第9話

 しかしながら、大変遺憾ながら、まったく忌々しい事に、俺はジョギングによる集中力と想像力の向上効果を受け入れるしかなかった。ツツジとネモフィラが渾然一体となった、あの美しき青き華道の奇跡をこの手で作り出した以降、小木からの連絡がなくなり再びノースポーツの数日を過ごし余暇を十分に趣味へと費やせたのだが、あれを超える作品は終ぞできずにいたのだ。次々と作られていく駄作の数々に、俺は怒りのぶつけどころが分からず一人部屋で唸ったり頭を掻いたりして花代に不気味がられていたのだった。


「それなら走っちゃえばいいじゃない」


 思い悩んだ末、その花代に恥を忍んで相談をしたところいとも容易く走る事を推奨してきた。それをしたくないから狂気の瀬戸際まで追い詰められているのではないかと言いたかったがこちらからアドバイスを求めた手前相手の意見に反を述べるわけにもいかず、頷く他なく「もっともです」と相槌を打ちビールをちびと舐めて誤魔化したのだがそれで終わらぬのが花代である。すぐさま、「ねぇどうするの」と俺に進退を詰め寄ってきたのだった。

 彼女の信条は有言実行であり初志貫徹。意思決定に際してやや潔癖なきらいがあり融通の効かぬ面がある。やるといったらやる。やら無いといったらやらない。優柔不断など言語道断。人に聞いておいてごちゃごちゃ抜かすようならそれはもう龍神の逆鱗に触れるが如く灼熱火炎を吐かん勢いで激怒するだろう(そんなわけで俺は花代に頭が上がらないのだがこの話はよそう)。即決即断を迫られる場面。さらに言うなら答えも決まってしまっている。花代はこういう時やらない選択をする人間が嫌いなのだ。であればYES以外を口にするのは許されない。苦渋を呑み込む覚悟。こうなったら腹を決めるしかないのだ。


「まぁ、一週間くらいは……」


 不本意しかない決断を吐き出すともう明日が嫌になった。何一つ前向きになれない。

 作品の質が上がるのは喜ばしい事だが、それでも走るのは本当に本当に本当に嫌で嫌でしかたがない。それを一週間も続けなくてはならないとは不承不承。いってみれば浅層の地獄に等しい。如何に俗物とはいえ生きている間にそんな責め苦を受けねばならない人間であると自分では思っていなかったが花代に逆らうは修羅界での無限闘争に等しい。なればこれも宿命であると俺は受難を受け入れた。「一週間走ろう」と自ら宣言したのだ。が、花代は納得いかなかったようで、憮然としてまた口を開くのだった。


「何いってるの。駅伝まで走るのよ。なんなら、ずっと走ってもいいくらい」


 まさかの発言に俺は狼狽える。


「え、駅伝……いや、あの調子じゃ、多分ないかも……」


 冗談じゃない。妥協点とした一週間でもギリギリのライン。それをエントリーがほぼ絶望的な試合の日まで続けるなどと馬鹿を言う。冗談ではない。断固として拒否りたい所存である。所存であるが……


「まだなくなったってわけじゃないでしょう。もし参加するってなって、シン君が走れなかったら困るじゃない。それにお腹だってまだへこんでないし。しばらくは続けないと」


「……」


「嫌なの?」


「……いや、丁度俺も健康の為に走った方がいいなと考えているいたところなんだ」


「そう。ならよかった」


 当然嘘の報告であるし花代もそれは分かっているはずだが、あの場において必要なのは真偽ではなく言質であった。要は花代はどうあっても俺に走らせたいわけであり、俺の「走る」という決定が重要だったのである。どうやら花代は本気で弛んだ腹を改善してほしいらしく、また、それを形だけであれ、俺が自主的に行わねば我慢ならないらしかった。


「じゃあ、明日からね。ご飯は気にしなくて大丈夫。私が作るから」


「……ありがとう」


 ランニング月間の幕開けである。



 そして翌日から、仕事が終わると飲みの誘いも残業も断り(半分給料泥棒だからできる荒技である)一目散に帰宅して着替え、5kのロードワークを日課としてこなしていった。

 適当に走ればさして苦もなく終わる距離だがいかんせん俺は元ランナーであるからそういうわけにもいかない。最初こそ気楽にやろうとスタートするものの、3kを過ぎると身体が勝手にペースを上げてしまって戻る頃にはもうボロボロ。シンスプリントは痛いわ大腿筋は重いわ膝が熱を持って熱いわ肺がきしむわでポンコツ化してしまっているのだった。現役時代と比べて質も量も格段に落とした練習内容だというのに凄まじまいダメージである。体たらくとはいえぬが、身体能力と筋肉の衰えぶりが如実に現れ寄る年波にショックを受けた。自分から若さが失われた事をまざまざと実感するのが、なんとも言えず物悲しかったのだ。


 また、体力ばかりでなく食事においても自分の老化を突きつけられた。

 走り終え帰宅すると約束通り花代が夕食を作って待ってくれているわけだが(残業やらの諸事情で遅れる事もあったが)、フラフラになって帰ってくると食事の摂取にかなり時間がかかるのである。胃が、喉が、疲労のあまり閉じてしまうのだ。10代の頃は30kの距離を走っても平気で食べられていたのだが米粒一つ口に入れるのに随分難儀してしまう。なんならペースランニングの途中であってもステーキを頬張れたろうに、白身魚やササミのボイルを平らげるのに苦労するとは、己の弱体化ぶりにがくりとなる。せっかく愛し君の作った料理なので完食はするのだが(料理が苦手なのに梅肉ソースを自作したり下茹でしたりと手の込んだ仕事をしてくれたりしていた)、一食終わらせるのに1時間近くかけなくてはならないのだから結構な作業だ。

 だが食べなければならない。身体を動かすのであれば食事は必須。食べる事は練習の一環と考えても差し支えがない。食わねば走れぬ。走るならば食わねばならぬのだ。


「おかわり……おかわりをしたいが、いいだろうか……」


「もちろん。盛ったげる。たんと食べて」


 山盛りとなって帰ってくる茶碗にえづきそうになる毎日。しかし吐く事は許されない。健康とパフォーマンスの向上はまず食事から。肉体を作らねばなんともならぬ。期間中。俺は長らく食事に就き白米を胃に入れると、必ずお代わりをし、また時間をかけて二杯目の椀を空にするのだった。そうして洗い物を終わらせようやく一段落。しばらく休んだ後に筋トレをこなし、花を活けるという日を続けた。


 悲しい事に、やはり走った後に作った作品は、それまでの駄作と比べ、一味も二味も違うのだった。

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