した。小木など関係あるかと一人で始めるつもりだった。



「お待たせお待たせ」


 その小木が入店してきたのは丁度2杯目のビールが卓に届いた頃であった。タイミングが悪い。


「先にやっとるよ」


「見りゃ分かるて。おばちゃん。生ね」


 偉そうにビールを注文した小木は大袈裟に椅子に座り一息を吐いた。運ばれてきたビールの泡が消えていく。揃ったからには乾杯をせねばならず、俺は輪っかとなった純白の残滓を恨めしく眺めた。小木のビールが届きジョッキを重ねると、目減りした自らのビールのみすぼらしさに涙が出そうになった。せっかくの生ビールを殺してしまった後悔は、しばらく後を引く。


「しかし久しぶりやなぁシンちゃんと飲むの」


「そうやな」


 実際そんなに久しぶりでもないのだが適度に話しを合わせておいた。まともに取り合うだけ無駄である。


「それにしても、本当に助かったで。シンちゃんが走ってくれとらんかったら、また集まろうってならんかったでなぁ」


 そんな恩を売ったつもりはないのだがどうやら小木はいたく感動したようだった。暑苦しいのは苦手なので勘弁してほしかったが、感謝されるというのは悪い気はせす、俺はジョッキ片手に「そうかね」と気取った返事をして悦に浸った。

 その後は何を話したか記憶がない。覚えている事といえば3000円の予定だった出費が倍に膨れた事と、帰宅後に賜った花代の嫌味くらいのものである。

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