第2話
俺はなんと非常識な奴だろうかと思った。いい歳した大人がアポなしで、しかも所帯持ちの人間の家にやってくるだろうか。いや、こない。普通ならば遠慮するべきところであり、日を改めるか、電話で済ますのが一般的なマナーといえよう。それをこいつは一切無視してやって来たのだ。何用かは存じなかったが思考回路が昭和の田舎者である。到底相容れるものではない。
「こんな時間になんだお前は」
開口一番に嫌悪を示す。だがそれも当然。この後俺は風呂に入り、上がったらバラエティ番組を鼻で笑いながらビールを飲まねばならないのだから、小木のような人間に付き合う暇はなかったのである。
「なんやお前、花なんか見とるんか。乙女かて」
だが、がさつでデリカシーの欠如が見られる小木が俺の心を察する事などできようはずもなく、でかい声で無遠慮にズカズカと狭い部屋に入り込んであたりの物をベタベタと触るのであった。俺は聖域が悪玉に穢されていくのが忍びなく我慢ならず、思わず怒鳴りそうになったが嫁の手前そういうわけにもいかず、何より、悲しい事に斯様な人間にも昔の
「……とりあえず、ビールでも飲んでいけよ」
「お、悪いねシンちゃん」
恥も外聞もなく当然のように誘いを受けた小木は俺よりも先に部屋から出てリビングに向かった。斯様な奴に奮発した黒ラベルを出さねばならぬのかと思うと痛惜の念に堪えなかったが、客である以上はもてなさなくてはならず(呼んだわけではないが)、実に、大変遺憾ながら、高級ビールを用意してやった。
「黒ラベルとかブルジョワやなぁ。さすがシンちゃん。じゃあ、いただきます」
おどけながらニヤつく面をぶら下げた小木は悪ふざけそのものでありまったく癪に触った。しかし、せっかくの酒の席を怒気で台無しにするのも気が引けるなと、仕方なく奴の失礼を水に流し俺は黒ラベルのプルタブを開けた。風呂上がりにソファに座ってゆるりと飲むはずだった黒ラベルが身を清める前に空いてしまうとは何たる不幸か。俺は一瞥に殺意を込めて小木と杯を交わしたのだが、やはり愚鈍な田吾作権兵衛には伝わらず、ニヘラと崩した顔を整える事なくだらしなく口を開くのだった。
「いやぁ。こうして話すのも久しぶりやなぁお前。いやお前、久しぶりやなぁ」
小木は既に酔っていたのかと思うほどに陽気に笑い早速一本缶を空け、「もう一本もらうで」とニ本目の黒ラベルに手をかけた。腹立たしかったがそれを咎めるのも大人気ないと、「好きなだけ飲め」と勧めたのだが当然内心穏やかではなく、腹の底では大いに惜しみ、また憎むのであった。
田舎者というのはまったく図々しいものだがその中でも小木は特別卑しく図太く遠慮がない。悪人というわけではないのだが、そうした奴の悪徳にはほとほと閉口するばかりであり、一年に二、三度共に飲むと決まって暴飲暴食を働くものだから、それに付き合うに当たっては常に成人病を意識せねばならないのである。不健康極まりない。
「あ、よかったらこれ、召し上がってください。お口に合うかどうかは分かりませんが……」
花代がそう言って出したのは俺が作ったひじきであった。彼女は俺への礼を失する事がままある。わざとなのか無意識なのかは聞いていない。
「そんな、悪いですよ。そんなそんな、そんなつもりじゃ……いやぁありがとうございます」
そして小木はやはり小木であり、口だけ遠慮しながら小鉢をしっかり掴むと「美味い美味い」と言って平らげてしまったのだった。それは俺が朝食用に残しておいたものだぞとつい文句を吐きそうになったが何とか呑み込みビールの喉越しで顰蹙を薄め澄まし顔をし体裁を取り繕う。こうなってはもう諸々諦観した方が楽なのである。
「それで、何の用で来たんだ」
そうしてようやく俺は本題を問うた。如何に小木とて何かしら話しがあってやって来たに違いなく、であれば、さっさとこの招かれざる客を追い出すためにも、まったく興味がなく知りたくもないが、訪ねてきた理由を聞いてやろうと考えたのだ。
「何ってお前、駅伝の事に決まっとるやないか。メッセージ送ったやろ。今日行くから、色々決めよまえって」
「……はぁ?」
「はぁ? やないわ。見ろよお前。お前お前。ちゃんと見ろよ友達からのメッセージを。だからお前あれなんやぞ。カオちゃんにも嫌われ……あ、しまった。ごめんてシンちゃん。綺麗な奥さんおるのにシンちゃんの初恋相手の話なんかして……」
小木の言葉にクスクスと笑う花代。実に不愉快である。昔から喧しく要らぬ事を言う奴であったが酒が入ると尚質悪い。閉口しっぱなしである。
「お前なぁ……」
「早よ見てやシンちゃん! シンちゃん見て! 早よ!」
口を挟む間も無く急かされる。まったくうるさい。こうもせっつかれるともはやメッセージを読まぬわけにはいかず、渋々と、仕方なしにスマートフォンを操作(充電器に置いておいたのをわざわば花代が持ってきた)すると、確かに小木が言ったような事が一方的に記してあり、俺は軽く目眩を覚えた。なぜこうも人の意思を無視できるのか、それが分からないのだ。
「じゃあ、明日からみんなで練習するで、19時に競技場な。シンちゃんは車ないから、俺が送迎したるわ。しゃなしやで。感謝しろよお前。で、どこで待ち合わせる? 駅? それともここ?」
その勝手さにはさすがの俺も憤慨の色を隠しきれず、冗談じゃないと怒鳴ろうとした。
しかしその時である。花代が横から、わけの分からぬ妄言を挟んできたのだ。
「お家までは悪いですから、駅になすったら? 貴方だって、一度帰ってから練習するなんて億劫でしょう」
お前は何を言っているんだ。
頭の中でそう叫ぶ。我が妻の信じられない一言に俺はテーブルをひっくり返しそうになった。だが、小木が畳み掛けるように「了解! なら明日な!」と立ち上がって俺の肩をバンバンと叩くものだからそれも叶わず、有無も言えずに練習へ参加する事になってしまった。
「それじゃ、邪魔したねシンちゃん。ほなまた明日」
代行タクシーを呼んで帰る小木を玄関で見送り、俺は傍に立つ花代の方を向き、聞いた。
「なんで走らせようとするの……」
「だって貴方、最近お腹がみっともないんですもの。痩せた方がいいわ」
「……」
ぐうの音も出ない正論に項垂れた俺は疲れてしまい、風呂に入って寝支度を整えた。小木に半パック飲まれてしまった黒ラベルは残り一缶しかなく、明日飲もうと冷蔵庫に入れと置いたのだが朝に見たらなくなっていた。誰が掠めたのかは明白であるが、俺は何も言えなかった。
こうして俺は、自らの意思に反して再び陸上などというマゾい競技に身を晒さなければならなくなったのである。その日、例の現役時代の夢を見たのはいうまでもない。
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