第5話

 しかし実際東とジョージの息子は美男子とは言い難かった。形容するのであれば大福とピーマンである。いや、実に父親似だ。記憶を辿れば辿るほどコミカルな面が笑いの経穴を刺激してしまう。初対面にてよくぞ爆笑を堪えたと自分を褒め称えたいくらいだ。




「うるさいと思うけどすまんな」


 顔の丸い東は既に疲れ切ったように苦笑いをしながら頭を下げた。こいつはブサイクだが紳士的で、話せば分かるいい奴である。


「まぁガキなんかその辺で遊ばせとけばええやろ」


 一方ジョージはクズであった。このご時世になんという危機感のなさだろうかと呆れてしまう。昔から度の過ぎた楽天家で堕落的な人間であったが、子供ができてもそれが変わらぬとは筋金入りの駄目人間だったようだ。


「それなら、うちの嫁さんが後から来るから大丈夫やよ」


 東である。既に手を打っているとはさすができる男は違うと思ったが、男共の道楽に付き合わされる女房を思うと不憫である。考えようによってはこうした行事に家族で参加できる環境はいいのかもしれないが、普通、夕方から駆り出されて外で子供の面倒を見なければならぬとあればそれはもう大変な仕事であろう。同情と同時に賞賛が湧く。まったく、夫婦揃って特殊な事だ。


「しかし。久しぶりやん佐藤。こっち帰ってきとるなら連絡くらいくれよ」



 そして、さして仲が良くなかったにも関わらずしばらくぶりに会った俺に対しても気軽に話しかけてくる善人ムーブである。これで本当に顔さえよければ文句なしなのだが、神とは残酷なものだ(お前の連絡先しらねーよと思ったが先のセリフは社交辞令であるから黙っておいた)。俺は控えめに「忙しくてな」と当たり障りない返しをして、互いに愛想笑いを浮かべて会話は終わった。中学の頃の同級生などこれくらいの距離感でよいのだ。まったく、東は付き合いやすい。


「おい佐藤。お前結婚したんやって。あっちの具合はどうやよ」


「……」


 それに比べてジョージである。


 あぁまったく失礼千万!


 下品!


 下劣!


 これで子持ちと何の地獄だ。頭が痛くなってくる。

 だがそうだ。そうなのだ。ジョージはこういう下衆な人間なのだ。俺は再会するまでそれをすっかり忘れてしまっていて油断し、不意を突かれた。ジョージの唾棄を催す汚言を生身で受けてしまい気分は最悪。あまりにも許し難く、つい、嫌悪の目で見据えてしまった。


「お、なんや。どうかしたか」


 だが愚鈍なジョージは俺の感情が読み取れなかったようで、実に不思議な顔をしていた。よくはないが、まぁよしである。くだらぬ人間と争ったところで得るものなどないのだ。


「なんでもない」


 俺は極めて冷静に言葉を落とし、一人、一足お先にロッカーへ向かった。無用なストレスを感じるのは御免である。


 ロッカールームは相変わらず小さく、懐かしかった。見るだけで眉をひそめてしまう練習の日々の記憶が蘇り、息が切れる。一息つきたくベンチに腰掛けもたれるも、胸につかえる焼け付いた過去は消えない。


 走るのか……


 ネクタイを緩め、絶望。

 シャツ外し、スラックス脱ぐ。だらしいない身体が目につく。


 こんな身体で、走るのか……


 不安と恐怖しかなかった。下手をすれば怪我をしでかし仕事に差し支えが出るかもしれないと不安が頭を過ぎった。そうなれば、少ない蓄えでどれだけ生活できるか、花代にも負担をかけてしまう。やはり、やめるべきでは……


 中々ウィンドブレイカーに袖が通せず俯いていた。だが、ずっとそのままでいる事は許されず、大きく息を吸って、用意を整える。ロッカールームの空気は相変わらず埃臭く、緊張した体内が毒されていくようだった。ますます走る気は無くなっていたが、ともかくとして、この日だけはやらねばならぬと覚悟を決めたのだった。


 着替えて外に出ると東の嫁さんと、残りメンバーである坂田とまっつんが来ていた。東の嫁さんは少し肥えていたが別段不細工というわけではなかった。小木が誇張したのか、あるいは虚偽を述べたのだ。嘆かわしい。

 これにて全員集合となったわけだが、集まったメンバーの中ではまっつんだけ独身であった。まっつんは悪い人間ではないのだがどこか薄く芯がない。それ故に「つまらない奴」とよく揶揄されていたのだが、どうやら時を経ても彼の人間性は変質しなかったようで、やはりなよとした卑屈な笑みを見せるのである。奴も小木の強引に断りきれずに参加したに違いなく、少し可哀想にも思えたが、俺もそうなのであるから別段気を使う必要もないなと適当に会釈だけしておいた。ちなみに坂田は坂田である。ただの坂田であり、別段語ることもない。




「じゃあ、走ろまい」


 全員が全員バラバラの練習着(東に至っては短パンにランニングシャツである)に着替えると小木が音頭を取り全員で外周コースを3周。これをウォームアップとし、1000m4分ペース組と5分ペース組とで別れ、それぞれ4000m走る事となった。俺は当然5分ペースで適当をキメるつもりであったが、小木に「お前はこっちや」と、強制的に4分ペース組へと入れられてしまったのだった。大きく溜息を吐くと、同じく4分組の東が肩を叩いて笑った。やはりこいつはできた人間であると実感し、「あぁ、本当に顔さえ整っていたら」と思わざるを得なかった




 さて、その後どうなったかといえば凄惨の一言。日頃の不摂生と運動不足がたたり、1000m走った段階で既に発汗多量。呼吸困難となり死に体となってきた。踏み込む脚に容赦なく脂肪で増量した体重の負荷がかかる。かねてより内臓に肉がついてきたなと自覚はしていたが、脚筋の削げた身には過ぎた負荷である。大腿部の機能は著しく損なわれており、一歩進むだけでも多大な出力を要する。

 肺などなお悪い。萎縮しきった房がバキバキと悲鳴を上げ、息を吸う度に胸が裂けそうになるのだ。酸素の循環が阻害されているせいで腕は痺れ前後に振る事ができず、まるで中距離走を疾走しているような苦痛を感じる。

 ごたごたと述べているが、早い話、止まりたいという想いに尽きる。コースを周れば周る程に強まる後悔の念。何度止まろと思ったか知れない。しかし、プライドか虚栄か強がりか分からないが、俺の心に残る一片の魂がそれを拒んでいた。未だ燃え尽きぬランナーの火がしぶとくも粘り強く、逃走を拒んでいたのだ。いや、走ってはいるのだから、逃「走」ではないか……


 何にしろ、俺は走りを止めなかった。


 まだ行ける。

 諦めるには早い。

 あと一歩。あと一秒早く。遠くへ。

 

 現役時代に嫌という程唱えた呪文が脳に反響する。今でこそキロ4分のペースランニング如きで大仰だなと自嘲してしまうが、走っている最中は真剣であったのだから仕方なく、どうしようもない。それにしても、なんだかんだで意地を張ってしまうとは、我ながら往生際が悪いものである。



 だが、そうしたちっぽけな不屈が成就される事はなかった。




「ふざけんなクソガキ!」


 3000mを少し過ぎた頃、コースの端ある芝生が植えられた広場から怒声と子供の泣き声が聞こえたのである。陽は傾き闇が広がり始めている時間。その場にいるのは、東とジョージの息子しかいなかった。




「ちょっと、行ってくる」


 集団から抜ける東を見て、俺と小木は互いに見合って頷いきその後ろをついて行った。芝生に入り見たものは、あの志村君達のチームのウィンドブレイカーを着ている男と、そいつに取り押さえられているジョージの息子と立ち尽くす東の息子。そして、「すみません」と謝り倒している東の嫁の姿であった。

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