第10話

 3日経ち、5日経ち、二週間経っても相変わらず小木からの連絡はなかった。

 駅伝まで残り10日ばかり。これはもうないなと安心し俺は消化試合感覚で走っていた。市民駅伝などという糞イベントがないと思うと身体は軽くなり、まぁジョギング程度なら続けてもいいかなどと思ってしまっていたのが大変腹立たしい限りなのだが、その時の私は運動に慣れてしまっていて脳が麻痺してしまっていたのだった。

 そんなものだから、俺は迂闊にも小木の住む家の近くを、小木の帰るであろう時間に、すっとぼけた顔をして走ってしまったのだ。



「シンちゃん……シンちゃん!」


 背後から聞こえるクラクションと掃除機の吸い込み音のような声……俺はようやく、しまったと軽率な行いを悔いた。


「なんやシンちゃん! ちゃんと走っとるやないか!」


 返答に窮する。好きで走っているわけではないが、「嫁が走れとうるさくて」とも言い難く、さりとて「健康のためにね」などとほざいても嘘くさい。結局のところ「まぁね」と曖昧な肯定とともに首を縦に振るしかなく、俺は駅伝走りたいマンとして小木に認識されたに違いないのであった。


「なんやよお前〜あれだけ嫌や嫌や言っとったのにやる気やんか〜なんや〜お前〜えぇ〜?」


 馴れ馴れしいクソ面倒臭いスマイルを車窓越しから向けられた為に奴が乗るセダンでストⅡのボーナスステージを再現してやりたくなったがビートたけしのお家芸を奪うのもはばかられたので黙って乾いた笑いを漂わせておいた。我ながら冷静な判断である。

 

「じゃあ、俺まだ走るからまた」


 俺はさっさと立ち去るべく早口でまくし立てて背中を見せた。世間話などする気になれぬし、往来ででかい車が停まっていては邪魔にしかならない。それに、そもそも走っているところを見られたのが恥なのである。さっさとおさらばして、旅の恥ならぬ出先の恥をかき捨てたい気持ちでいっぱいとなっていたのだ。しかし。


「ちょっと待っとれよお前。一緒に走ろまい」


 嫌な誘いであった。正直断りたいばかりなのだがしかし、浮世に生きる以上は付き合いというのもあり無碍にするのも良くはない。俺は渋々「OK分かった」と義理堅く返事をし、「よっしゃあ」と声を上げて発信させた小木の憎たらしいセダンの後を追って、小木邸前で待機をするのであった。



 小木の家はよく知っていた。

 子供の頃によく訪れてはゲームをしたり漫画を読んだり菓子を食い散らかしたりしたものだ。隣の家のジジイが呻きながら徘徊したり道路で寝そべっていたりしていたのをよく目撃していたのを憶えている。小学生の頃に何度か鉢合わせては故郷を独唱され凄まじい恐怖を味わったものであるが、さすがにくたばったのか毛ほどの気配も感じなかった。あるのはよく伸びた松と柿の木が幾つばかり。昔からある古木である。しかしその古木がなんとも薄気味悪く、いないはずのジジイが根元で故郷を歌っているよるように思えてしまう。歳を重ね三十路を迎えても怖いものは怖い。若き日のトラウマは尾を引くものだ。




「おぅ! おまたせ!」


 小木が来たのは春の草木にジジイの幻覚を見せれていた最中であった。ノスタルジーとはいわないが、過去の幻影は思いの外俺を少年の頃に戻し薄暗い気持ちにさせた。あの時分はまったく能天気に生きられたものだ。日々何かしらに圧される今とは大違いではないか。


「とりあえず八幡神社まででええやろ」


「あぁ」


 俺は変わってしまったが小木は昔のまま、陽気で軽薄なまま成長したように思う。奴とて人間なのだから少なからず思うところがあり、感情の機微や思慮を波立たせる事もあったろうが、本質的には腰が軽く軟派な性分であり調子のいい俗物だ。根は小心だし、それを隠そうとして無闇に明るく振る舞う悪癖は見ていて痛々しい。

 しかし、だからこそ気取らずに付き合える部分がある。現に俺も、内心これほど小馬鹿にし見下しておきながら小木との関係が続いているのだ。奴は俺が昔に捨て去った純朴と不粋と傲慢を後生大事に持っている愚の権化であると同時に、俺が持ち得ない厚かましさが、より良くいえば気っ風の快さが、人に気心を通わせるのである。駅伝のメンバーが集まったのもそういった理由であろう。有り体にいえば人徳とでもいおうか。いや、それにしてはあまりに卑俗なので、ここは処世術が上手いという事にしておこう。


 そんな小木であるが俺の前では本性である蚤の心臓を曝け出すことがままあり、その日もまた、奴の取るに足らない不安を聞いたのだった。


「正直よぉ。駅伝は無理な気がしとるんだわ。東は嫁さんに反対されたみたいやし、ジョージんとこも子供がやられたわけやから……あと、まっつんもあんまりやりたがってない感じやしよぉ……」


 走りながら小木はしょぼくれた声で泣き言を吐いた。まぁそうだろうなという感想しかなかったが、そう言い切るのも薄情であるから、俺はしばらく考えるふりをしてから適当に触りのいい言葉を投げた。


「そうかもしれんが、もう一回聞いてみらたどうやよ。案外、みんな前向きな返事くれるかもしれんで」


 そんな面倒な事をするわけがないとタカをくくっていた。

 そもそも小木の口振りからしてご破算となっていると踏んでいたし、そうでなくともあの根気も意地もない小心者が今更「やっぱり一緒に走ろう」とはとても言えぬに違いないと見くびっていたのだ。それがとんだ見込み違いで侮り過ぎていたと後悔したのはすぐの事である。


「……せやな。もう一回誘ってみるわ」


 え、マジかお前。


 危うくそんな間抜けを口に出してしまうところであった。まさか小木がそんなに前向きに事を進めようとするとは思わなかったのだ。


「いやぁ……まぁ、無理かもしれんけどなぁ。どうしてやりたいんやったら、メンバー変更も考えたらどうや?」


 試合本番まで二週間とない状態でオファーを受ける人間などいるはずがない。とりあえず無理難題を提案してやる気を削ぐ策に出てみる。案に、止めろと言っているのだ。だが、思慮浅い小木がそんな腹を探れるわけもなく……


「いや、あのメンバーに声かけてみる。今更変えられん」


 ですよね。


 落胆と激しいやるせなさが俺を襲ったが冷静を装い「せやな」とだけ返事をしたが、「やめろ馬鹿。この話題は早くも終了ですね」と言いたくて堪らなかった。


 まったく、墓穴を掘ったものだ。

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