第7話

「先に手を出したこちらに非がありますが、ここは公共の場ですから、ご利用になるのであればお子さんのご面倒をしっかりと見ていただきたい」


「その点に関してはこちらの不徳です。今後は注意します。ただ、そちらの暴力行為は本来法に触れるという事をお忘れなきようにお願いします」


 ミーティングルーム(300円)を借りて行われた話し合いは以上で片付き収束。幸いにしてジョージの息子に怪我はなく、双方事を荒だてたくないという意見が一致し、代表である東と志村君が互いに一言刺すばかりで終わった(ジョージはさすがに激怒憤慨していたが警察を呼ぶかと聞くと臆し首を横に振った)。一見日和った判断に思えるが、田舎の小さな界隈で事件など起これば被害者加害者関係なく晒し者となる。110番をしたところで怠惰な警官がやって来て厳重注意をするだけなのだから、話し合いで解決という手段が最もリスクが少ないのだ。不健全ではあるが、是非もない。村社会とはこういうものである。




「ケチがついたな」


 俺はウィンドブレーカーのまま乗り込んだ車の助手席でそんな事を言った。すっかりと消沈している小木は「やんなっちまうて」と不満を漏らす。

 練習は最後まで行われず中止となった。志村君のチームは変わらず走っていたのだが、あちらと違ってこちらは遊びなのだ。東や東の嫁やジョージ。何より、子供達の動揺心傷を捨て置き、呑気に走るわけにはいかない。


「だいたいあいつらいい歳してウィンドブレーカーなんか揃えやがってよー頭おっかしい」


 小木が文句を垂れながらアクセルを踏み込む。法定速度ギリギリのハイスピードは中々に爽快であったが、空気が重く、息苦しい。


「……志村君達あいつら、毎夜競技場で練習しとるんやろ? どうするん? 東もジョージもテンション落ちとったし、嫁さんもええ顔せんやろ。練習やるのキツイんちゃう? というか、本番も危うい気がするんやけど」


 ほとほと参ってしまった俺はつい方言なんかが出てしまった。走らなくともよいのであればそれに越した事はないのだがさすがに後味が悪い。というのも、帰り際に東が嫁に何か言われていたのを見てしまったのだ。十中八九この集まりについての苦言だろう。

 東の嫁は当初よりジョージに対して引きつった笑顔を見せていたし、ジョージの息子を見ている時も手に余る様子であった。関わりたくないのは明白であり、東に対しても、距離を置いてほしいと思っているに違いなかった。それに加えてあんな事態である。抱いていた不信がジョージばかりに留まらずあの場にいた全員に対して向けられるのは至極当然。無理なき事だろう。

 東の嫁とはろくに話しなどはしなかったが、俺がジョージやあの暴力男などと同類と思われては心外だ。可能ならば誤解を解きたいくらいだがまぁ無理だろう。女というものは一度拒絶すると二度目はない。浮世の義理で「水に流します」などと言っても腹の底では厭悪が渦巻き、時折殺意すら見せるのだから恐ろしい話である。


「まぁ、ぼちぼち考えるわぁ。またみんなで練習できるようやったら連絡するで、それまで自分で走っといて」


 いつもの調子がすっかりと落ち着いてしまった小木はそれ以降口を閉ざした。普段は馬鹿の付く陽気を気取っているのだがその実小心で非常に打たれ弱い。部活においてあの人間の屑であり生きている価値のない下衆を極めた真の悪である人徳皆無の糞ゲロ監督に汚物を放るような声で馬鹿馬鹿しい説教を垂れ流された時などそれはそれは情けなくへこたれていたものだ(俺もそうなのだが)。それを鑑みると、やはりこの日のでき事は小木にとって大変ショックであり気を病ませる要因となっただろう。実際俺を自宅まで運ぶ時間、陰鬱とした空気が晴れることはなかった。




「お疲れ。今日は悪かったて」


 俺の部屋がマンション前で車を停めた小木は声だけ大きくしていた。虚勢である。


「あぁ。それじゃあ……」



 車から降り、去りゆくテールランプを見送ると、どっと疲れが出てくる感じがした。およそ2時間余りの拘束であったが心労が絶えず早いところビールと生ハムでささやかながらの宴を堪能したい所存であった。


 しかしながら、どうにも心持ち悪いのである。

 ようやくくだらないジョギングクラブから解放され、しかも大会の出場自体も危ぶまれ万々歳となったはずなのだが、東の嫁に白眼視されたのを除いても何故か決まりが良くない。

 その原因は分かっていた。距離を定めて走り始めたにも関わらずに、途中で達成できなかった不完全燃焼が鬱積として肥大しているのだ。


 これは決して陸上に対して真摯なわけではないし、情熱とか執念といったものでもない。

 俺は今も昔も走る事が嫌いだし、もっといえば汗を流すのさえ御免被りたいくらいなのだが、そうだとしても一度決めた目標を達成できないとなるとどうにも落ち着かずむず痒くなる。俺は半ばで中断した練習に、折り合いがつけられなかった。




「……ただいま」


 階段を上がり扉を開けて小さく帰宅の声を発する。すると、耳聡く聞き取ったのか、奥の方からとたとたと向かってくる足音が響いた。花代である。


「お帰りなさい……どうしたの。暗いけど。なにやら」


 花代が倒置法などを使ってわざと強調するように物を言うときはだいたいこちらの身を案じてくれている時である。冗談が好きな彼女は照れてしまって真面目に心配している態度を取れない。だが、何より感情の機微に聡く、また配慮ができるものだからこういう時は大抵のお願いを聞いてくれる。


 俺はその、彼女の純真に付け込み、一つ我儘を述べた。


「ごめん。片付けお願いしていい?」


 俺が荷物を置いてそう尋ねると、花代は困惑した様子で俺と床に置かれた鞄やらなんやらを交互に見た。


「うん……いいけど……」


「ありがとう。じゃあ、ちょっと行ってくる」


「え、え、今帰ってきたばかりなのに、どこに……」


 花代の返事を聞いた俺は再び夜の闇へと飛び出し階段を駆け下りてアスファルトが敷かれた道路を蹴って走った。


 達成できなかった距離を走らねばならぬ。


 完走せねば気が済まぬ。


 そんな事を思いながら俺は足を動かし、「めんどくさい」と呟く。夜はますます深まっていたが、ケチな街灯が照らしていて不自由はしなかった。

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