第3話
仕事が終わり駅にて缶コーヒーを飲んでいると小木から電話があった。
「今から行くでな。ちゃんと待っとれよお前」
本当は絶対に絶対に絶対に走りたくはなく、電話を切ってからよほど帰ろうかと思ったが、昨晩就寝前花代にやはりやりたくない旨を伝えると「練習だけでもしてみたらいいじゃない」と言うものだから「はい」と返事をする他なく、とりあえず一旦は付き合う事にしたのだった。
しかし気分は最低である。
時間は有限であり貴重なのだ。それをどうしてわざわざ苦痛を得る為に消費しなくてはならないのか。1500m、3000m、5000m、10000m、24km、42.195km……そんな距離を走って何が得られるというのか。そも走るとは何なのか。何のために走るのか。人間の両足で地を蹴ったところで大した速度が出るわけでもなく、また今のご時世勝利の報せを伝えにいく必要もないのである。汗を流すなら野球にサッカーにバスケにその他、楽しみの伴うスポーツが数多にあるというのに、何故よりにもよってジョギングマラソンなんぞを選択する人間がいるのだろうか。摩訶不思議この上ない。
こうして陸自競技を批判すると過去の自分を全否定しているような気分になる。当時から別段楽しくて走っていたわけではなく、中学で何となしに陸上部に入ったらいつの間にか速くなってしまい、とんとん拍子で高校大学と続けるハメになってしまったわけだが、やはり俺の半生は陸上と共にあって、俺という人間の半分を構築している要素である事は変えられない事実なのだ。できることなら、別の道を歩み、別の生を生きたかったものである。
もし当時の俺に助言ができるとしたら「もう少し考えてから物を決めろ」とぶん殴って聞かせてやりたい。考え過ぎもよくないが進む道を安易に決定してしまうのも同じくらいの愚考、愚行であり、岐路に際しては今一度立ち止まり、改めて自身を鑑み将来を見据え、何をどうしたら自らの、または人のためになるのかと篤と深く探って行く先を定めねばならぬのである。当時にそれができていれば俺もうだつの上がらぬ営業などに身をやつさずに済んだかもしれぬ。
あぁまったく、過去をやり直し、生き直したいと思わざるを得ない。覆水盆に返らずも盆に返る様を夢見るのは抗い難い人の性である。もっとも、「推薦なら勉強しなくてもいいや」などと浅はかな理由で進学先を決めた俺が勉学に興ずるなどという面倒をするとも思えぬが……
いずれにせよ、今を生きる俺は並よりやや下回る生活と鬱屈に嘆きながら年寄る哀愁をいっぺんに感じ緩やかに若さと決別していたのである。にも関わらず今更若き日の象徴である陸上に手を出さなければならぬ困惑と恥辱といったらなかった。階段を上がるのさえ息が切れる情けない身体で今更駅伝などと恥をかくばかりで益体も無い。酔狂である。成り行きで練習には参加する事になってしまったがそれも一日限りで、少し走ったら「もう無理だ」とすっぱり諦めて断る腹づもりであったのだった。
缶コーヒーが空になった頃、スマートフォンに着信があった。
相手は無論……
「おう。来たで。ロータリーに停めとるでな。早よな」
心底からせり上がり吐き出される溜息。日頃仕事の心労だけでも持て余すというのに更に肉体を酷使せねばならぬとは何かの懲罰であろうかと、まったく消沈沈殿でんでん太鼓なローテンション。ビールが恋しく、帰りたかった。
せかせかと駆けずり回るなど不本意この上なく、嫌だ嫌だと歩きだすも足取りは重い。不意に見えた停めてある車の窓に映る俺の顔はまさしくふて腐れていて不満が滲み出ていた。我が身に降りかかった不幸を呪うしかない。
そんな俺とは正反対な、馬鹿がつくほど明るい能天気な声が聞こえた。
「シンちゃん! こっちやてこっち!」
小木である。
俺の憂鬱をせせら笑うような陽気具合は大変な不愉快であり、ますます走る気力が失っていく。もうそのまま帰ってやろうかと思ったがそうなると花代が怖いし、残念ながら彼奴はマイカー(しかも高級セダンときている。あぁ嫌味ったらしい!)。逃走したところですぐに捕まり競技場へと連行されるだろう。忌々しい限りだ。
「どうも」
「おぅ。ちゃんとシートベルト締めてや」
「あぁ」
一応の挨拶を交わし助手席に乗る。
恐ろしく安らげる座り心地に殺意有り余る。ハンドル握る左手首にはティファニー。募るジェラシー。holy shitな本音は嫉妬。
醜く妬む俺の心はさながらウェストサイドのギャグスタであった。もし場所がLosであったなら右手にClick左手にBibleを持ち小木のsucker headをBangBangのBangにしていただろう。日本に産まれてよかったと神に感謝してほしい。
「ウィンドブレーカー持ってきた?」
そんな殺伐とした俺の心境などまるで知らぬといった様子で小木はヘラヘラと口を開くものだから鬱陶の至りである。そもそも手提げの荷物があるだろう。それで察しろという話だ。
だが斯様な事で苦言を呈していたらきりがない。小木は昔からそういう人間であるわけだから言っても無駄であり無益であるから、俺は目を外に向けながら「あぁ」とだけ呟いた。面倒な相手に反発しても仕様がない。聞き流すのが肝要。それがストレスレスなコミュニケーションの流儀だ。
「シューズは? ターサー? ターサージャパン? シンちゃんが昔から履いてたかっこいいターサージャパン!?」
「うるさいな……デューリストだよ……」
「え? デューリスト? あの安い? 5000円くらいで買えちゃうやつ? どうしたんやシンちゃん! そんな安物履いとっちゃかんに!」
「なんでもいいだろ……ターサーはもう履き潰してないんだよ」
「えー……そうなのぉ……? そんな、シンちゃんがデューリスト……デューリスト……デューリストかぁ……まぁ悪いシューズじゃないけど、やっぱりシンちゃんはターサージャパンってイメージやわぁ……あぁ……見たかったなぁ久しぶりに……シンちゃんがターサージャパン履いて走るところ見たかったなぁ……!」
「……」
「見たかったなぁ! ターサージャパン履いて走る! シンちゃんの走る姿をなぁ!」
「うっさいわ! 集中して運転しろや!」
ストレスレスなコミュニケーションの流儀はストレスフルなコミュニケーションを吹っかけてくる相手に対して無力であった。
……本当は、小木の言うターサージャパンは、一足だけ使える状態のものがあった。それは自分でも忘れていて、出社前に実家へ寄って練習着などを引っ張り出す際に見つけたのだが、あれを履いてしまうと何だか本気になって挑まねばならぬような気がして持ってくるのを止めたのだった。代わりとして手にしたデューリストは、大学時代に通販のポイントを使って無料で手に入れたものである。
過去は過去のまま置いておきたく、わざわざ掘り返したくはない。当時の気概も気力も体力も、走るのをやめた俺にはもう、ないのであった。
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