第2話 女友達はフランクである

「一年ってもふざけてるとしか思えねえ」

相変あいかわらず冗談みたいだよねえ、これ……」


勾配こうばい10%」と黄色と黒で書かれた標識ひょうしきを横目に、桜花おうかと二人並んでゆっくりと登る。

 キツい傾斜けいしゃの坂の上、およそ150mのぼった先に、俺達が通う学校がある。

私立しりつ栄桜さかえざくら高校こうこう今年ことし創立そうりつ99年のふるい学校で、生徒総数およそ470人。

 この神勢かみせに本社を構える大企業だいきぎょう、『エイリビングス』と親密しんみつで、しゃへの高い就職率しゅうしょくりつがウリらしい。

 だけどあまり気にせず入学する生徒も多い。

 俺もそのクチだ。家から近いし成績的には難なく合格できるから選んだ。……だけど、この坂と三年付き合うことも一考に入れておくべきだったんじゃあないか、過去の俺。お陰であと二年、俺はこの坂を登っていかなきゃならんぞ。


「大丈夫か桜花。お前、体力無いだろ?」

「もう慣れちゃったよ……。うーん、足が太くなっちゃうなあ」


 時刻じこくは七時半。部活の朝練あされん開始には遅く、登校にはまだ少し早い。お陰でこの坂を登るのは、俺と桜花をのぞけば、わずかばかり。

 えらく静かで穏やかな朝だ。こういう朝なら良いかもしれない。

 なにせ死んだような顔をする学友がくゆう共を見ながら登るのは辛いところがある。人生は元気が一番だ。

 ……だけども。


まことーおっはようー!」

「のわっと!?」


 ドン! と背中を思い切り張られる。

 重心じゅうしんを前に置いていたから、危うく倒れるところだった。

 なんとかって持ち直しながら、後ろを後ろを見た。

 ……元気がありすぎるのも、考えものだと思う。

 こんな朝っぱらからエンジン全開で精力せいりょく旺盛おうせい遠慮えんりょ無く全力で他人の背中を引っぱたくような奴は、俺が知る限り一人しかいない。


「なにしやがるよ、れん……」

「おはよう、蓮ちゃん」

「うん、桜花もおはよう!」


 女子じょし指定してい桜色さくらいろのジャージに身を包んだのは、明るい長髪をポニーテールにわえた女子。身長は177cmある俺よりちょっと低い程度で、手足はすらっと長く、スポーティな印象を受ける。

 よく日に焼けた肌は健康けんこう的で、そのニッカリとした笑顔はもう一つの朝日あさひみたいにやたら眩しかった。

 橙山とうやまれん。栄桜高校陸上部のたん中距離ちゅうきょり走の選手で、桜花の従姉いとこで俺にとってはもう一人の幼馴染おさななじみ

 甲斐甲斐かいがいしくて世話やきな桜花とは逆で、むしろサッパリして細々こまごまとしたことを気にしない気質きしつは付き合いやすい。

 ただ、バイタリティがありすぎるのはどうかと思う。

 

「朝練か?」

「うん、外周がいしゅう3周! これで4周目!」

「お前、つくづくバカだと思ってたがとうとう計算けいさんすらできなくなったか……」

「まだまだ体力があるからやってるだけだっつのー!」

「ぐえ、おま止め……!」


 首に腕を回して、ぐいと絞めてくる蓮。蓮がいるのは坂の下の方。だから体重が掛かっていて、結構けっこうまっている。というかこれ、完璧かんぺきまってるな。ああ、うん、これは普通にヤバい。……ヤバい!

 背中せなかに柔らかい二つの感触かんしょくがあるが、それはそれ、これはこれ!

 今は命の方が大事だいじだ。それには蓮のだ。反応するなど今更いまさらだ。

 桜花に視線で助けを求めたが「私日直だから行かなくちゃと」そそくさと行ってしまった。

 おのれなぜここで捨て置く!? いつも俺を面倒見てくれる優しい幼馴染はどこにいった!?


「あ、そうだ誠」

「げほっげほっ……なんだよ……」


 青空がやたら近く見えた瞬間に、拘束こうそくかれた。

 肺にどっと入ってきた空気が美味い。

 知らなかった。春の空気が、朝の空気こんなに澄んでいるなんて。空気っていい。呼吸ができるって最高。800m走り抜けた時は息も吸うのも辛いのに。

 呼吸ってのは大事だ。生きる為には必要なんだ。俺は今日初めて、そんな当たり前なことに気付いた。

 喜びを噛みしめて振り向けば。


「誠も走ろう!」


 蓮は俺の手を取って、やたら熱い視線を注いできた。……またか、と思わず「うへえ」と顔をしかめてしまう。

 なぜか蓮はこの通り、やたらと走ろうとさそってくる。

 ……いや、なぜかっていうのは変か。実際中学までは、一緒に走っていた。

 しかし、だ。


「すまんな、用意がないから無理」

「えー、いーじゃんいーじゃん、大丈夫だって!」


 いーじゃんと言われても今は制服ブレザー、靴も愛用のスニーカーは洗濯中につきローファーだ。これでは走りづらくて仕方しかたないし大丈夫なことはないだろう。

 しかも外周ということはこの150m坂を含めて900mぐらいはある。完全装備でも御免ごめんこうむる。

 そもそも。


「俺は、もう陸上辞めたんだから。走る理由がないんだよ」

「大丈夫、これを機にまた始めれば問題ない」


 なんで快刀かいとう乱麻らんまの名案を思い付いたみたいなキメ顔をして、割と普通なことを言ってるんだろうね、この女友達ばかは。

 いやまあ、その単純たんじゅんさが好ましくもあるんだけども。なんだかんだいって一緒に馬鹿やるのは楽しいし。

 だけど、一度手放したモノにまた手を伸ばそうと思えるほど、俺は器用じゃない。


だんじてことわる」

「出たよ誠の「断じて断るくちぐせ」。あーあ、誠と一緒じゃないと、張り合いでないんだけどなあ。やっぱ大事なのはライバルだって」

「ライバルって言ったって、もうお前の方が速いだろ?」

「いやいや、メンタルの問題だよ。誠と走るんだよ? 本気でやるに決まってんじゃん!」


 俺は陸上をやってた時、蓮と同じ中距離をメインにやってた。蓮は練習の時も男子の練習に混じっていて、肩を並べてトラックを走った回数は千や二千じゃ足りないだろう。

 男子の世界スピードに合わせて走ってきた蓮は、今では陸上部のエース。他校のトップクラスの選手にも負けていない。

 たしか他県たけん他地方たちほうの名門校からもスカウトが来たとか聞いたけど、なんでか全国出場経験が一度しかない栄桜ここに入った。

 ……いや、なんでかっていうのもおかしいか。蓮の目的は、間違いなく。


「ライバル欲しいなら、他の学校に良きゃあ良いのに」

「分かってないなあ誠は……アタシは、誠と一緒に走りたいんだって!」


 ……この通り、とうの昔に走るのを辞めた俺と、また走るためだ。

 蓮はねたように唇を尖らせて、俺の腕をぐいと引き寄せて抱え込む。

 ふにり、と、腕がなにかに挟まれた。

 身長しんちょう相応そうおう成長せいちょうしたそれは、確かなやわらかさを持っている。

 制汗せいかんスプレーの匂いかそれともシャンプーの匂いなのか。かおった甘い芳香ほうこうと合わせて、頭にうったえかけてきた。

 さすがに普段ふだん気にせずとも、こうふとした瞬間に「蓮は女の子だ」と思い知らされる。あまり認めたくはないが。

 ……どうやら、引きそうにないらしい。


「……しょうがねえなあ。ーったよ、じゃあ明日、陸上部に顔出すから。ペースメーカーやってやるよ。明日なら体育あるから体操服持ってけるし」

「マジで!?」


 観念かんねんして懇願こんがんけると、蓮はパッと離れた。腕が解放されて、妙な安心感が心に浮かぶ。

 いったいどこまで嬉しかったのか、蓮は目をキラキラと輝かせて真っ直ぐ見ている。

 ……これじゃあ、なにか予定よていをつけてすっぽかすのも気が引ける。

 今さら無理とは言えないし、明日はちゃんと付き合わなければ。


「ああ、マジ、マジもマジだ。だからほら、さっさと続きやれ。サボってたってコーチに言うぞ」

「げ、それは勘弁! じゃあ、また教室でね誠! 明日の部活、楽しみにしてるからー!」


 うげえ、っと顔をしかめたのは一瞬で、蓮はあの眩しい笑顔になって、手を振りながら坂を駆け上がる。

 相変わらず速い。その上、全く疲れた様子ようすもない。いったいどこにそんな体力を秘めているのかサッパリ分からん。

 最後に付き合ったのは確か、年始めの自主練の時だったっけか。モチの食い過ぎで体が重かったから付き合ったが、もうだいぶ、差を付けられていた。

 ――だけどそのことに、全然悔しさが湧かなくて。

 もう本当に陸上を辞めてしまったんだなと、深く認識にんしきしてしまう。

 思い出すのは中学時代。トラックを全力で駆け抜けたあの日々。

 今はひどく遠く思える、何色でもない思い出だけだった。

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