第6話
ジョージの息子は血が上り真っ赤に染まったパプリカ面で
「拓海くんが(ジョージの息子の名前である)、この人にぶつかっちゃって……」
東の嫁が消え入るような声で事情を話す。彼女の話が事実であるなら確かに非はジョージの息子にあるのだが、子供を相手に力任せに拘束し怒鳴りつけるというのは大人気ない。明らかに度が過ぎている。確かにコースを周りながらたまに目に入ったジョージの息子のはしゃぎ様は確かに目に余るものであったが、だからといって暴力的処置を是とするわけにはいかず、これは抗議をしなければと言葉を考えていたのだが、先ずの口上を発する間も無く、隣から一声が響いたのだった。
「なにやっているんですか! 子供相手にやり過ぎでしょう!」
東である。あの温厚な男が猛牛が如く吼えたのだ。普段の柔らかな物腰からは想像もつかない激憤ぶりは凄まじく聞いただけの俺でさえつい竦んでしまったくらいなのだが、子供を抑えている男は意に介さず、太々しくもこちらに怒鳴り返してくるのだった。
「テメーのガキかこいつ!」
男は怒り慣れているといった様子で俺達を睨みつける。気配は獣のそれと等しく、粗にして野であり卑であった。可能であれば関わりたくないタイプの人間である。
これは想像なのだが、この男はきっと短気で所構わずキレ散らかすタイプの人間に違いない。赤黒い肌色に吊り上がった目。そして後退著しい頭髪を見れば察しはつくというもの。こういう手合いは案外どこにでもいて腫れ物のように煙たがられ忌避されているのだが、本人はそれを「畏れられている」と頓珍漢な解釈をして自身の中で自身の存在階級を実際よりも高く認識してしまうのだ。
若い頃ならば経験と知見の広がりにより増長を恥じ謙虚さを見せるようにもなるのだが歳をとるとそうもいかない。事に彼の男は見た限りもう40に差し掛かろうかというド中年(特別老けて見えるだけかもしれないが)。今更「自分は無価値なカスだ」などという現実を受け入れられるはずもなく、自分が特別であり万物に敬われなければならないと主張する、ひたすらに厄介なだけの存在として迷惑をかけ続けるしかないのである。
しかしそんな、きっと仕様もないだろう男が相手にも関わらず、東は臆す事なく立ちはだかり意見を述べる。
「知人の子ですが、放っておくわけにはいきません。離していただきたい」
即座に冷静となり要求を突きつける東は実にクレバー。対面している男と比べると器の差が歴然である。
「こいつは人の練習を邪魔しやがった! 許せねぇよ!」
だが東の言葉は男に届かず、尚もジョージの息子を掴んだまま喚き散らすのであった。聞く耳持たぬというより馬耳東風。頭に入っていない様子。吐いた唾は飲めないといったところか。まったく見苦しい。
「話しは聞く。だから子供から手を離してくれ」
「こいつは俺の邪魔をしたんだ! 許せねぇ!」
何を言っても許せねぇ許せねぇとのたまう男の哀れさといったらない。自身に降りかかった不都合が如何に理不尽であるか示しさずにはおれず、他に受け入れられなければ気が済まないのだ。要は子供の駄々である。俺はそれを見て、この男の精神的成長は遥か早い段階で終わってしまったのだなと可哀想に思えてしまった。この男の人生にも色々あったに違いなく、幼き頃に両親と出かけたり、思春期に好きな女の前で格好をつけたり、青年期には漠然とした将来への不安を感じたり、仕事で悩んだり、酒の席で馬鹿をやらかしたりしていたはずなのだ。そうした経験をした中で、本来得られるはずの慎みや謙虚さといった一般に生きる人間にとって当たり前にある常識と教養を会得できなかったというのは、これはもう不幸としか言いようがなく、俺はつい社会のゴミとして存在する男に憐憫を伴う視線を向けてしまったのだった(もっとも、それもいささか傲慢な話であり、俺には人を哀れむような器量も立場もないわけであるが)。
しかしいくら俺がゴミを見下したところで事態が好転するわけでもなく、相変わらずジョージの息子は捕らえられたまま絶叫し東は強く睨みつけているのである。此の期に及んで声一つ上げられない気骨なき己が心胆に怒りが湧いてくるも事態を収拾する術を知るわけでもなく、声をかけようにも元来からの口下手に何ができるかと無力を恥じ、悔やむばかりなのだ。
考えても見れば俺もあの男と同じ穴の狢であるといえなくもない。結局俺もなにもできず、ただ自己の正当化と言い訳を並べているだけなのである。流されるだけの人生において賢しくも達観したような物をいう凡人のなんと滑稽な事であろうか。改めて思い返すと不甲斐ないの一言。呆れてしまう。
「いいから離せ!」
俺が呆然と立ち尽くしている間に東が動いた。言って聞かぬならば実力行使と男に掴みかかり芝生を二回転三回転。その隙にジョージの息子は解放されたが今度は東と男の泥仕合である。互いに理性はあるのか自らの鉄拳こそ封じていたものの、襟首を握り合いジタバタと踠く決着のつきようのない争いに発展。飛び交う罵詈雑言と悲鳴。いい歳をした大人がこんな無様を晒す羽目になるとは東も気の毒な役をしたものだ。
「多田さん。何かあったんですか?」
そうこうしている内に男と同じウィンドブレーカーを着こなした集団がやって来た。その中には当然志村君もいたが、先程とは違い今度は俺に一瞥もくれずに渦中へと飛び込む。「ははぁ中々気骨のある奴だな」と感心していると、それを皮切りに俺以外の人間が二人を止めようと後に続いていった。志村君は見事ファーストペンギンの役割を果たしたのだ。大したものだ。俺にはとてもできない。
「テメーぶっ殺してやる!」
羽交い締めにされながらそう叫ぶ男を見て俺は檻からしか吠えない犬の動画を思い出していたのだが、こうして述懐しながら他人に好き勝手な思いを添えるのも似たような小心的攻撃精神であり、やはりあの男と変わらないなと自己嫌悪に陥る。東や志村君は立派に大人をしていたというのに、情けない事だ。
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