第8話

 自宅から駅まで片道約500m。往復すれば未走破分を達しなお釣りがくる距離である。帳尻を合わせているようで締まらない感は否めないがともかくこれで良しとし人目をはばからず走った。

 現役時は気にならなかったが退いてみると案外通行人の視線が気になるもので、自分のランニングフォームなどが変妙ではないかとか顔がくずれていないかとか小さな不安が尽きず、挙句、途中女子高生などが俺を見てクスクスと笑わらっているようにも思えたが、そんな風に拗らせたままいると疲れてしまって、往路を走る頃には笑わば笑えと開き直るようにしていた。無理のない有酸素運動はセロトニンを増やし脳をハッピーにするらしいのだが、確かに、楽しいとはいかずとも程度の爽快感は体験できていたかもしれず、軽度のヘブン状態だったのかもしれない。




「ただいま!」


 30分後に意気がやや揚がった状態で帰宅した。結局1キロ程度走ったところで意味がないと勇み、内容を5キロのロードワークへと変更(本練習より長く走ったが長距離をやるうえではよくある事である)。さすがに足が重いが達成感はある。


「お帰り。走ってきたの? 今日小木さんと走りにいったのに?」


 混迷を極める花代の問いに「後で話す」と一旦蓋してシャワーへ直行。汗が張り付いた不潔な身体を洗い流し早々とビールにありつきたいばかりの欲望に任せて乱雑に服を脱ぎ最大にした水圧で身体を清めたのだった。


「ビールビール」


 砂漠で水を求めるが如く。あるいは真冬にラーメン屋を探すが如く、俺の心はビールに焦がれていた。その日に起こった事など既に頭の中にはなく、悪魔に魂を売り渡してでも一杯のビールで喉を鳴らしたい願望に取り憑かれていたのだ。が……



 冷蔵庫を開けて固まる。あったはずのビールがない。どういうわけだと考えるが解は一瞬。俺はその日の朝に見たビールの空き缶の事をすっかり失念し、黒ラベルがまだ一本あると錯覚していたのだった。

 見渡せど見渡せどアルコールなし。どれだけ眺めてもないものはく、冷蔵庫の冷気が火照った身体を虚しく冷ますばかり。

 ないと分かると心を埋めているビールへの欲求は俄然強まる。あるいは酒いっぱいの海に溺れられればいいのにと落ちゆく。


「ちょっと。閉めてちょうだい」


 花代の苦言に耳を痛め現実に帰らざるを得なくなり渋々とお茶を手にして冷蔵庫から顔を引っ込める。諸行無常。 世界とはまさしく残酷に人を弄ぶものだと悟り、俺は涙を堪えた。



「どうだったの。今日。楽しかった?」


 そんな気など知らぬとばかりに花代が付けっ放しのテレビを見ながらそう聞くので、 俺はその日あった事を話してやった。花代はおおよその事情を知ると、「お子さんに怪我がなくてよかった」と短く感想を述べ、控え目にいって退屈な内容のバラエティ番組をこれまた退屈そうに眺めたのだった。どうやら特番で毎日観ているドラマが潰れたらしい。


「ちょっと、活けてくる」


 知名度だけの芸能人を集めてくだらないコーナーを垂れ流すお粗末な放送を見る気にはなれず、俺は趣味の部屋にこもる事にした。酒がない以上、逃げる道は花しかない。失われた酩酊の背徳と怠惰を糧にし、我欲を芸術へ昇華させんと作業台の前に立った。用意したのはツツジとネモフィラ。試行錯誤。トライアンドエラー。重ね、試し、幾度となく繰り返し、ようやっと定まりそれぞれ花器に飾り、観る。観た。魅入った。


 艶やかな薄赤紫と淡いブルーが並び添う一画。一箇所だけ切り出されたかのような、非現実的な神秘。香るファインウェザーの寵愛が、肉体を突き抜け魂を照らす。


 俺はよく知る懐かしい感覚の中にいるのを実感していた。疲弊しているにも関わらず冴える神経。頭は研ぎ澄まされ晴々と開けていく。気が付けば泡肌が立ち呼吸のリズムが変わっていた。それは昔、レース直前に嫌という程経験したことのある精神の領域だった。所謂ゾーン体験。超集中の状態である。

 

 これは美しい。


 自画自賛の感想が生まれ、無意識に俺が活けた華を讃えていた。

 これまでの作品とは明らかに違うでき栄え。可憐にして荘厳。愛らしくも威風堂々たる滋味。まさに神秘の顕現。華の妙味。圧縮、凝縮された小宇宙コスモが膨らみ想像イマジネーション創造ビックバンを経て、俺の魂が新たなステージへと到達したのである。


 しかしいったいなぜ……


 業前が深くなったのは喜ばしい事だが慣れない傑作を前に戸惑いを隠せず、突然開花した才にある種の恐怖を覚える。どうにも棚ぼた式に過ぎた力が手に入れてしまったようで気持ちが悪いのだ。

 本来、技術とは日々の練磨によって気付かぬ内に向上するもので、ある日突然急に上手になるなどという馬鹿な話はまずないのである。或いは、神の気紛れめいた偶然の産物という可能性もなくはないが、それにしては俺の意識が先鋭となり過ぎていた。

 俺は確かに考えて花を活けた。何となしに、適当に花器に刺したというのであれば、なるほど雅な悪戯だなと小粋に笑えるものだがそうではないのである。偶発とは意図しない、蓋然の入り込む余地のないまったくの無秩序から生じるものであるわけだから、自らの意思で形作ったのであれば、これはもう必然。できて当然の確定事項なのだ。


 しばし放心。血が冷ていくような感覚で我に帰る。瞬間、滲み出す汗。脱力とともに感覚が鈍くなっていき、肩こりや腰痛が意識される。過度の集中が切れた瞬間に起こる副作用であり、この感覚も嫌という程味わった。


「……」


 俺は今一度自らが作った華を観て唸った。間違いなく過去最高の作品であり、品評会に出したら相応の評価が得られという確信さえあった。名もなきアトリエで生まれた名もなき一品を俺が作り出したのだと、遅れながら感動の念に震える。


 とにかく写真だ。


 俺は思い出したように転がっていたカメラを手に取りツツジとネモフィラが混ざり合う様子を捉えた。連写に次ぐ連写で同じ構図の画が何枚も保存されてしまったが、ご愛嬌であろう。


 しかしいったいなぜ俺が素晴らしい芸術を生み出せたのか……いや、本当は薄々気付いていたのだが、その理由を認めたくないない一心で、写真を撮らねばならぬと無理やりに意識を外に追いやった。


 そう。認めるわけにはいかなかったのだ。

 一度捨てたはずの道から、新たな可能性を見つけたなどというみっともない話しなど、断固として認められなかった。



 あれだけ嫌悪していた陸上から才の芽が出たかもしれないなど、認められるわけがないではないか。

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