第4話 色気ある子はからかってくる

 手の内で缶をくるんと回してみれば、真っ黒に染まった液体が揺れた。まだ口を付けてないのに、唾液が苦く感じる。

 正直しょうじき言って、俺もブラックコーヒーは苦手にがてである。

 そもそもコーヒーよりも緑茶りょくちゃだ。

 そして普通のお茶より昆布こぶちゃがいい。

 昆布茶と言えばいくつかある散歩さんぽルートに茶葉屋があるのだが、そこで売られている梅昆布茶はかなり美味い。夏の暑い日なんかは、休憩きゅうけいがてら店先みせさきで飲んで行くことがある。

 夏の飲み物はえた甘酒あまざけつめたい昆布茶。この二つでいい。今は春だけど。しかもちょっと寒い。


「……はあ」


 なんて、かんがえたところでブラックコーヒーが好物こうぶつに変わるわけがなく。

 いつまでもぼうっと眺めてるわけにもいかないし、交換したとは言え菊理きくりの金で買ったもの。飲まずに捨てるのは気が引けた。

 たかがショート缶190mlミリだ。さっさと飲み干して――


「あら、飲まないのかしら? それじゃ、いただきま~す」

「え」


 ベンチの後ろから伸びてきた手に、缶コーヒーがさらわれた。

 思わず後ろを振り向けば、苦々にがにがしい無糖コーヒーをなんなく飲み干して、なおもおだやかに、余裕の頬笑ほほえみを浮かべるヤツがいた。

 その微笑びしょうを見て、思わず全身が総毛そうけつ。


「うん? どうしたのかしら~、誠君?」

「……いや、なんでもねえよ、みどか」


 悪戯いたずらっぽく口の端を上げ、背もたれ越しに前屈まえかがみになって俺の顔をのぞき込んできた。

 ゆるく纏められたつややかな緑髪からは、思わず鼻孔びこうを広げてしまうような甘い匂いが漂ってくる。

 桜花おうかのシャンプー、れん制汗せいかんスプレーのような日常生活に付随ふずいして付いたものじゃない。

 これは香水こうすいとかの「嗜好品しこうひん」の匂いだ。


「もう~私の名字の発音はだって言ってるじゃない。それに、私のことは、ゆりって呼んで欲しいんだけどなぁ」

「はいはい、わーったよ、緑丘みどおか

「素直じゃないなあ、誠くんは。そういうところがいいんだけど」


 緑丘みどおかゆり。小柄こがらで子どもっぽい菊理きくりとは、違う意味で高校生離れしている。ただただ艶然えんぜんとしていた。

 胸はブレザーを押し退けるほど大きく、おっとりとした雰囲気ふんいき色気いろけのある頬笑みは、「大人びている」というよりも「成熟せいじゅくしている」の方が形容けいようとして合っているさえ思う。


「隣、座るわね~」

「……相変わらず、ちかいんだよお前は……」


 隣に座った緑丘は、ピッタリと体を寄せてきた。

 お陰で匂いがよりただよってきて思わず顔を逸らしてしまった。これはあれだ、男をダメにする匂いだ。高校生がさせていいものではない。

 咄嗟に、こぶし一つ分横に移動いどうした。

 これは逃げじゃあ無い。警戒けいかい対象たいしょうから距離を取ることを選んだだけだ。うん。

 正直しょうじき言って、俺は緑丘が苦手である。色気にむせる……と、言うだけでなく。


「いいじゃない~。こうやって、間接キスした仲なんだから~。お陰でブラックコーヒー、すっごーく甘く感じたわよ~?」

「残念だったな、それに口を付けたのは菊理だ。俺じゃあない」

「……つまり私、菊理ちゃんと誠くん、三人が絡み合う濃厚のうこうなキスを?」

「だから俺は口は付けてねえって!?」

「ふふ、知ってるわよ~。だって最初から見ていたしね~」

「お前はまた……」


 こうやって、なにかにつけて絡んできては俺をからかってくるのである。

 おっとりとろいように見えるがところがどっこい、穏和おんわに見えてそのじつ腹の中は真っ黒で、状況じょうきょうを引っかき回し他人たにんを振り回すのが好きなたちが悪い女だった。

 だがのんびりとした雰囲気ふんいきで、怪しむ奴をけむに巻く。

 栄桜ウチはクラス替えがないが、一年間接してきたクラスメイトでもこいつの本性ほんしょうに気付いてるのは十人もいない気がする。


「はあ……緑丘、そうやって他人をからかうのは止めた方が良いぞ。その内、面倒ごとに巻き込まれるぞ?」

「でもその時、私が助けて~って言ったなら、誠くんは助けてくれるでしょう?」

「お前の自業じごう自得じとくだろうが。断じて断る」

「そう言ってる誠くんが他人を放っておくの、私は見たことないけどな~。今朝けさの橙山さんとか、ね?」


 びくり、と肩が跳ねた。どうやら坂道のあのやり取りを見られていたらしい。だがどこでだ。あそこは学校まで一本道、隠れられるような場所なんてないはずだ。今さっき背後はいごに忍び寄られていたこともあるし、そのかなりの存在きょにゅ……存在感そんざいかんに反して気配を消すのがかなり上手い。


「それに私だって、人は選んでるわよ~? こういうことは、誠くんにしかしないもの」

「それは俺がからかいやすいからか?」

「いいえ~?」


 いつもの、のほほんとした仮面のような頬笑みの影から、本物の口の端が見えた気がした。それはほぐれた糸のようにたわんでいて、見惚みとれてしまうほどの笑顔。


 「だってアナタは、すごくいい人だもの。さっきソーダを買ったのだって、菊理ちゃんにあげるつもりだったんでしょう? 誠くんは、朝はいつも緑茶を買うものね?」

「緑丘、お前、本当によく見てるな……ぶっちゃけ怖いぞ」

「もう、こうしたのは誠くんなのよ~? 素の私を知ってても、付き合ってくれるのなんてアナタぐらいのものなんだから~」


 ……まただ。

 いつも張り付けたような笑顔をしてるくせに、たまにこんな、柔らかい表情を見せる。慈しむような、尊ぶような。普段の弄ぶような態度と口調は崩さないくせに、印象通りの母性を感じさせる表情かおだ。

 ――これも俺をからかうためにしている表情なのか。それとも、素の笑顔なのか。全く掴めない。

 だけどその笑顔だけは、正直言って嫌いになることは出来なかった。

「アナタぐらいのもの」と言われて、妙に昂ぶる胸が忌々いまいましい。もしこれがいつものからかいの延長上にあるならドキドキするのは負けなのに。……なんだか、無性に悔しくなってきた、

 弄られてばかりいるのも、しゃくだ。


「なんだかんだ言っても、お前だって優しいけどな?」

「え?」

「代わりにコーヒー飲んでくれてありがとよ」


 反発するのを一時辞めて、胸襟きょうきんを開けてみた。

 すると緑丘の顔から微笑は消えて、キョトンとした表情かおに変わる。まさか反撃かんしゃされるとは思ってなかったのだろう。完全にきょを突けたらしい。――と、思ったんだけども。


「……ふふ、やっぱり誠くんて素敵すてきな人ね~。本当に、アナタと一緒にいると、楽しいわ~」

「俺は気を張るけどな」


 あっと言う間に、微笑かめんを被り直された。やはり、一筋縄ではいかないらしい。

 一瞬開けた心の門をすぐに閉じて、そっぽを向いた。

 いつまでも受け入れる準備をしていたら、内側からとろけさせられてしまう。


「……前々から気になってたんだがよ、なんでお前、俺にこんな絡んでくるんだよ」

「今言った通りよ~? 誠くんが素敵な人で、一緒にいると楽しいから。素の自分でいても、見捨てずに接してくれるから。それに……」

「それに?」

「…………私のこと、知った気でいる態度が面白おもしろいんだもの」

「は?」


 含みのある言葉に、思わず「どういう意味だ」と振り向いてしまった。

 するとそこにあったのは、鼻先がくっつきかねないほど近づけられた緑丘の顔。

 垂れていながらまるくて形の良い目がこっちを真っ直ぐ見つめてきて、瞳にうつる自分の輪郭りんかくが、見えるほどだった。

 思わず引き掛けたが、さっき引いた時にベンチのはしまで移動していて、手すりに腰が当たってそれ以上はいけなかった。


「――たしかに、他のクラスメートよりも、あなたは私の素を知ってる分、詳しいかもね? でも、あなた、私について、何も分からないじゃない?」

「それは……」


 わざとらしく文節ぶんせつを区切る度に、1mm近付いてくる。逃げ場がない俺は背中を反らすしかないが、緑丘はそんなのお構いなしで、おおかぶさるように身を寄せてきた。

 本職グラビアアイドルも目を見張るような豊かなむねが、俺の胸板に乗せられる。柔らかく、でも確かな質量しつりょうがあるそれは、シャツ二枚をへだてていながら、俺の体に熱を送り込んでくる。

 心地良い。思わずそんなことを思ってしまう。

 ふっくらと瑞々みずみずしいその頬は、代謝たいしゃの良い童女どうじょのように、淡い桃色に染まっていた。

 閉じられた口から漏れ出る吐息が顔を撫でる。息さえもかんばしく、もしかしたらこの香水のような香りは緑丘自身の内から発されているんじゃないかと思ってしまうほど。

 なにも、言い返せない。

 鼻と鼻が、くっつきかけた、その瞬間。


「ふふ、やっぱり誠くんとお話しするのって、楽しいわね~」


 くすりと笑った緑丘は、背もたれに手を掛け「よいしょ」と体位たいいを戻す。そしてそのまま立ち上がり、スカートの乱れを直した。


「それじゃあ私、教室に戻るわね~。……ありがと、誠くん、お話、楽しかったわ~」


 こっちを振り向いた緑丘は、あの柔らかい笑顔で軽く手を振ると、フワフワと舞う綿毛のように、身を軽やかに本棟ほんとうの中へ姿を消した。

 いつもゆるくてのんびりしてるのに、今日はその背中が少し、速く見えた気がした。


「…………ちくしょう……」


 今回はやられっぱなしだった。いや、今回も、だ。

 今思えば確かに、緑丘のことを知った気でいたかも知れない。だけど俺は、緑丘について何も知らない。

 ったく、なんだか自分が気恥ずかしい。変な汗が出て喉が渇いた。

 ……あれ、そういえば。


「俺、なにも飲んでなくね……?」

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