風に揺れる花

白川津 中々

第1話

 忌々しく鮮明にあの暗黒時代の記憶が海馬から漏れ出し睡眠を妨げるというのはよくある事である。

 灼熱の、あるいは極寒の、はたまた霞暖まる、もしくは草木朱に染まる中、息を切らし、汗を流し、足を痛め、憎しみを抱きながら地を駆けていた当時の狂気の沙汰の一片が湧いて出てくると、勢い余って飛び起き、心臓が引きつけを起こして呼吸が乱れ、吐き気を催しながらも安堵し、あぁ、もう走らなくともよいのだ。と、胸をなでおろす夜のなんとくたびれる事か。中学から大学まで続けた陸上競技の呪縛は現役引退から10年の時を経ても薄れる事はなかった。過ぎ去った淡い青春の思い出などと美化できぬ地獄の日々は、しっかりと俺の精神に苦痛の楔を打ち付けているのである。

 長く続けて得たものといえば辛苦の経験と肥満知らずスタイルばかりで社会においてはクソの役にも立たぬものであった。あれだけ苦労したのは何のためだったのだろうかと、今でも真剣に悩む日がある。


 それ故に大学を卒業した際に立てた不走はしらずの誓いは死ぬまで破らぬ信念としたかったのだが、まったく、人生とは不条理極まりないものだ……





 小木からメッセージがあったのは帰りの電車に乗っている時だった。

 

 来月の市民駅伝のメンバー足りんでお前出場な。


 綴られた身勝手な一文には呆れ返るばかりである。

 メンバーの募集はまだ分かる。奴には二度と走らぬ旨伝えた筈だが、伺いを立てる程度であればまだ許した。だが、メンバーが足りないから出場しろとは何たる傲慢不遜であろうか。左様な傍若を許せるほど寛容ではなく、またお人好しでもない俺はすぐさま「絶対にノゥ」と返信しスマートフォンをしまった。その後バイブレーションが何度か続いたが全て無視し、過ぎ行く車窓の眺めを見ながら、その日飲む酒の事を考え帰路に着いたのだった。







「お帰りなさい。ごめんね。まだ、ご飯できてないの」


「いいさ。お互い仕事がある身だ。一緒に作ろう」



 せっかくの定時上がりにケチがついた為に気分を変えようといつもの第3ビールではなく黒ラベルを買い帰宅すると、花代が申し訳なさそうにそう出迎えてくれた。本音を述べるのであればさっさと夕食にありつきたかったのだが、彼女とて仕事があるのである。見れば剥げかけの化粧に着崩したスーツという出で立ち。どうもついさっき帰ってきたばかりの様子。互いに働き、互いに疲れているのであれば、とてもではないが、文句を言う気にはなれない。


「ありがとう」



 それでも謝意を述べる花代はできた女である。家事はどれをとってもいま一つな女であるが、それを補って余りある心根の善さが俺には魅力的に思えていた。


「早く作ってしまおう」


 向けられた視線に頬が熱くなった俺は、照れ隠しに手早く手を洗い調理の準備をした。

 気力は低下していたが始めてしまえばなんとでもなる。花代が切った食材を炒め、盛り付けるまでに20分とかからぬ作業。実に容易い。料理に限らずなんでもそうだが、物事はやり始めるまでが億劫なのであって、実際に事が始まれば「こんなものか」と、肩透かしをくらう事がままあるのだ。




「いただきます」


「いただきます」


 料理が無事完成し彩られた食卓を前に手を合わせる。

 野菜炒めと作り置きの煮物とインスタントの味噌汁という学生めいた献立であるがそれもやむなし。食にこだわりがないわけではないが、それなりのものを作るにはやはりそれなりに時間がかかる。人間歳を重ねれば重ねる程自由に使える時間が減っていくもので、毎日毎日気合いの入った料理を作れるほど、有限希少な自由は安くはないのである。

 




「いただきました」


 食べ終わって洗い物を済ますと、俺は「ちょいと活けてくる」と席を立った。

 花代は「またぁ」と小言を呟いたが、あれもあれで化粧を落としたり撮り溜めしたドラマを消化するのに忙しいのだからおあいこだろう。これからは互いに個人の時間。干渉は厳禁である。




 玄関のすぐ横に位置する、本来は物置に使う狭い部屋。そこには脚の長い机が一脚あり、周りに花瓶、剣山、冷蔵庫、柄杓、スポンジ、敷板、錐などを置いている。

 これは全て華道に使う道具である。俺は毎晩この部屋で一人花を活けているのだ。

 詳細は省くが、ちょっとした縁でとある展示会へ行った際、誠見事な作品を目にし、それ以来華の道に魅せられ、俺は花を活ける趣味を持った。独学故に手前は分からず(流派なんぞを聞かれるので道具を揃えるのに苦労した)、完全に感性でやっている為感覚でしか良し悪しの判断は付かぬが、それでも、俺は人間の手で形作る花と緑による神秘の領域に心奪われていたのだった。



 俺は部屋に篭り、花瓶に挿していたアルメリアとアリッサムを使い、感じるまま、思うままに花器へと活けていった。

 本来であれば真だの副だの体だのと考えねばならぬようだが、生来の大雑把がそうした理論を拒否し、ただ、やりたいようにやり、したいようにした結果として前衛芸術のような作品が毎度できあがる。

 俺はそれを写真に写しアルバムにしたため、たまに見返す。すると、どれもこれも首をひねるようなデキの華ばかりが収められているのである。できた当初は「まったく天才だ」と自画自賛するのに、日が経つとまるで別の作品のように見えてしまうのだ。どうすれば自分の納得のいく作品ができるのか、花を華として飾れるのかと悩む日々を送るも、「まぁ趣味だ」と開き直る低俗には、我ながら僻遠している。



 奴がやってきたのは、そうしてできあがった珍妙不可思議なでき栄えの華を「上手くいったぞ」と、フィルムに収めていたところであった。


「シン君。お客さん」


 ノックの後に聞こえる花代の声に俺は訝しんだ。斯様な夜分に訪ねてくる不心得者が如何なる人物であるか、まったく見当もつかなかったからである。


「誰」


 と聞く間に勢いよくドアが開いたのだが、ドアノブに手をかけていたのは彼女ではなかった。果たして正面に立っていたのは……



「よぉ。元気しとったかよ」



 夕方に迷惑千万なメッセージを寄越してきた彼の大無礼者。小木であった。

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